福島正則とは豊臣秀吉に仕えた武将です。
「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」というイメージが一般的には強く、関ヶ原の戦いでは第一の武功を賞されましたが、乱暴者としての逸話も多く残され、また広島城を無断で修築したため改易された記録も残されました。
そんな福島正則の生涯と、福島正則と同様に豊臣秀吉の子飼いの武将の1人である加藤清正との関係性、家紋や子孫について解説していきます。
福島正則の生い立ち
福島正則は永禄4年(1561)尾張国海東郡で桶屋を営んだ福島正信の長男として誕生します。
母は豊臣秀吉の叔母であったため幼少の頃から小姓として豊臣秀吉に仕えてきました。
天正6年(1578)に起きた播磨三木城の攻撃で福島正則は初陣を飾ります。
賤ヶ岳の七本槍のうちの1人
天正10年(1582)の山崎の戦いでは、勝龍寺城を攻撃し軍功をあげ天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは敵将、拝郷家嘉を一番槍、一番首として討ち取りました。
この戦において、福島正則は後に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる功名をあげた7人のうちの1人に選ばれます。
多くの戦に参戦
天正12年(1584)には、小牧・長久手の戦いに父・福島正信と参加し功績を残し褒美として胴肩衣を豊臣秀吉から賜り、その後、四国征伐、天正15年(1587)の九州平定、小田原征伐、文禄元年(1592)からはじまった文禄の役にも参加しました。
文禄の役では、朝鮮に渡り福島正則、自ら軍船に乗って指揮を執り敵船を撃退したと記録が残されています。
慶長2年(1597)に起きた慶長の役に福島正則は参加しませんでしたが、豊臣秀吉は慶長4年(1599)に朝鮮半島で大規模な軍事行動を計画していました。
しかし、慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が亡くなると、この軍事計画はなくなり朝鮮半島から豊臣軍は撤退します。
関ヶ原の戦い
福島正則は豊臣秀吉の家臣であった石田三成と朝鮮出兵をきっかけに険悪な仲となります。
慶長4年(1599)の前田利家の死後には、加藤清正と共に福島正則は石田三成を襲撃するといった事件も起こされました。
豊臣秀吉亡き後の政権をめぐって、石田三成らによって構成された西軍と徳川家康を中心に構成された東軍によっておこされた関ヶ原の戦いでは福島正則は東軍に味方し、宇喜多秀家勢と戦闘を行います。
宇喜多勢の前衛を率いた明石全登に福島正則は一時退去を余儀なくされるも、宇喜多軍を食い止めることに成功しました。
その後、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ったことを機に西軍は敗色を見せます。
東軍の集中攻撃を受けた宇喜多勢は壊滅を迎え、関ヶ原の戦いにおいて東軍が勝利し福島正則は安芸広島と備後鞆49万8,000石を得ました。
江戸時代
江戸時代に入ると福島正則は慶長6年(1601)3月に芸備に移り検地で石高の再算出や領内の寺社の保護に熱心に取り組み、慶長7年(1602)には厳島神社の平家納経を修復させます。
慶長8年(1603)、安芸最西端の地に亀居城の築城を始め、慶長13年(1608)に豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼が大阪城にて病に倒れるとすぐさま、見舞いに駆け付けました。
改易
元和5年(1619)広島城の本丸、二の丸、三の丸また石垣等が台風によって水害で破壊され福島正則が無断で修復したため武家諸法度違反に問われるといったことが起きました。
この修復に対して福島正則は幕府に2か月前から届けを出していたものの、幕府からは正式な許可が降りていなかったようです。
これに対し、福島正則は雨漏り部分のみを止むを得ず修繕したと反抗し、幕府は福島正則に江戸参勤中に謝罪、本丸以外の修築分を破却するという条件を提示しました。
この本丸以外の修築分を破却するという条件に対して福島正則は、本丸の修築分のみ破却をおこないます。
しかし幕府からは破却が不十分と判断され、また江戸に人質として送るはずの嫡男・福島忠勝の出発が遅れたことも幕府に咎められ、このようなことから福島正則は安芸国、備後国50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石に減転封の命を幕府から受けることとなりました。
福島正則の最期
元和6年(1620)に嫡男・忠勝が早世したため2万5,000石を幕府に返上します。
寛永元年(1624)に福島正則は64歳で、高井野で亡くなりました。
福島正則の死後、幕府の検死役が到着する前に家臣・津田四郎兵衛が遺体を勝手に火葬したため残りの2万石も没収され、福島家は大名家として断絶してしまいました。
嫡男の死による領地返上、本人の死に対しての領地没収が行われたことから一般的に福島正則は改易されたと見られることが多いようです。
加藤清正との関係
加藤清正は豊臣秀吉の子飼とされる武将で賤ヶ岳の戦いにおいて福島正則と同様に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる功名をあげた7人のうちの1人に選ばれました。
永禄5年(1562)6月に誕生した加藤清正は福島正則と同年代であり共に豊臣秀吉と縁戚関係にあり、豊臣秀吉に仕えたこともあって、2人の仲は良好であったようです。
関ヶ原の戦いにおいては、加藤清正は謹慎中であったため不参加となりますが、福島正則と同様に東軍に加担していたとされています。
福島正則の家紋
福島正則は福島沢瀉紋(おもだか)を使用したとされます。
植物の沢瀉が描かれるこの沢瀉紋とは日本十大家紋の1つにもされる有名な家紋です。沢瀉がたくさん生えている姿は矢が並んでいるように見えるため戦に関わる家紋として多くの武将が使用しました。
子孫
福島正則が改易されてからは、幕府は福島正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本としました。
しかし福島正利には世継ぎがいなかったため一旦断絶となりますが、福島正則の嫡男・福島忠勝の孫である正勝が福島家を再興したため、それ以降、福島家の子孫たちは代々と名を繋げることができました。
最後に
福島正則は数多くの戦に参加し功績を残すなど武勇に優れ、また盟友・加藤清正とともに賤ヶ岳の七本槍のうちの1人に選ばれるほどの勇猛な武将でした。
しかし、晩年は幕府に届け出を出していたにも関わらず無断で広島城を修繕しただけで減転封の命を受けるなど、今では考えられない厳しい詮議を受けていたようです。