川中島の戦いとは?場所や勝敗、山本勘助の関係性についてわかりやすく解説!

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川中島の戦いとは、甲斐国の武田信玄、越後国の上杉謙信が北信濃の支配権を巡って争った戦いです。

この戦は天文22年(1553)から始まり永禄7年(1564)までにかけて、計5回行われており、12年にも及ぶ長い戦となりました。

実際に川中島(長野県長野市の犀川と千曲川に挟まれた三角地帯の地名)で行われた戦は天文24年(1555)の第二次川中島の戦い、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いのみとされています。

そんな12年にも及んだ川中島の戦いの場所や勝敗、山本勘助の関係性についてわかりやすく解説していきます。

川中島が勃発した時代背景と場所

第一次川中島の戦いが勃発したのは天文22年(1553)です。

室町時代末期、東国では鎌倉公方の分裂、鎌倉公方と関東管領の対立などがあり、乱国状態でした。

しかし、戦国期に入ると各地で権力を持った戦国大名が現れ、甲斐国では守護・武田氏、越後国では守護代の長尾氏が国内を統一していくこととなります。

 

武田信玄による信濃の制圧

甲斐国においては、武田信玄の父・武田信虎の代で国内統一がされ、外交面では山内上杉氏・扇谷上杉氏また駿河今川氏、信濃諏訪氏などと和睦を結んでいました。

しかし、天文11年(1542)武田信玄に当主交代がなされると、諏訪氏との同盟関係が手切となり、武田信玄は信濃侵攻を本格的にはじめ、また対立していた相模後北条氏との関係改善を図ります。

その後も武田信玄は信濃侵攻を進め高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を次々と攻略し、天文19年(1550)には中信地方を制圧しました。

また同年、北信濃の戦国大名・村上義清の支城である戸石城を攻めるも大敗を喫します。

しかし、翌年の天文20年(1551)、真田幸隆の働きのおかげで戸石城を落とすことに成功し武田勢力は川中島よりも北、また南信濃の一部を除く、信濃全域を制圧することとなりました。

そんな武田信玄に対し、長野盆地以北にいる北信濃国人衆らは越後の守護代家・長尾氏に援助を求めます。

そのため長尾景虎(上杉謙信)は武田氏との戦いに本格的に介入することとなりました。

 

第一次川中島の戦い

こうして天文22年(1553)川中島(犀川と千曲川が合流する場所にある三角地帯)を含む長野盆地より南の千曲川沿いおいて北信濃に侵攻する武田信玄と信濃国人衆の援護をする形で長尾景虎(上杉謙信)の戦が始まりました。

この戦いは「第一次川中島の戦い」の他に「更科八幡の戦い」「布施の戦い」と呼ばれています。

 

経過

天文22年(1553年)4月、武田信玄は北信濃へ出兵し村上氏の諸城を攻略します。

これによって村上義清は越後国へと逃れ、上杉謙信に応援を要請しました

翌月には、上杉謙信からの増援が村上義清に送られることとなり八幡の戦いで武田勢に勝利します。

しかし、武田軍は再び北信濃へと侵攻し、村上氏の塩田城を落とすと、再び村上義清は越後国へと逃れるのでした。

同年9月1日、村上氏から援軍を要請された上杉謙信は北信濃へ出陣すると武田信玄の籠る塩田城を攻めようとします。

しかし、武田信玄は決戦を避けたため、この時は両者、領国へと引き上げるのでした。

 

勝敗

第一次川中島の戦いは、武田信玄が決戦を避けたため両軍の撤退に終わっています。

第二次川中島の戦い

その後、天文24年(1555)「第二次川中島の戦い」が勃発します。

この戦いは「犀川の戦い」とも呼ばれ、200日余にも及ぶ長期戦となったとされています。

 

経過

天文23年(1554)武田信玄は南信の伊那郡を制圧すると同時に、以前から関係改善が行われていた後北条氏、また駿河国の今川氏との間で甲相駿三国同盟を結びました。

これによって武田氏は以前から上杉氏と対立関係であった北条氏と手を結ぶこととなったのです。

翌年の弘治元年(1555)信濃国善光寺の国衆・栗田永寿が武田氏に寝返り長野盆地の南半分が武田氏の領地となります。

そのため上杉謙信は同年4月、善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣します。

これに伴い、武田信玄も兵を率いて川中島へと出陣し、両者は犀川を挟み対峙することとなりました。

同年7月19日、戦いは開始されましたが、なかなか決着はつかず、200日にも及ぶ長期戦となったとされています。

しかし駿河国の今川義元の仲介で両軍は和睦し、第二次川中島の戦いは幕を閉じました。

その後、武田信玄は木曽郡の木曾義康・義昌父子させたとされ、これによって南信濃は武田氏によって平定されることとなります。

 

勝敗

第2次川中島の戦いは、駿河国の今川義元の仲介により両軍の間で和睦が成立し撤退となっています。

 

第三次川中島の戦い

第三次川中島の戦いは弘治3年(1557)に行われました。

「上野原の戦い」とも呼ばれています。

 

経過

武田信玄は北信濃へと勢力を伸ばし始めていたため、上杉謙信は同年7月に、武田信玄のいる尼飾城に出陣するも、武田信玄は決戦を避けたため上杉謙信は越後国へと撤退しました。

武田信玄は数々の戦で北信濃に勢力を伸ばし始めていたとされ、上杉謙信は残る北信濃の国衆を強化し始め実質的な家臣化を進めることとなっていきます。

 

勝敗

第三次川中島の戦いは武田信玄が決戦を避けたため、両軍の撤退に終わっています。

第四次川中島の戦い

永禄4年(1561)第四次川中島の戦いが勃発しました。

「八幡原の戦い」とも呼ばれています。

第一次から後に勃発する第5次の戦の中でも最も大規模な戦であるとされ、多くの死傷者が続出しました。

 

第4次川中島の戦いの時代背景

第四次川中島の戦いが勃発する約9年前の天文21年(1552)、北条氏康は関東管領・上杉憲政の居城・平井城を攻め落とします。

北条氏康に敗北した上杉憲政は、越後国へと逃れ上杉謙信に家督と関東管領職の譲渡を申し入れ、保護されることとなりました。

永禄3年(1560)になると関東の諸大名を味方いつけた上杉謙信が北条方の厩橋城・沼田城・岩下城・那波城を次々と落城させます。

これに対し北条氏康は小田原城で籠城し、同盟国である武田信玄に援軍を要請しました。

武田信玄はこの要請に応え、北信濃に侵攻すると川中島に海津城(現在の長野県長野市松代町)を築き、上杉謙信の背後を脅かしました。

このように武田信玄の援軍のおかげで、上杉勢は小田原城から撤退することとなります。

越後国へと戻った上杉謙信は関東制圧を行うためには、武田信玄の前進拠点である海津城を攻略し武田氏をつぶさなければいけませんでした。

そのため永禄4年(1561)8月、上杉謙信は海津城からほど近い妻女山に布陣し、それに対し武田軍は茶臼山に対陣しました。

 

山本勘助、馬場信房による「啄木鳥戦法」

妻女山に布陣した上杉軍、茶臼山に布陣した武田軍は両者睨み合いが続き、武田氏の重臣たちは上杉軍の決戦を主張し始めました。

しかし、上杉謙信の強さを知る武田信玄は決戦に対し非常に慎重な意見を持ち、山本勘助、馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じます。

こうして山本勘助、馬場信房が考えた、兵を二手に分け、上杉軍を挟み撃ちにして壊滅に追い込む作戦は「啄木鳥戦法」と名付けられました。

 

経過

そして始まった第4次川中島の戦いは啄木鳥戦法が用いられることとなりました。

永禄4年(1561)9月10日に始まった戦いは当初、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなど劣勢であったとされていますが、妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊が、上杉軍の甘粕景持隊を蹴散らすなどして武田軍は持ち直したとされています。

しかしこの戦いはまたもや決着はつかず両軍撤退という形に終わりました。

第4次川中島の戦いにおいて武田軍4000余、上杉軍3000余の死者がでたとされ、双方が勝利を主張していたとされています。

 

勝敗

第4次川中島の戦いは、両軍撤退に終わっています。

 

第5次川中島の戦い

激戦であった第4次川中島の戦いが終わると、永禄7年(1564)第5次川中島の戦いが勃発します。

この戦いは「塩崎の対陣」とも呼ばれています。

 

経過

第4次川中島の戦いの後、飛騨国では国衆同志の争いが勃発しており、三木良頼・三木自綱親子と江馬(江間)輝盛は、江馬時盛と敵対していました。

この争いは武田・上杉の対立に繋がり、永禄7年(1564)武田信玄は江馬時盛、上杉謙信は三木氏・江馬輝盛を支援する形で介入します。

同年6月になると武田信玄は家臣を飛騨へと派遣したため、三木氏・江馬輝盛は劣勢となったとされています。

これに対し、上杉謙信は武田信玄の飛騨国侵入を阻止するため川中島に布陣しましたが、武田信玄は決戦を避け塩崎城に布陣しました。

2か月にわたり両者は対陣することとなりましたが、結局、戦は行われず同年10月に両軍撤退に終わりました。

以後両者は直接衝突を避けるようになり、武田信玄は東海道や美濃、上野方面、上杉謙信は関東出兵に専念し、川中島において大規模な戦いは行われなかったとされています。

 

勝敗

第5次川中島の戦いは両軍撤退に終わっています。

 

まとめ

北信濃を巡って武田信玄と上杉謙信との間で計5回行われた川中島の戦いをわかりやすく解説いたしました。

長期にわたり行われた戦いでしたが、どの戦も勝敗はついておらず、川中島の戦いは武田氏、上杉氏が内乱を起こしかねない臣下に対して高めるために行った戦、いわばパフォーマンスのようなものであったと考えられています。