室町時代末期に登場し、中国地方の大半を一代のうちに手中に収めた毛利元就(もうりもとなり)。
北条早雲(ほうじょうそううん)、斎藤道三(さいとうどうさん)と並んで下克上による成り上がり戦国大名の代表格ですが、他の二人と異なり、子孫は脈々と生き続けて幕末までその家と領地を守りました。
三人の息子を臨終間際の枕元に呼び寄せ、教えを説いたと言われる「三本の矢」の話や、どのようにして小領主の国人が中国地方の覇者にまで登り詰めることが出来たのか、また子孫や家系図など元就の誕生から追い掛けてみたいと思います。
生い立ち
毛利氏は鎌倉幕府の政所初代別当を務め源頼朝の右腕と言われた大江広元(おおえのひろもと)の四男・毛利季光(もうりすえみつ)を祖とする家柄です。
元就は明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人・毛利弘元(もうりひろもと)の次男として誕生し五歳で実母、十歳で父・広元も亡くしましたが、毛利本家は兄・興元(おきもと)が継いでいるため、元就は分家して多治比(たじひ)氏を名乗りました。
永正13年(1516年)、元就20歳の時に興元が死去、毛利氏は興元の嫡男・幸松丸(こうまつまる)が継ぎますが幼少のため元就がこれを後見しました。
元就の初陣。中国の覇者へ
毛利氏の世嗣ぎが幼少の幸松丸になったため、敵対する佐東銀山城主・武田元繁が吉川氏の有田城へ侵攻、元就は有田城の救援に駆けつけて武田軍の先鋒を撃破、又打川を挟んで対峙します。
武田軍が渡河を開始すると毛利・吉川連合軍はこれに弓矢を一斉に放ち、主将の武田元繁(たけだもとしげ)を討ち取り、武田軍は総崩れとなり退却します。
この有田中井手の戦いは元就の初陣であり、安芸国を始めとする諸将に「毛利元就」の名前を覚えさせた一戦となりました。
大永3年(1523年)に幸松丸が9歳で死去すると、元就は多くの家臣に推されて毛利氏の家督を継ぎますが、一部の家臣は尼子経久(あまごつねひさ)にそそのかされて元就に反旗を翻します。
しかし元就はすかさずこれを鎮圧、尼子氏に対抗するため大内氏の傘下に入ります。
尼子の誘いに乗って元就の異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)を担いだ高橋興光(たかはしおきみつ)を討ち取り、石見国への足掛かりを掴んで備後国の多賀山通続(たがやまみちつぐ)を降伏させ、備後へも勢力を広げました。
宿敵、尼子氏との死闘
元就は武力をもって攻めるだけではなく、安芸国の小領主や国人と誼を通じて宍戸氏、天野氏、熊谷氏などを味方につけ、安芸国盟主へと昇ります。
天文9年(1540年)尼子経久の後継者である尼子晴久(あまごはるひさ)が三万の兵を率いて毛利氏の本拠地・吉田郡山城に攻め込んで来ました。
元就は尼子勢の10分の1、約三千の兵で籠城してこれを迎え撃ち、宍戸や福原からの援兵、大内から送られた陶晴賢(すえはるかた )軍の活躍もあって尼子軍を退け、余勢をかって長年の間、元就に対抗してきた佐東銀山城を落城させて武田信実(たけだのぶざね)を安芸から追い出しました。
天文11年(1542年)元就は大内義隆(おおうちよしたか)に従軍して尼子氏の本拠地・月山富田城へ侵攻しますが、吉川興経(きっかわおきつね)の裏切りや尼子勢の奮闘によって大内軍は惨敗を喫し、元就も命からがら安芸へ帰還します。
尼子氏と互角以上に戦う力を蓄えるために元就は天文13年(1544年)強力な水軍を持つ竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景・こばやかわたかかげ)を養子に出します。
天文15年(1546年)には長男・隆元に家督を譲り隠居しましたが、実権は元就が握り、毛利氏総帥としてこの後も尼子勢と対峙しました。
毛利両川体制の誕生と厳島の戦い
天文16年(1547年)元就を裏切った吉川氏で当主・興経と古参家臣との対立が激化、亡き妻の実家でもある吉川氏に元就は次男・元春(もとはる)を養子として送り込み、これを傘下に組み込みます。
また小早川氏の本家である沼田小早川家の後嗣問題にも介入、分家である竹原小早川家の当主・隆景を後継と認めさせ、小早川氏の乗っ取りにも成功します。
これにより吉川、小早川両氏の安芸、石見、備後にまたがる領地を吸収し、これに伴って瀬戸内海の制海権も手にいれました。
天文20年(1551年)大内義弘が家臣の陶晴賢(すえはるかた )の謀叛で殺害される大寧寺の変があり、大内義長(おおうちよしなが)があとを継ぎます。
陶晴賢を支持していた元就はこの機に乗じて勢力を拡大、佐東銀山城や桜尾城を占領、安芸・頭崎城を陥落させ平賀氏を傘下に収め、尼子氏の勢力下にあった備後・高杉城、旗返山城を攻略し尼子軍を撃退しました。
急激に膨張する毛利元就を恐れた陶晴賢は安芸、備後の国人支配の権限の返還を要求しますが、元就はこれを拒否、石見の吉見正頼(よしみまさより)が大内氏に反乱を起こしたのを機に、隆元の進言に従って大内氏との訣別を決めました。
決戦、厳島
陶晴賢との決戦に備え、大内氏への調略を開始した元就は江良房栄(えらふさひで)を寝返らせることに成功、反陶晴賢を宣言し、陶軍の先鋒である宮川房長(みやがわふさなが)率いる三千の軍勢を撃破、宮川房長を討ち取ります。
これに怒った陶晴賢は弘治元年(1555年)に大軍を率いて交通の要衝である厳島の宮尾城に攻め込みますが、元就の計略にはまり大敗、元就に味方した村上水軍に退路も断たれて陶晴賢は自刃、大内氏はここから衰退していきました。
中国の覇権を賭けて尼子と激突
弘治2年(1556年)尼子晴久、小笠原長雄(おがさわらながかつ)連合軍に忍原で敗北し、石見銀山を奪われます。
しかし翌、弘治3年(1557年)には体制を立て直すべく力の弱っていた大内義長を討ち取り、大内氏の周防、長門の所領を手に入れます。
永禄元年(1558年)元就は吉川元春とともに石見国温湯城に攻め込み、銀山の奪回をはかりますが温湯城は落とすものの次の山吹城は落とせず、退却時に奇襲を受けて大きな損害を受けます。
尼子との戦闘が一進一退を続けるなか、永禄3年(1560年)尼子晴久が死去、嫡男・義久(よしひさ)は室町将軍・足利義輝を通して和睦を申し入れるものの、元就はこれを無視して月山富田城へ進撃します。
尼子義久は籠城してこれを撃退しようとしますが、元就は月山富田城の支城である白鹿城を陥落させて兵糧攻めに持ち込み、得意の策略で城中の将兵を揺さぶると、投降するものや裏切るものが次々と出て、永禄9年(1566年)11月、尼子義久は降伏しました。
これによって元就は一代にして中国地方8か国を支配する戦国大名に成り上がりますが、この月山富田城攻めの最中に家督を譲った隆元を失い、元就の晩年に暗い影を落とすことになりました。
元就の最期
宿敵尼子氏を滅亡させたものの、因幡や出雲で尼子勝久(あまごかつひさ)を首領とするその残党が蜂起したり、九州の豊前では大友宗麟(おおともそうりん)との対立が激しくなり、元就の晩年はこの二つの処置にほぼ費やされてしまいます。
1560年頃から体調を崩すことが多くなっていた元就は、足利義輝から派遣された曲直瀬道三(まなせどうさん)の治療を受けていましたが、元亀2年(1571年)6月14日に吉田郡山城で策略と戦に全てを賭けた人生の幕を下ろしました。
享年75歳、死因は老衰または食道癌と伝えられています。
三本の矢は本当にあった話?
毛利元就が三人の息子に説いたと言われている「三本の矢」の話は概ね以下のように伝えられています。
元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人を枕許に呼び出した。
元就は、三人の前で1本の矢を取って折って見せた。
続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができない。
元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本まとめると容易に折れることはない。3人がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。
息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
この話は毛利元就が1557年に隆元、元春、隆景の三人の息子に宛てて書いた文書・三子教訓状(さんしきょうくんじょう)から創作されたと言われています。
三子教訓状は元就が三人の息子だけでなく、その他の子供たちも含めて協力して毛利家をもり立てるように14条にまとめた教えです。
元就が晩年、病床についたときには隆元はすでにこの世にはなく、元春も出雲に出陣していて臨終時には隆景と孫の毛利輝元だけしかいなかった事と「三本の矢」の話は中国の故事やモンゴル帝国のチンギス・ハン、イソップ童話、ソマリアにも類似の話があり、このため「三本の矢」の話自体は元就のオリジナルではなく、このような故事を元就が息子たちに語ったのではないかということが後世に伝えられたのが事実のようです。
現代にも伝わる三本の矢
毛利元就の「三本の矢」の話は現代には教訓や教えとして伝わっているだけではなく、イメージや象徴としても使われるようになりました。
広島を本拠地にするサッカーJ1リーグに所属するサンフレッチェ広島の「サンフレッチェ」は三本の矢にちなんで三=サン、フレッチェ=イタリア語で矢の意味から作られた造語です。
陸上自衛隊第13旅団は広島県安芸郡に司令部を置き、中国地方を担当することから「三本の矢」の故事にならった矢羽根を部隊章にしています。
これ以外にも中学校の校章や映画や舞台、ドラマのストーリーのモチーフになったりと、いまだに良き教訓として後世へと語り継がれています。
毛利の血筋と元就の子孫
前述した通り、武家としては名門と言える大江広元の四男・毛利季光を祖とする家柄に生まれた毛利元就ですが、元就の子孫はその後どのようになったのでしょうか?
長男・隆元
元就よりも早世したため、毛利本家は隆元の嫡男・輝元が継ぎました。
関ヶ原の合戦の後は周防、長門の2か国に減封され、輝元の嫡男・秀就(ひでなり)か初代藩主となって幕末まで長州藩として存続します。
次男・元春
安芸国の名門・吉川氏へ養子へ入り、死後は嫡男・元長(もとなが)、元長の死後は元春の三男・広家(ひろいえ)の代になって長州藩岩国領の領主として幕末まで続きます。
三男・隆景
竹原小早川家に養子に入った後、沼田小早川家も継承して両家を統合します。
実子はなく、小早川家は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子だった羽柴秀俊(はしばひでとし)を迎えて小早川秀秋(こばやかわひであき)としますが、秀秋が21歳で早世したため小早川家は断絶しました。
四男・穂井田元清(ほいだもときよ)
元清の嫡男・秀元(ひでもと)は長州藩の支藩である長門長府藩の初代藩主となり輝元の直系が途絶えた後の毛利本家は、秀元の子孫が養子になり幕末までその血筋を繋いでいきました。
五男・元秋(もとあき)
椙杜氏(すぎもりし)へ養子に入った後に毛利に複姓しますが、実子は早くに亡くなったため元就の八男・元康があとを継ぐ形になりました。
六男・元倶(もととも)
出羽(いずは)氏を継ぎますが17歳で死去、実子はいませんでした。
七男・元政(もとまさ)
天野氏を継ぎますが、後に毛利に複姓して毛利一門家老の右田毛利家(みぎたもうりけ)の祖となりました。
八男・元康(もとやす)
椙杜氏のあとを継いだことになっていますが、末次城を預かったため末次元康と名乗っていました。
子孫は毛利一門家老の厚狭毛利家(あさもうりけ)となりました。
幕末まで活躍
毛利氏は西軍として関ヶ原で敗戦するも長州藩として生き残り、幕末維新で活躍するまで続きました。
現在でも歌手、俳優として第一線で活躍している吉川晃司(きっかわこうじ)さんは名前でわかる通り、吉川元春の子孫であり毛利元就の子孫になります。
元就の教えを守り幕末まで家を残した毛利一門。
下克上で成り上がり、名を成した多くの戦国大名の家が滅亡するなかで、多くの苦難を乗り越え、幕末や明治維新まで家門を守り続けた毛利一門。
尼子氏滅亡後は中国地方の覇者として君臨しましたが、元就は「天下を競望せず」として中央の政治には関与せず、これ以上領土の拡大もしないと意思表示をしました。
これが元春や隆景を始めとする息子や孫にも受け継がれ、元就の遺訓として毛利氏全体の意思となっていきます。
この事が、美濃の斉藤道三や相模の北条早雲、甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景など多くの守護大名、戦国大名の家が当代や子孫の代で滅亡するなかで毛利氏が生き残れた最大の要因となりました。
こう考えれば明治維新を成功させたのは毛利元就の功績であったとも言えるかもしれません。