産まれたときから死ぬまで、謎多き人生を送ったと言い伝えられている戦国武将・明智光秀。
生年月日や生まれた場所も不明なら、織田信長に仕えるまでの経歴さえ幾通りも伝えられています。
信長に仕えてからは光秀に関する数多くの史料が残るため、その功績をうかがい知ることができますが、本能寺の変によって謀叛人のレッテルが張られたため、その最期や妻子の行く末については正確に伝える史料が残ることはありませんでした。
その中で不遇であったと言われる光秀の前半生を支え、光秀が織田家の重臣になるまで励まし、ともに歩んだ光秀の正室・煕子(ひろこ)に関しては伝聞も含めて史料が残っており、人間・明智光秀を知るための貴重な資料にもなっています。
今回は明智日向守光秀の正室であった煕子の生涯を紹介したいと思います。
明智光秀の正室・煕子
光秀の正室・煕子の正確な生年を伝える資料はなく、伝聞で享禄3年(1530年)生まれと言われています。
父は織田信長の家臣・妻木広忠 (つまきひろただ)または弟の妻木範熙のどちらかだと伝えられていますが、この二人には同一人物説もあり、妻木氏出身であるのは間違いないようです。(妻木氏はのちに明智氏の与力となりその後、家臣となります。)
天文4年(1545年)に光秀に煕子が嫁ぐことが決まりましたが、この頃煕子が疱瘡にかかり、美しいと言われた顔に痘痕(あばた)が残ってしまいます。
この輿入れを破談にしたくない妻木氏は煕子の痘痕が光秀に嫌われることを気にして、煕子に似ていた妹・芳子(よしこ)を身代わりに立てますが、これを簡単に見破った光秀は煕子を正室として迎えました。
二人が結婚してすぐに斎藤道三が息子の龍興に攻め滅ぼされ、道三に味方した光秀は美濃を捨てて流浪します。
流浪中でお金のない光秀は歌会を催す資金がなく困っていると、煕子は自慢の黒髪を売ってお金を用立てて光秀を助けたと言われています。
心労と過労で死去
天正3年(1575年)、惟任の姓と日向守の官位を織田信長から賜った明智光秀は、名実ともに織田家の重臣の列に連なります。
この頃の織田家は東西南北すべてで敵と事を構えており、その上内部にも本願寺という最大の敵を抱えて織田家の武将は多忙を極めました。
丹波攻略を行いながら本願寺との戦闘にも参加していた明智光秀はこの年過労で倒れ危篤状態にまでなるものの、煕子の献身的な看護で持ち直し、二ヶ月後には前線復帰を果たします。
しかし、不眠不休で看護を続けた煕子はこの時の心労と疲労で倒れ、そのまま息を引き取ったと言われています。
享年46歳(36、42歳という説もあり)、お墓は滋賀県大津市にある明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺にあります。
明智光秀は煕子が存命中は側室を置くことなく、三男四女仲睦まじく夫婦生活を送ったと言われています。
後世にまで伝えられた煕子の内助の功
光秀と煕子に関する逸話は江戸時代に創作された話とも言われており、信憑性の高い史料にこの記述が残っているわけでもないため、真偽については不明です。
ですが、後世に作られた話であったとしても、謀叛人と言われた明智光秀と妻・煕子の逸話がなんとも微笑ましく、心暖まる夫婦付随の話であることが、謎の多い武将・明智光秀の人間的な一面を表しているようで非常に興味を引かれます。
武将としても、為政者としても優秀であった明智光秀は夫婦生活の面においても一流人であったのかもしれません。
なお、黒髪を切って光秀を支えた話は紀行文「奥の細道」を書いた俳聖・松尾芭蕉(まつおばしょう)が「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」と句にも詠んでいます。
煕子には天正10年(1582)年、坂本城落城時に自害したとの説もありますが、煕子が本能寺の変の前に亡くなっている方が、煕子にとって幸せだったのではと思うのは私だけではないと思います。