日本マラソンの父といわれる金栗四三(かなぐりしそう)は日本人初のオリンピック代表選手としてストックホルム、アントワープ、パリのマラソン競技に出場し世界への扉を開き、国内ではマラソンだけでなく、陸上競技や女性のスポーツへの参加、進出に大きく尽力し、日本スポーツの国際化にも大きな貢献をしました。
金栗四三や十種競技の野口源三郎らが原案を考えた箱根駅伝は現在も多くの人々に支持され、学生ランナーの憧れとなっています。
この金栗四三は23歳の時に一つ年下の同郷熊本県玉名郡出身の医師の娘、春野スヤと結婚し6人の子供に恵まれました。
また存命中には10人の孫も生まれており、子沢山の大家族だったようです。
今回は金栗四三の子供や孫は現在、何をされているのか調べてみました。
金栗四三の子孫について
実は色々と調べてみたのですが、金栗四三の子供さんがどのような人生を送られたのかはよくわかっていません。
当たり前の話なのですが、一般のスポーツ選手のお嬢さんや息子さんが父親と同じようにスポーツなどで活躍されたのなら話題になるのでしょうが、普通に学校を卒業して普通に社会へ出られるとプライバシーの問題もあってその足跡を辿ることが出来ません。
ただ、金栗四三が1983年に亡くなってから35年ほど経ちますが、その間に子孫の方とカナグリシューズについて新聞やテレビを賑わすニュースがありました。
100年後、曾孫同士が交流
2012年7月14日、二人の男性がスウェーデンのストックホルムに招待されました。一人は金栗四三の出身地の首長である熊本県玉名市市長・高嵜哲哉(たかさきてつや)、もう一人は蔵土義明(くらどよしあき)さんで、彼の祖母が金栗四三の娘、すなわち蔵土さんは金栗四三の曾孫に当たります。
ストックホルムではオリンピック開催100周年を記念して、100年前と同じマラソンコースを走るオリンピック開催100年記念マラソン大会と金栗四三の功績を称えた顕彰プレートの除幕式が行われるため二人を招待しました。
ストックホルム入りした蔵土義明さんはマラソン大会の前日に、ストックホルム郊外に住むタチアナ・ペトレさん宅を訪問しました。
ペトレさんは100年前にストックホルムオリンピックのマラソン競技に参加した金栗四三が体調を崩し森の中に迷い混んで倒れたときに、これを介抱して助けたペトレ氏のひ孫に当たります。
ペトレさんは、倒れた金栗四三に元気をつけてもらうために曾祖父が提供したシナモンロールとラズベリージュースで蔵土義明さんを歓迎し、100年前の曾祖父同士の交流、45年前の金栗四三のゴールインの話題に花を咲かせました。
金栗四三の曾孫、ストックホルムの地を走る
金栗四三の曾孫である蔵土義明さんは7月14日に行われたマラソン大会にもエントリーしており、そのゼッケンは「822」。
これは金栗四三がストックホルムオリンピックで付けたゼッケンと同じで大会実行委員会が用意したものです。
蔵土義明さんは「822」のゼッケンと日の丸を胸につけてスタートし、金栗四三が100年前に倒れたと言われている場所でタチアナ・ペトレさんが用意したテントで接待を受けたあとゴールを目指して再びスタート、スタジアムに戻ってくるとアナウンスによって蔵土義明さんが紹介され、大歓声を浴びながら4時間25分1秒でゴールイン。
大会後の取材で蔵土義明さんは「スウェーデンの方々、ペトレ家、そして多くの日本の関係者の方々の協力とスウェーデン日本大使館のバックアップがあって私はこの大会に参加することができました。走っている最中も、日本ガンバレの声援をいただきスウェーデンの方々の暖かさに触れることもできました。機会があればまたスウェーデンの地を走りたいです」と答えています。
永遠に輝く金栗四三が導いた交流の輪
マラソンがスタートする少し前、金栗四三が介抱されたぺレス家が建っていた場所、現在はソレンチューナ市立体育館が建っている場所になりますが、そこで金栗四三の功績を称えた顕彰プレートの除幕式がペトレ家の人も参加して行われました。
翌年2013年にはペトレ家の方々が来日、タチアナ・ペトレさんの弟であるヨハンさんが東京マラソンに参加、その後玉名市を訪問し、金栗四三の墓にお参りした後、記念館であらためて金栗四三がスポーツに貢献した功績を見学しました。
金栗四三がストックホルムオリンピックに参加したときは、船と鉄道を乗り継いで20日もの日数を費やして訪れた遠い北欧の国だったスウェーデンも、今では飛行機で13~15時間で飛んでいける身近な国となりました。
スウェーデンの人々が金栗四三を通して日本という国を敬愛して入れているように日本人もスウェーデンという国をもっと身近に感じられるようになればと思わずにはいられませんね。
金栗四三が遺したものは子孫だけではなかった
2012年12月18日に放送されたテレビ東京系列「開運、なんでも鑑定団」に古めかしいシューズが出展されました。
出展したのは徳永慎二さんで、昔からこのシューズの由来が非常に気になっていたたため調べてもらおうと番組に応募されたそうです。
専門家の鑑定の結果、このシューズは最も初期のマラソンシューズ「カナグリシューズ」であることが判明、本人評価額は50万円でしたが、なんと4倍の200万円の値段がつきました。
金栗四三は現役を退いたのちも東京大塚にあった播磨屋足袋店の主人・黒坂辛作(くろさかしんさく)とマラソンシューズの開発を続け、オリンピックやボストンマラソンに参加した日本選手にこのシューズを履かせ、山田敬蔵(やまだけいぞう)が1953年に播磨屋のマラソンシューズを履いてボストンマラソンで優勝、その後も国内外でカナグリシューズを履いたランナーが優秀な成績を納めました。
徳永慎二さんの父・重敏さんが金栗四三と家が隣り同士で親交があり、50年以上前に金栗四三から直接手渡しでもらったと言うことだそうです。
金栗四三の人としての魅力
学校の歴史の教科書では学ぶことのない金栗四三。
しかし、彼の人生や足跡を追いかけてみると、その人間的な魅力、物事に対する真摯な姿勢、フロンティア(開拓者)としての不屈の精神とたゆまぬ努力にはただただ頭の下がる思いです。
後世の私がこう思うのですから、金栗四三と同じ時代を生きて、彼に接した人々はより強くその思いを持ったのだと思います。
彼がマラソン選手としてだけでなく、指導者、教育者としても多くの功績を遺したのは彼の回りに彼に共感し、協力を惜しまなかった数多くの人がいたからなのだと思います。
2020年の東京オリンピック開催によって突如脚光を浴びることとなった金栗四三ですが、今一度彼の人生や功績を振り返り、彼の偉大さに触れていただきたいと思うのです。