マッカーサー元帥は、アメリカの軍人、陸軍元帥です。
第2次世界大戦後、日本で連合国軍最高司令官として進駐し民主化政策を行いました。
戦争犯罪の追及で、ソ連やアメリカは戦争責任は天皇にあると考える中、昭和天皇と歴史的会談を行った勝利国のマッカーサーは、敗戦国の日本の占領統治のために昭和天皇は必要な存在であると確信しました。
そんなマッカーサーの生涯やマッカーサー三原則、昭和天皇とのエピソードや名言をご紹介いたします。
マッカーサーの生い立ち
ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックで軍人の父・アーサー・マッカーサー・ジュニアの三男として誕生しました。
この頃、西部開拓時代の末期であたっため各地でインディアンとの争いがあり、マッカーサーが生後5か月の時、ニューメキシコ州のウィンゲート砦に移り住みます。
しかし、その後、父の転属のためフォート・セルデンの砦に移ることとなり、幼少期はほとんど軍の砦の中で生活していたとされています。
1898年になると米西戦争が始まり、父は准将となり、スペインの植民地であるフィリピンへと移りました。
その後、行われた米比戦争においても父は活躍し在フィリピンのアメリカ軍司令官となります。
1896年にマッカーサーは海軍少尉として任官し、兄もアナポリス海軍兵学校に入学、弟も陸軍士官学校に入学するための勉強中であったことから、フィリピンには移りませんでした。
1896年、西テキサス士官学校を卒業したマッカーサーでしたが、アメリカ陸軍士官学校に必要な大統領や有力議員の推薦状を貰えなかったため、母を通じて下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることとなります。
出世する
その後、ウェストサイド高等学校に入学し、主席で卒業すると、陸軍少尉に任官されます。
マッカーサーは、エリートが集まる工兵隊を希望し第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であるフィリピンへと向かいました。
1905年、父は日露戦争の観戦のため駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となります。
この際、マッカーサーも副官として東京に訪れていました。
その後、マッカーサーはアメリカに帰国すると、1906年にセオドア・ルーズベルトの要請で大統領軍事顧問の補佐官となります。
その後、1911年に大尉に昇進し、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命され、1912年には陸軍省に栄転となりました。
第一次世界大戦
1917年4月、第一次世界大戦において、アメリカはイギリスやフランス、日本などの連合軍と帝国主義国家のドイツ、オーストリアと対戦することが決まります。
この戦闘準備のため、マッカーサーは全米26州の州兵を市民軍としヨーロッパへと派遣することを提案しました。
この提案に対し、ニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官も賛成したため第42師団が編成されるようになります。
この第42師団は1918年2月、西部戦線に参戦し、参謀長であるマッカーサーも最前線で戦いました。
マッカーサーは前線で偵察するなども行い、度々危険な目に遭い、第一次世界大戦中に戦場において2回負傷した経験も残されています。
少将に昇任
第一次世界大戦後の1919年には、陸軍士官学校の校長に就任します。
その後、1922年になるとフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され、妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックスとともにフィリピンへと向かいました。
このフィリピン勤務で、マッカーサーはフィリピンのコモンウェルス初代大統領マニュエル・ケソンと人脈を結び、1923年におきた関東大震災の際はフィリピンから日本に支援物資を送りました。
この功績が認められ1925年には44歳での少将と昇任し、再びアメリカへと帰国します。
友人・ウィリアム・ミッチェルの軍法会議
少将となったマッカーサーの初めての仕事は友人・ウィリアム・ミッチェルにかけられた罪の軍法会議の判事でした。
友人のウィリアム・ミッチェルは陸軍軍人で熱心に航空主兵論を語る人物です。
防空体制を嘲笑う意見を公表するなどしたため、『軍の秩序と規律に有害な行為』と見なされ、軍法会議にかけられました。
この判事を行ったマッカーサーは友人のウィリアム・ミッチェルに対し無罪を投じましたが、マッカーサー以外は有罪を投じていたためウィリアム・ミッチェルは有罪となり除隊されることとなりました。
アムステルダムオリンピックでアメリカ選手団団長となる
1928年に行われたアムステルダムオリンピックにおいてマッカーサーはアメリカ選手団団長となりました。
マッカーサーはオリンピックに勝つために来た。と強気な発言をマスコミに公表しましたが、期待とは裏腹に多くのメダルを獲ることはできず、選手団に連日非難の声が寄せられることとなります。
この頃、妻・ルイーズがアメリカで浮気を繰り返したため、1929年に離婚となりました。
その後、再び在フィリピン・アメリカ陸軍司令官に任命され、フィリピンへと移ります。
この時、マッカーサーはアメリカがフィリピンの防衛に対し手薄であたっため、ワシントンに抗議、アメリカ陸軍フィリピン人部隊の待遇改善、強化などを行います。
私生活では女優・エリザベス・イザベル・クーパーとの交際が始まりました。
第二次世界大戦
フィリピンの防衛の強化をワシントンに依頼していましたが第二次世界大戦は始まっても改善されませんでした。
しかし、第二次世界大戦で敵対する日本と戦争になった場合をワシントンは想定し、急遽、フィリピンの防衛強化がなされることとなります。
マッカーサーは1941年7月、中将として現役に復帰し12月には大将に昇進となり、アメリカとフィリピンの統合軍であるアメリカ極東陸軍の司令官となりました。
急遽、ワシントンによってフィリピンの防衛対策が強化されると、新兵器の大型爆撃機B-17、急降下爆撃機A-24、戦闘機P-40などが配備されます。
また海軍のアジア艦隊も強化され潜水艦23隻がワシントンから送られました。
このように日本に対する防衛はしっかり行われていましたが、一方、フィリピン軍の兵士たちは、共同訓練の経験がなく、また言語も違うためコミュニケーションをとることが困難な状況でした。
太平洋戦争
こうして1941年12月8日、日本がハワイの真珠湾に攻撃を仕掛けたことによって太平洋戦争が開始されます。
12月8日にフィリピンのマッカーサーのもとに真珠湾が攻撃されたことが伝えられましたが、マッカーサーは真珠湾で日本軍は撃退されると考えていたため、行動に移しませんでした。
このように日本の軍事力を過小評価していたため、日本軍から攻撃を受け12月13日にはアメリカ極東空軍は壊滅となり、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城するように命令しました。
その後、マッカーサーはフィリピンを脱出します。
第二次世界大戦において日本は広島、長崎への原爆の投下、ソ連対日参戦において「全日本軍の無条件降伏」などを求めたポツダム宣言を受諾し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で戦争終結のための調印式が行われたことによって、日本は正式な降伏となりました。
こうして日本は、アメリカ軍やイギリス軍、中華民国軍を中心とした連合軍の支配下に置かれるようになります。
マッカーサーは調印式が行われる前の8月30日に厚木海軍飛行場に到着しており、その後、調印式に参加、連合国軍最高司令官として日本の占領任務にあたりました。
日本の占領方針
戦後の戦争責任問題において、マッカーサーは日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である、平穏な日本統治のためには天皇の威厳と、天皇に対する国民の愛情は不可欠と考えていましたが、他の連合国や、アメリカ国民、対日強硬派などは昭和天皇に戦争責任追及を求めていました。
このように、マッカーサーと他の連合国の考えが一致しないために、連合国全体の方針を決定するまでには紆余曲折があったとされています。
A級戦犯の逮捕
戦争犯罪の逮捕者のリストはアメリカ陸軍防諜部隊(CIC)が作成しており、さらに国務省によって要求された人物も加えられ第一次A級戦犯38名が逮捕されました。
この逮捕者の中にいた、東條英機は自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺するなどし、最終的に逮捕されたA級戦犯は126名となります。
昭和天皇との会談、エピソード
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は占領下の日本にマッカーサーが支配者であることを知らしめるために、昭和天皇との会談を要求しました。
また昭和天皇もマッカーサーとの会談を希望していたとされます。
1945年9月27日、駐日アメリカ大使公邸で行われた会談の際、駐日アメリカ大使公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えませんでしたが、昭和天皇が退出する際は、マッカーサー自らが見送りをするといった、予定になかった行動を行いました。
この時の会談の際、くつろぐマッカーサーと礼服に身を包む直立不動の昭和天皇を撮影された写真が29日の新聞に掲載されたため、国民は大きなショックを感じたとされています。
マッカーサーと昭和天皇の詳しい会話内容は残されていませんが、マッカーサーと昭和天皇は信頼関係を築き、その後も、11回にわたって会談が行われました。
マッカーサーの三原則
その後、1945年10月4日、マッカーサーは憲法改正の作業を開始します。
この憲法改正は、GHQによって作成された草案に日本が修正を付け加えたもので、この日本国憲法を草案したのはコートニー・ホイットニー民政局長という人物でした。
マッカーサーは、コートニー・ホイットニー民政局長に対し、日本の憲法改正において守るべき三原則を示します。
この三原則とは、天皇を元首とする、戦争の放棄、封建制度の廃止というものでした。
この三原則を受けたコートニー・ホイットニー民政局長は三原則に基づいた憲法草案を作成し、2月13日にマッカーサー草案が提示され、日本側によって修正され、1946年11月3日に新憲法である日本国憲法が公布されました。
マッカーサーの最期
その後に起きた朝鮮戦争において国連軍総司令官に任命されるも、トルーマン大統領と対立し解任されます。
そして1950年4月16日マッカーサーはアメリカに帰国しました。
帰国後、退任を決意したマッカーサーは4月19日に退任演説を行います。
退任したマッカーサーは全国遊説の旅に出て各地で遊説を行いました。
1952年になるとレミントンランド社の会長に迎えられ、その後、スペリー社に買収された際も、スペリー社の社長となります。
その後、1964年3月6日、肝臓、腎臓の機能不全のため入院すると4月5日午後2時39分に84歳で亡くなりました。
元帥という立場
マッカーサーは生涯、アメリカ陸軍、フィリピン陸軍の元帥となった人物でした。
元帥とはアメリカ軍の軍人に与えられる最高位の階級です。
この最高位の階級である元帥の上にも大元帥というものがあります。
マッカーサーは元帥よりも高い階級の大元帥の地位を与えるという提案がなされましたが、マッカーサーはこの提案を拒否したため、新たな陸軍大元帥は誕生しませんでした。
名言
マッカーサーは日本統治についての質疑が行われた際、このようなことを述べています。
この発言を日本のマスコミは「文化程度は少年」と否定的な部分を強調して報じ、社説には、マッカーサーに対し苦言を呈しました。
これまで、マッカーサーは日本国民から「マ元帥」と呼ばれ大変人気がありましたが、このような否定的な言葉を強調した報道がなされていく中で、征服者であるマッカーサーを支持していたことを恥じるようになり、マッカーサーの人気は無くなっていきました。
しかし、マッカーサーは1951年4月19日に行われた演説において、日本を称賛しているため、この「日本人は12歳の少年のようなもの」という発言は、ドイツ人よりも日本人を信頼しているということを伝えたかっただけで、マッカーサーの真意がうまく伝わっていなかったのでは。という解釈もされています。
最後に
マッカーサーと会談した昭和天皇はマッカーサーとの会談内容を聞かれた際、「マッカーサー司令官と、はっきり、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。男子の一言の如きは、守らなければならない」と述べ、マッカーサーとの会談内容は語りませんでした。
一方、マッカーサーは昭和天皇との会談内容を多くの関係者に話し、また1964年に執筆した『回顧録』には詳細に昭和天皇との会談内容を記しています。