鎌倉幕府に引導を渡し、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とともに新しい時代を切り開こうとするも路線の違いから対立し、自らが頂点に立って新しい武家政治の時代の幕を開けた足利尊氏(あしかがたかうじ)。
室町幕府初代征夷大将軍として約240年続く京都を中心とした足利氏15代の政治体制の基礎を作った人物です。
足利尊氏が歩んだ道を学びながら家系や子孫、肖像画や2ヶ所に存在する墓所について彼の名言集を織り混ぜながら調べてみました。
源氏の名門、足利氏
清和源氏の一流である河内源氏の支流の家柄となる足利氏は、鎌倉幕府では初代将軍・源頼朝の一門としての処遇を受けた門葉(もんよう)の格式である御家人でした。
尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日、足利貞氏(あしかがさだうじ)と側室・上杉清子(うえすぎきよこ)の間に丹波国何鹿郡(いかるがぐん、現在の京都府綾部市)で誕生しました。
元応元年(1319年)10月10日、15歳で従五位下治部大輔に任じられ、鎌倉幕府御家人としては破格の待遇を受けています。
その上、後に鎌倉幕府執権となる北条守時(ほうじょうもりとき)の妹・赤橋登子(あかはしとうし)を正室に迎え、前途洋々の人生のスタートを切ります。
揺らぐ鎌倉幕府、尊氏の選択
ところが元弘元年/元徳3年(1331年)父貞氏が死去、兄で嫡男であった高義(たかよし)が貞氏よりも先に世を去っていたため尊氏が足利家を継ぎます。
するとこれに合わせたように後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府打倒を企て、笠置で挙兵(元弘の乱の始まり)、鎌倉幕府は尊氏に討伐を命令します。
尊氏は貞氏の喪中のため出陣を一旦は断りますが、再三の督促で仕方なく出兵し笠置と楠木正成(くすのきまさしげ)が立て籠る下赤坂城の攻撃に参加、ともに鎮圧し足利尊氏の軍事的評価は高まりましたが、尊氏の不満は大きく戦勝報告もせず帰国してしまいました。
この乱に参加した後醍醐天皇は隠岐島へ配流、天皇に味方した貴族や僧侶も死罪や追放処分を受けます。
しかし2年後の元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出、伯耆国船上山に籠城し、再び倒幕の旗を掲げます。
幕府は尊氏が病気療養中であったにも関わらず出兵を要請、北条高家(ほうじょうたかいえ)とともに尊氏は上洛しますが、高家は緒戦の山崎の攻防であえなく戦死してしまいます。
これをきっかけに鎌倉幕府の対応や処遇に不満を抱いていた尊氏は、後醍醐天皇からの再三の誘いに応じることを決し、丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)でついに反鎌倉幕府の兵を挙げます。
六波羅攻め、鎌倉幕府の滅亡そして建武の新政
倒幕の兵を挙げた尊氏は幕府に不満を持つ各国の御家人に軍勢催促状を発して味方を募ります。
播磨国守護・赤松則村(あかまつのりむら)や近江国など6カ国の守護職・佐々木道誉(ささきどうよ)らがこれに応え、尊氏軍は鎌倉幕府の京都の要である六波羅探題に攻め込み陥落させます。
これに呼応するように関東でも上野国の御家人・新田義貞(にったよしさだ)らが決起、鎌倉へ攻め込み鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉幕府にかわって政権を握った後醍醐天皇は天皇親政による政治を開始、勲功第一と称された尊氏は官位も進められ、多くの所領も与えられましたが、政権の要職に就くことはなく配下の高師直らを政権に送り込むのみでした。
後醍醐天皇との対立、新たな武家政権樹立
建武2年(1335年)信濃国で北条時行(ほうじょうときゆき)を盟主とする北条氏残党による中先代の乱が起こり、鎌倉が陥落し占拠されます。
鎌倉に駐屯していた尊氏の弟・直義(ただよし)を救援するため尊氏は後醍醐天皇の許可なく軍勢を率いて鎌倉に攻め込み、時行を追い出してこれを回復しました。
尊氏は京へは帰らずに鎌倉を本拠にして武家を中心とした政権作りを開始し、功あるものに独自に恩賞を与え、後醍醐天皇の上洛要請も拒否しました。
これに怒った後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じ、奥州から鎮守府将軍・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が南下し始め、足利勢は挟撃されることとなり、劣勢に立たされます。
ここに至り尊氏は後醍醐天皇に叛旗を翻すこと決意し、新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破ると京都へ進軍し、後醍醐天皇を比叡山に追いやって入京します。
しかし体制を建て直した新田軍に楠木正成率いる軍勢が合流、奥州から上洛してきた北畠軍も加わり、足利軍は再び劣勢となり京から撤退、京都の奪還を謀った豊島河原の戦いで新田軍に惨敗し、尊氏は赤松則村の助言を受け入れ、体制の建て直しのため九州へ下りました。
怒濤の反撃、一気に天下を掌握
九州へ下った尊氏は少弐頼尚(しょうによりひさ)など九州や西国の武士らの支持を集め急速に勢力を拡大して東上、建武3年(1336年)5月25日に湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を撃破し、再び京都を手中にします。
足利尊氏は後醍醐天皇に和議を申し込み、光明天皇に三種の神器を譲らせて光明天皇を正当な皇位継承者とし、建武式目十七条を制定して新たな武家政権の樹立を宣言しました。
しかし後醍醐天皇はひそかに京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、独自の皇統・吉野朝廷(南朝)を宣言し、尊氏が擁した光明天皇の北朝とに皇室が分かれて対立することになります。
延元3年/暦応元年(1338年)尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられ、名実ともに室町幕府が誕生しました。
翌年に後醍醐天皇が崩御すると足利勢の南朝への攻撃は激しさを増し、北畠顕家、新田義貞らが次々に戦死、北朝へと寝返るものも出始め、正平3年/貞和4年(1348年)に高師直(こうのもろなお)が吉野を焼き払って攻め落とすことに成功しました。
足利直義派と高師直派の対立、観応の擾乱
尊氏は弟の直義に幕府の政務を任せ、自身は軍事や家臣への恩賞だけを統括したため、室町幕府の権力が二分化されていきます。
特に尊氏の側近・高師直と弟・直義との対立は激しさを増していき、遂には直義が正平4年/貞和5年(1349年)に師直を襲撃、これに師直派も反撃すると言う武力衝突へと進展し、師直の武力に押された直義は引退を余儀なくされ、出家して幕府を去ります。
直義の後継には尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)が就きますが、九州で尊氏の子で直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)が直義派の勢力を拡大、これを討伐に尊氏が出陣するとこの隙をついて直義が京都を脱出して南朝と和解、これに直義の旧家臣が集結し義詮を京から追い出します。
京に戻った尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで破れ、京都は完全に直義派に抑えられてしまいます。
尊氏は高師直の出家と政務からの引退、配流を条件に直義と和睦し京都に戻りますが、高師直は護送中に関東管領・上杉能憲(うえすぎよしのり)に暗殺されてしまいます。
戦に勝利した直義は政務に復帰しますが、直義のやり方に反感を持つ武将も多かったために自然と尊氏の回りに人が集まり、直義は再び政務から引退することになりました。
義詮の台頭と直義の死
室町幕府の安定をはかるために尊氏は直義の失脚だけではなく完全な排除を目論んで南朝に接近しこれと和睦、直義追討の綸旨を得ることに成功します。
これを察知した直義は京都を脱出し鎌倉へ逃亡しますが、これを追い掛けた尊氏軍は薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)、相模早川尻の戦いと直義軍を撃ち破って直義の捕縛に成功して鎌倉に幽閉、しかし正平7年/観応3年(1352年)2月に直義は急死、尊氏による毒殺説も囁かれました。
尊氏の関東遠征で政治的空白地帯となった京都では和睦を破った南朝派が京を支配、尊氏も新田や北条の残党によって攻撃され鎌倉から退却しますが、すぐに反転攻勢をかけて鎌倉を奪還、京都でも義詮が佐々木道誉らの支援を受けて京都から南朝派を追い出します。
しかし今度は直義派の山名時氏(やまなときうじ)、楠木正儀(くすのきまさのり)らによって再び京都を奪われます。
義詮は尊氏の帰還を待って山名、楠木連合軍を撃ち破り、京都を奪い返します。
尊氏最後の戦い、そして終幕
正平9年/文和3年(1354年)に足利直冬を盟主とする旧直義派が蜂起し京都に大攻勢をかけて来ました。
尊氏はこの攻勢を持ちこたえる事が出来ずに一旦は京を離れますが、義詮や佐々木道誉、赤松則祐(あかまつのりすけ)の活躍もあり、最後は尊氏自らが東寺にある直冬の本陣を急襲してこれを敗走させ、京都での戦闘に終止符を打ちました。
尊氏はなおも直冬を追討しようとしますが、義詮に強く制止されたために断念、このあと尊氏は戦場に立つことなく正平13年/延文3年(1358年)4月30日、直冬本陣を急襲したときに受けた背中の傷が悪化し、これがもとで戦に明け暮れた54年の人生を終えました。
足利尊氏の墓
延文3年(1358年)5月2日、足利尊氏の葬儀は真如寺 (しんにょじ、臨済宗相国寺派、京都市北区) で行われ、5月6日には初七日の法要が等持院(とうじいん、臨済宗天龍寺派、京都市北区)において行われました。
このため京都でのお墓は等持院に作られましたが、足利基氏が父を偲んで建てたと言われる長寿寺(ちょうじゅじ、臨済宗建長寺派、神奈川県鎌倉市)にも尊氏の遺髪を埋葬したと伝わる五輪塔があります。
足利尊氏の肖像画
京都国立博物館に所蔵されている「騎馬武者像」は、2000年頃までは日本史の教科書に「足利尊氏肖像画」として紹介されていました。
これは徳川幕府8代将軍・吉宗の孫で老中でもあった松平定信(まつだいらさだのぶ)が編纂した『集古十種』で尊氏と紹介されていたためですが、この肖像画には2代将軍義詮の花押が書かれていることや、馬具の輪違の紋が足利氏の紋と異なることから肖像画が尊氏ではないとの疑念が持ち上がりました。
輪違の紋は尊氏の側近・高師直の家紋であったため、肖像画の人物は師直本人又は息子の師詮(もろあきら)、師冬(もろふゆ)との推測も出ています。
これに対して多々良浜の戦いに出陣した尊氏の姿を描かせたという記録が残っており、その時の格好がこの肖像画に近かったとの説もあります。
後醍醐天皇に叛旗を翻した時に、家来ともども元結を切り落としたエピソードも残っていることから、肖像画が尊氏かどうかの決着はいまだについていません。
足利尊氏の子孫と家系
清和源氏の流れを汲む名門足利氏の当主として、室町幕府をひらいた尊氏の子孫たちはどうなっていったのでしょうか?
尊氏には6人の男子がいたと伝えられていますが、聖王丸(せいおうまる)、竹若丸(たけわかまる)は早世しており、英仲法俊 (えいちゅうほうしゅん)は僧籍に入り曹洞宗の僧として77歳の生涯を全うしています。
残りの3人が義詮、基氏、直冬です。
足利義詮の子孫
足利義詮は室町幕府2代将軍となり、義満(よしみつ)、義持(よしもち)、義量(よしかず)まで5代直系男子が続きますが、義量に実子がなく6代は義満の五男・義教(よしのり)が継ぎます。
この後は何度か養子を立てて足利将軍家は15代まで続きますが、尊氏と血の繋がりがない将軍が擁立されることはありませんでした。
足利基氏の子孫
足利基氏の系統は鎌倉公方として関東に駐留しましたが、その後は衰退していきます。
しかしその子孫は喜連川氏(きつれがわし)として、江戸幕府徳川将軍家の客分大名家となり10万石待遇を受けて幕末まで存続、明治維新後は華族として足利氏に複名して存続しました。
足利直冬
足利直冬は尊氏の弟の直義の養子となり、尊氏と直義が対立した時も養父である直義側に終始付きました。
尊氏との争いに破れて京を終われたあと消息不明ととなっていますが、一説には3代義満と和解し、石見国で余生を送ったとも伝えられています。
尊氏が遺した名言
日本史上僅かに3人しかいない幕府を開いた人物となれば、やはりその発言には相当な重みがあるものです。
足利尊氏が後世に遺した名言を紹介しておきます。
他人の欠点や悪いところを見つけて中傷する者は、自分の欠点や悪いところには全く気がついていない。
ネット社会と言われる現代を痛烈に批判するような言葉ですね。
ネットで他人を批判する人物は己の愚かさには気づいていないものです。
人を見るときはやはり長所を見つけて、相手を認める事からスタートしたいものですね。
「文武両道」という言葉を学生の時に先生や両親から聞かされて耳が痛かった方も多いのではないでしょうか。
学問=文、武道=武のどちらが欠けても己の希望には届かないという意味です。
足利尊氏の希望、夢とは天下をとることだったのかどうかはわかりませんが、その努力があったからこそ室町幕府を開き、天下に号令する将軍にまで上り詰めたのは事実です。
54年の人生で不利な状況の方が多かった尊氏の人生ですが、諦めることをせず常に前向きに物事を進めた足利尊氏の生き方から私達が学べることはたくさんあるのではないでしょうか。