2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」に登場する池部幾江(いけべ いくえ)は日本初のオリンピック選手・金栗四三の義母となった女性です。
オリンピックに向けトレーニングに没頭する金栗四三に仕送りを送るなどし、金栗四三の良き理解者として彼を支え続けました。
そんな池部幾江の生涯や逸話、金栗四三や春野スヤとの関係性をご紹介いたします。
池部幾江と金栗四三との関係性
もともと金栗家と親戚関係であった池部幾江は熊本県玉名郡小田村にある池部家に嫁いだ女性です。
池部幾江が嫁いだ池田家は、資産家であったため、裕福な暮らしを送っていました。
しかし池部幾江は夫との間に子供は恵まれず、またその夫にも先立たれてしまったため、親戚関係であった金栗家の四男・金栗四三を大正2年(1913年)、養子に迎えたいと申し出ます。
この頃、金栗四男は東京にある東京高等師範学校の学生であり、また日本初参加となるオリンピックのマラソンランナーとして明治45年(1912)に開催されたストックホルムオリンピックに出場し、一躍時の人となっていました。
しかし、オリンピックでは良い成績を残すことができず、大正5年(1916)に開催されるベルリンオリンピックに向けトレーニングを開始していました。
そんな金栗四三を養子に迎えたい池部幾江は、金栗四三の兄である金栗実次に養子に迎えたいと頼み込んだとされています。
こうして金栗実次を通して金栗四三は池部幾江の養子となり、金栗四三は池田家を継ぐこととなりました。
春野スヤを金栗四三の結婚相手として紹介
金栗四三が池田家の跡取りとなりましたが、この頃金栗四三は結婚しておらず、池部幾江は医者の娘・春野スヤを結婚相手として金栗四三に紹介します。
金栗四三の結婚相手として紹介された春野スヤは金栗四三のマラソンにかける情熱を十分に理解していたため、兄の金栗実次も春野スヤとの結婚を承諾し、こうして金栗四三は東京高等師範学校を卒業後の大正3年(1914)4月、一度故郷の熊本へと帰郷し、春野スヤと結婚しました。
しかし、金栗四三は結婚式を挙げた5日後には大正5年(1916)に開催されるベルリンオリンピックの練習のため妻・春野スヤを残し、東京へと戻ります。
仕送りを送り、金栗四三を支援する
東京高等師範学校を卒業した金栗四三は就職をすることなく、マラソンの練習に専念していました。
また、練習を行う傍ら各地の学校に出向いて、マラソンの普及活動も行っていました。
これらの費用は金栗四三の良き支援者であった池部幾江が仕送りとして送っていたとされ、そのため金栗四三は、働かずトレーニングに専念することができたとされています。
しかし、結局ベルリンオリンピックは第一次世界大戦の影響を受け中止となってしまいました。
その後も金栗四三は大正9年(1920)のアントワープ五輪、大正13年(1924)のパリ五輪に出場し、パリ五輪を最後に現役を引退しました。
校長就任を反対
現役を引退後、金栗四三は教師として女子体育の普及に努めその後、昭和6年(1931)故郷の熊本へと帰郷しました。
オリンピックに出場した金栗四三が帰ってくるということで、各地から金栗四三に対し校長就任の依頼が来ましたが、池部幾江は金栗四三が校長に就任することを反対し、就職せず、マラソンの普及活動を続けるよう勧めます。
これに対し、これまで支援してきれた池部幾江に恩を返す意味で、校長就任の依頼はすべて断り、故郷の熊本でマラソンの普及活動や農業支援を行いました。
東京オリンピック実現に奔走する金栗四三を支援
熊本でマラソンの普及活動を行っていた金栗四三でしたが、昭和11年(1936)11月、東京でのオリンピック開催が決定されると、IOC委員の嘉納治五郎から東京オリンピックの準備を手伝ってほしいと要請が入ります。
金栗四三はこれまで支援をしてくれた池部幾江に恩を返すため故郷に残り、マラソンの普及活動をしていました。
そのため、再び上京することを躊躇っていましたが、池部幾江は金栗四三の上京を促し、また妻の春野スヤも上京を勧め、金栗四三は再び上京し、東京オリンピック実現に向け奔走しました。
しかし、昭和12年(1937)に日中戦争が勃発し、この影響で東京オリンピックは実現せず、金栗四三は失意を抱え昭和20年(1945)熊本へと帰郷しました。
熊本へと戻った金栗四三を池部幾江は良き理解者として支え続けたとされています。
まとめ
池部幾江はオリンピック選手となった金栗四三の良き理解者として支え続けました。
金栗四三がオリンピックに向けたトレーニングや、マラソンの普及活動、また東京オリンピック実現に集中できたのは、池部幾江のおかげであったのです。
2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では女優の大竹しのぶさんが池部幾江を演じられています。