土方歳三とは?刀やイケメン説、子孫・妻、俳句について解説!

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新選組と言えば、幕末の京で活躍した剣客集団で、度々映画やドラマ化をされ人々を魅了してやみません。

中でも副長の土方歳三は「鬼の副長」と恐れらていた反面、現存する写真などからも端正な顔立ちで俗にいうイケメンなので現代人にも大変人気があります。

また、風流人でもあり俳句を嗜む趣味があったと言われており、土方歳三はなぜ俳句を愛したのか興味深いです。

そしてイケメン故に、妻となった女性の存在や、子孫がいたのかも大変気になるところです。

土方歳三の生涯を追いながら、現在展示されている愛刀の紹介も交えて詳しく解説していきます。

土方歳三の生涯

兄夫婦に育てられたヤンチャな少年時代

天保6年(1835年)武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市石田)に、豪農の土方隼人(ひじかたはやと)の末っ子として生まれました。しかし、幼くして父母を結核で亡くし兄夫婦に育てられることになります。

土方歳三は、色白の可愛い顔立ちと裏腹に、触ると怪我をするイバラに例えられて「バラガキ」と呼ばれるほど、乱暴者でやんちゃでした。

14歳から奉公にでるも、問題を起こして郷里にもどり家業の散薬の行商をしながら、行商先の道場などで修業を積んでいたようです。

 

近藤勇との出会い共に浪士隊に参加する

土方歳三の実姉・のぶの夫である日野宿名主の佐藤彦五郎(さとうひこごろう)は天然理心流・試衛館3代目宗家・近藤周助(こんどうしゅうすけ)の門人で佐藤彦五郎は近藤勇(こんどういさみ)と義兄弟の杯を交わた仲でした。

佐藤彦五郎は、自宅の一角に天然理心流の出げいこ用の道場を併設していたので、近藤勇が指導に来て、土方歳三と知り合う事となります。その後、土方歳三は天然理心流に正式入門します。

文久3年(1863年)2月、土方歳三は近藤勇と試衛館の仲間らと共に、上洛する徳川家茂(とくがわいえもち)の警護の為に幕府が募集した「浪士組」に参加して京都へ赴きます。

その後、この浪士組の中から、土方歳三・近藤勇ら数十人の浪士が京に残留することになり壬生浪士組を結成しました。

 

新撰組の誕生

壬生浪士組は芹沢鴨(せりざわかも)を中心とする水戸派と近藤勇・土方歳三率いる試衛館派で構成され、文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変では、京都守護職・会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の保護下の元、出動して活躍します。

土方歳三らの参加する壬生浪士組の活躍が認められ、八月十八日の政変後「新選組」として正式に発足しまが、後に近藤勇・土方歳三ら試衛館のメンバーは、芹沢鴨を暗殺し新撰組の実権を握ります。これにより権力を握った近藤が新選組局長に就任し、土方歳三は副長となりました。

 

鬼の副長と新撰組での活躍

土方歳三は副長として局長・近藤勇の右腕となり、指揮指令を出して局中法度を作り上げ、規律を重んじて新選組内部の粛清を徹底的に遂行しました。

違反者はたとえ幹部でも切腹させ、脱走者は見せしめに斬首するなど徹底しており、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれ隊士たちに恐れられる存在となっていきます。

また、池田屋事件の際に土方歳三は、自分が探索した方面に土佐藩士らがいないことが分かると、すぐに近藤勇・沖田総司(おきたそうじ)の担当する池田屋へ向かい突入せずに池田屋の周りを囲み、駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を一切近づけることなく、新選組の手柄を守る行動に徹したのです。

その結果、池田屋事件の恩賞も新撰組の名声も手に入れる事ができ、局長・近藤勇と共に新選組の名を京の町に轟かせました。

戊辰戦争激戦の渦中へ

大政奉還後、薩長率いる新政府軍が明治政府を樹立し、新政府軍と旧幕府軍勢力との内戦が始まりました。世に言う「戊辰戦争」です。

土方歳三は墨染事件で負傷した近藤勇に替り、鳥羽・伏見の戦いで新撰組の指揮を執り、旧幕府軍に従い奮戦しますが敗走します。

改めて、近藤勇と土方歳三は甲陽鎮撫隊を結成し戦いますがが甲州勝沼で敗走、下総国(千葉県)流山で近藤勇が新政府軍へ投降し、土方歳三は近藤勇の助命嘆願に奔走するも、近藤勇は江戸板橋の庚申塚で斬首となりました。

 

蝦夷地(北海道)へ渡る

土方歳三は宇都宮城の戦いで足を負傷し、会津で3ヶ月ほどの静養をしますが傷が回復したらすぐに戦線復帰します。

復帰後、援軍を求めて仙台に向かいますが、近藤勇の死後残されていた主要メンバーも会津城下などで奮闘していて、土方歳三と別々の道を行くこととなり、土方歳三は自分についてきている新撰組の生き残りと、桑名藩士を伴い榎本武揚(えのもとたけあき)の軍艦に乗船して蝦夷地(北海道)に渡りました。

 

箱館戦争で最後を迎える

蝦夷地に渡った土方歳三らは、函館・五稜郭を占拠し榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を樹立します。

土方歳三も、榎本武揚を総裁とする箱館政権の元で陸軍奉行並として指揮を執りました。しかし、箱館戦争は圧倒的な銃武力での新政府軍に、土方歳三らは苦戦を強いられ徐々に追い詰められていったのです。

二股口の戦いの後、新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、土方歳三は籠城を嫌い出陣します。

土方歳三率いるわずかな兵力と共に、土方歳三は馬上で鬼のように指揮を執りましたが射撃され落馬し、35歳という若さで壮絶な最後を遂げる事となりました。

 

土方歳三の刀

土方歳三は刀を複数本所持してたことがわかっており現存が確認できている愛刀は3本で、現存が確認できず所持していたとされる刀も合わせて紹介していきます。

 

①和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)・刃身2尺8寸

近藤勇が池田屋事件の戦果を、郷里の名主に伝えた手紙が残されていますが、その中に「和泉守兼定」の刀身・2尺8寸、会津藩主・松平容保から下賜されたと書かれています。

作刀は、会津11代和泉守兼定によるものとされており、土方歳三の愛刀として一番有名な刀とされていますが現存していません。

 

②和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)・刀身2尺3寸1分6厘

土方歳三資料館に現存する「和泉守兼定」は会津12代和泉守兼定によるものとされ、土方歳三の最後である箱館まで佩刀していた刀です。

土方歳三は、和泉守兼定の寸違いを複数所持していたことがわかっており、この和泉守兼定は土方歳三記念館で毎年、土方歳三の命日に合わせて特別展示されています。

 

③大和守秀国(やまもとのもりひでくに)・刀身2尺2寸8分

土方歳三が戊辰戦争の際に使っていた刀で、会津藩士・秋月登之助(あきづきのぼりのすけ)に土方歳三が、この大和守秀国を贈ったとされています。

大和守秀国は現在、京都の霊山歴史館で一般公開中です。

 

④葵紋越前康継(あおいもんえちぜんやすつぐ)・刀身2尺3寸5分 

農兵隊(春日隊)を組織して新撰組が率いる甲陽鎮撫隊に加わった、土方歳三の義兄・佐藤彦五郎が新政府軍に敗れた際に、彦五郎の長男・源之助(げんのすけ)が一時捕縛され、刀をすべて没収されてしまいました。

これを気の毒に思った土方歳三が源之助に送った刀が、葵紋の入った越前康継です。

この刀も現在、佐藤彦五郎新選組資料館で展示されています。

 

⑤脇差・堀川国広(ほりかわくにひろ)・刀身1尺9寸5分

脇差の堀川国広は現在行方不明で、現存していたかどうかも確認できていません。

 

⑥用恵国包(ようけいくにかね)・刀身2尺1寸

初代仙台国包刀工。

土方歳三のイケメン説

土方敏三は、残されている写真からもわかるように、色白で端正な顔立ちをしていました。

新撰組が活躍した京や大阪の花街でも大モテで、土方歳三が郷里の親戚に木箱一杯の女性からの恋文を届けたこともあったようです。

また、芸奴や舞妓からもらった恋文を小冊子して綴り「婦人恋冊」と題して、新撰組支援者の名主に送っており、現在仙台市博物館に実存しています。

段ボール箱でバレンタインデーのチョコをもらう現代のアイドルのようなモテぶりから、相当イケメンだったことは確かなようです。

 

土方歳三の妻

土方歳三は生涯独身でどこに行ってもモテモテ、花街の女性と浮名を流すも妻となれた女性はいなかったよです。

そんな土方歳三にも、郷里に土方歳三の兄が世話をした婚約者がいました。名は「琴」という女性で、三味線屋の娘さんで評判の美人でしたが、土方歳三が上洛してしまい、結婚することなく幻の婚約者となります。

結論から言うと、土方歳三には妻という存在はいないということです。

 

土方歳三の子孫

京都北野上七軒町の「君菊」もしくは「君鶴」と言う舞妓が土方歳三に見受けされ、女の子が産まれていましたが夭折し、母親である「君菊」もしくは「君鶴」も早死にしてしまったとされています。

ただし、この女性の存在も新撰組の島田魁(しまだ がい)から 女性の存在と子供の話を土方歳三の親戚が聞いて、土方歳三の甥が明治に入って消息を捜しに行きましたが、「君菊」もしくは「君鶴」本人は他界し、土方歳三との関係も女の子の存在も実際には確認できなかったそうです。

結論から言うと、土方歳三には子供は無く、現在確認が取れている直系の子孫は存在しません。現在、土方歳三資料館を管理している土方愛さんは、土方歳三の兄妹の子孫になります。

 

土方歳三の俳句

土方歳三の祖父は三月亭石巴(みつきていせきは)という俳人だったので、土方歳三の家の者は皆、連句を嗜む文化が根付いていたようです。

土方歳三も子供の頃から自然と俳句を嗜み、俳句が生活の一部となっていました。

そんな土方歳三なので、新撰組副長時代も、ときどき部屋に一人で籠もって俳句を作る習慣があり、粛清や襲撃の計画を考えていると勘違いされて隊士から「副長の穴籠もり」と言われていたそうです。

土方歳三の俳号は豊玉(ほうぎょく)と言い、渾身の句集41作をまとめた自身の句集「豊玉発句集」を残しています。