戦国時代最後の戦いとなった大阪の陣で、ほぼ天下を手中に治めた徳川家康を震え上がらせた武将・真田幸村(さなだゆきむら)。
「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、武士(もののふ)」と言われ、現代の戦国時代を扱った歴史ゲームでも人気を集める武将です。
信濃国(長野県、岐阜県の一部)の国衆でしかなかった真田家の次男坊がなぜ後世に名を残すほどの武将となっていったのか?
真田幸村の生涯とともに彼が使った刀や鎧兜、家紋などについても触れながらその謎に迫ってみたいと思います。
生い立ちは人質生活
永禄10年(1567年)または元亀元年2月2日(1570年3月8日)生まれ、この頃の真田家は武田晴信(たけだはるのぶ・信玄のこと)に帰属していた信濃国小県郡の国衆でした。
真田幸村(正式名は信繁)は当時の真田家当主・幸隆(ゆきたか)の三男・昌幸(まさゆき)の子で、昌幸は当時は武藤氏の養子となっていましたが、兄である信綱(のぶつな)、昌輝(まさてる)が相次いで戦死したため真田家を継ぐことになりました。
織田、徳川連合軍によって武田氏が滅ぶと、昌幸は織田信長に恭順の意を示して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されますが、その代わりに幸村は織田関東攻略軍司令官・滝川一益(たきがわいちます、かずます)のもとへ人質として赴きます。
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が討たれると、旧武田領は上杉、北条、徳川の奪い合いとなり、この間隙を縫って真田家は上杉氏の傘下となり、幸村は今度は越後へと人質として赴きます。
織田信長の後継者として豊臣秀吉が台頭してくると昌幸は秀吉に帰順し、真田家は正式に独立大名となります。
しかし幸村は今度は秀吉のもとで人質になるべく大坂へ行くことになります。
重用され、関ヶ原の戦いへ
幸村の大阪での生活は人質とは思えないものでした。
幸村は秀吉の馬廻衆(今で言う親衛隊)として約2万石の知行を得ており、秀吉の家臣で敦賀5万の大名・大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を正室に迎えました。
幸村は秀吉から伏見城の普請を命じられたり大坂、伏見に屋敷を賜ったりと大名格の扱いを受けており、父・昌幸とは別家とされていました。
幸村は秀吉からの期待に応えるように小田原攻めでは石田三成(いしだみつなり)軍に従軍して忍城攻めに参加、文禄の役でも肥前名護屋城に従軍しています。
秀吉や秀吉の家臣にもその実力を認められていた幸村は分家の立場であるにも関わらず、従五位下左衛門佐に叙任され豊臣姓も賜っています。
関ヶ原の戦いで敗北
秀吉の死後慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは父・昌幸とともに西軍(石田三成側)に加勢し、家康の三男・秀忠率いる中仙道を西へ向かう約4万の軍勢を上田城で迎え撃ちます。
しかし西軍はわずか一日で徳川家康率いる東軍に敗れ、昌幸、幸村は戦後処理で死罪を命ぜられますが、徳川方に加勢した兄・信幸や兄の姑になる徳川家の重臣・本田忠勝の嘆願もあり、紀州国九度山へ配流となります。
日本一の兵となる大坂冬の陣
慶長19年(1614年)、なんとかバランスを保ってきた徳川家と豊臣家が方広寺鐘銘事件をきっかけに手切れとなり、大坂の街に戦火の足音が聞こえ始めました。
父・昌幸を慶長16年(1611年)に失っていた幸村は豊臣からの加勢を要請する使者を受け入れ、嫡男・幸昌(ゆきまさ)と九度山を脱出、大坂城に入城します。
積極的に討って出る策を提案する幸村に対して豊臣家家臣は籠城策を提案、評議の結果籠城策が採用されると、幸村は大坂城三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる出城を造り、ここで徳川軍を迎え撃ちました。
幸村に従った父・昌幸の旧臣や幸村の直臣、浪人衆を加えた真田軍約5千は鎧を赤で統一し士気も高く、前田、榊原、井伊、松平ら約4万の兵の攻撃を何度も退け、天下に幸村の名を知らしめるこことなりました。
冬の陣は兵糧不足に陥った徳川軍と大砲の威力に驚き、恐怖にかられた淀殿に引きずられる形となった豊臣軍との間に和議が成立、豊臣に加勢した浪人衆の行為は不問に付され、秀頼の身も本領も安堵されましたが、大坂城の守りの要であった内堀と外堀は埋められてしまい、要害としての機能は失われます。
大坂夏の陣、最大の失策
あくまでも豊臣秀頼(とよとみひでより)の大坂城からの退去、豊臣軍の弱体化を狙う徳川家康はありとあらゆる手段を使います。
もっとも手強いと見た幸村に対して最初は信濃内で10万石、幸村がこれを拒否すると、次は信濃一国で徳川方に付くよう懐柔しますが、秀頼に信義を尽くす幸村は使者にさえ会おうとしなかったそうです。
慶応20年(1615年)再び手切れとなったため、徳川家は大坂城を囲みます。
堀を埋められた大坂城では籠城は不可能と豊臣軍の各武将は討って出ます。
幸村は道明寺方面(現在の藤井寺市)の後詰め部隊として1万2千の兵を率いて出陣しますが、濃霧のため兵の集散に手間取って遅参してしまい、先発した後藤基次(ごとうもとつぐ)率いる約3千の部隊は孤立し、数倍にもなる徳川軍大和方面軍先陣・水野勝成(みずのかつなり)隊と全面戦闘となり8時間にも及ぶ激闘のなかで基次は戦死、先発隊は壊滅しました。
遅参した幸村は基次の死を嘆いてその場での討死を覚悟しますが、毛利勝永(もうりかつなが)に慰留され反意し、大坂城への退却戦では殿軍をつとめ、全軍を無事に引き上げさせることに成功します。
伝説級の反撃
大坂城に引き上げた幸村は大野治房(おおのはるふさ)・明石全登(あかしたけのり)・毛利勝永らと最後の作戦を練ります。
右に真田軍、左に毛利軍を天王寺付近に配置し、この軍をもって家康本陣に射撃、突撃を繰返し孤立したところを明石軍が突入、横撃する作戦だったとされていますが、徳川軍の先鋒・本多忠朝(ほんだただとも)隊が毛利軍に射撃を開始、これに毛利軍が反撃を開始し、全面戦闘になり、当初の作戦は頓挫します。
家康が死を覚悟する猛攻開始
幸村は武運つたなきことを嘆きますが、ここを死に場所と覚悟を定め、家康本陣への突撃を敢行し、これに呼応した大野、明石らの隊も徳川軍を押し返したため、徳川軍は総崩れとなります。
幸村率いる真田軍は松平忠直(まつだいらただなお)率いる1万5千の軍を撃ち破り、途中数多くの徳川軍の部隊と交戦しながら家康本陣を目指し、家康の馬印目指して2度突撃を敢行、馬印は倒され、家康自身、死を覚悟するほどの真田軍の猛攻だったと伝えられています。
幸村の最後
しかし大野治長(おおのはるなが)が秀頼の出馬要請に城に戻ったのを大坂勢が退却と勘違いし、戦線が乱れたところを徳川軍に反撃され、逆に大坂勢が全面退却に追い込まれます。
真田軍も力尽き撤退しますが、突撃による疲弊消耗は激しく、各所から駆けつけた徳川軍に攻められ遂に崩壊します。
幸村は安居神社の境内で休んでいたところを松平忠直軍の組頭・西尾宗次(にしおむねつぐ)に見つかり「手柄にされよ」の言葉を残して討たれました。
享年49歳、戦国武将の壮絶な生きざまを見せつけた人生でした。
真田幸村は架空の人物?
世間一般には真田幸村として広く知られていますが、自身が自ら幸村を名乗った史料は一つも残っていません。
大阪の陣で家臣に与えた感状にも幸村の花押が書かれており、幸村の文字はありません。
幸村の署名がある古文書は2通現存しますが、明らかな偽物で幸村自身が幸村と名乗ったことはないのが通説となっています。
幸村の名前が登場したのは4代家綱の時代で寛文12年(1672年)に出版された難波戦記が最初とされており、この中で真田左衛門佐幸村と名乗ったと記述が有ります。
幸村の幸は祖父・幸隆、父・昌幸の幸、村は家康に仇なす妖刀村正の村を取ったとの言い伝えや、真田が仕えた武田信玄の弟・典厩幸村(てんきゅうのぶしげ)と区別するための名乗りであったなど真実のような解釈もありますが、事実ではないようです。
真田幸村の兜と刀
真田幸村の兜は大きな鹿の角が一対備え付けられ、前方には六文銭の飾りが施されたもので、父・昌幸から九度山へ配流されているときに譲り受けたとされています。
文献にもこの兜をかぶっていたとの記述が多く残されており、仙台真田家に実物が残っています。
使っていた槍は十文字槍で柄は細く作られ色は鎧に合わせて赤く染めていたそうです。
刀は日本で最も有名な日本刀・正宗を使用、脇差は正宗の子(養子とも言われている)貞宗の一振りだったと伝えられています。
腰の刀が妖刀村正だったと言う伝聞がありますが、村正を徳川家康が忌み嫌った事と幸村が徳川家康を追い詰めた事が相まって創作された話のようです。
家紋
真田家の家紋、旗印と言えば六文銭(六連銭とも言われています)ですが、この家紋は祖父・幸隆時代から使用が始まりました。
ただ戦に出陣する意味合いが強い家紋であったため通常は結び雁金、州浜、割州浜などが使われていましたが、徐々に平時でも六文銭を使うことが多くなっていったそうです。
三途の川の渡し銭と言われる六文銭を旗印にして、戦場に出る決意を表した真田氏の心意気が汲み取れる家紋と言えます。
名言
旗印同様に真田の心意気を示した幸村の名言を幾つか紹介しておきます。
名言①
大阪冬の陣の後、幸村の活躍を見た家康が使者を派遣して幸村の寝返りを打診したときに幸村が返した言葉です。
1度目が信濃内で10万石、2度目が信濃一国と条件を吊り上げてきたのに対して怒号を発し、日本国半分もらっても秀頼公を裏切らないと言い切ったそうです。
名言②
道明寺の戦いに遅参した後の大坂城への撤退戦で殿軍を勤めた時に徳川軍に向かって叫んだと言われています。
徳川軍は百万いようともその中に本物の男子は一人もいないと徳川軍を罵り、味方の士気を鼓舞しました。
名言③
大坂夏の陣で徳川家康の本陣に向けて突入する時に采配を降り下ろして言った言葉だそうです。
死ににいくのがわかっていながらあまりにもその決意が爽快で潔く、現代でも人気を集めるのがわかる気がします。
真田幸村の子孫
真田幸村には男女合わせて三男九女の子供がいたと言われています。
嫡男・幸昌(通称・大助)は大阪の陣で父とともに戦死、もしくは秀頼に殉じて自害したと伝えられています。
次男・守信(守信、通称・大八)、大坂城落城時に伊達政宗の家臣らに救出されのちに仙台藩士になり、仙台真田家の先祖となったと言われていますが、大八は早世したとの記録もあるため真偽は不明です。
三男・幸信は幸村が死去して2か月後に誕生しており、母が豊臣秀次の娘であったため秀次の旧姓である三好姓を名乗り、姉の嫁ぎ先である出羽亀田藩の藩士となりました。
現代にも真田幸村の末裔を名乗る方が数名いるようですが、大助が大坂城落城時に秀頼を連れて脱出して生き延び、薩摩へ逃れた説があるように、真田幸村の子供たちには複数の異なる行く末の記述があり、未だに真偽は確認されていません。
さいごに
真田幸村は長い人質暮らしを経験し、豊臣秀吉の側に出仕してから一気に運命が変転し、最期は日本一の兵として歴史上の伝説となりました。
幸村は戦国武将の子息としてはさほど変わった人生ではなく、ごく当たり前の経歴の持ち主と言えます。
最期の戦となった大阪の陣で活躍し大きくクローズアップされますが、他にも活躍した大坂方の武将は多く彼だけが突出していたわけではありません。
ですが死後60年が経ち、真田幸村は真田三代記や真田十勇士などの講談や物語で活躍するスーパーヒーロー真田幸村として復活すると、本当の真田幸村以上の存在感を示してしまい、真田幸村という虚像が一人歩きしていきます。
息子の大助同様に幸村が豊臣秀頼を連れて鹿児島へ脱出、天寿を全うした伝説が残るように、真田幸村の墓は全国各地、有名なものだけでも8ヶ所もあり今も日本中で老若男女問わずに慕われています。
真田幸村という武将はこれからも日本史という歴史のなかで語り継がれ、真田幸村という武将はこれからも伝説のなかで人々の心に残る存在となっていくのでしょう。