尾高惇忠とは?渋沢栄一との関係性や戊辰戦争、作曲家である曾孫・尾高惇忠について解説!

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尾高惇忠とは渋沢栄一の従兄弟であった人物で、幼い渋沢栄一に学問を教えました。

妹の尾高千代は渋沢栄一の最初の妻となったとされています。

戊辰戦争が起こると、彰義隊に参加しました。

明治維新後は富岡製糸場の経営に尽力します。

そんな尾高惇忠の生い立ちや経歴、また渋沢栄一との関係性や曾孫・尾高惇忠について解説いたします。

尾高惇忠の生い立ち

尾高惇忠は文政13年(1830年)7月27日、現在の埼玉県深谷市下手計である武蔵国榛沢郡下手計村で父・尾高勝五郎保孝と母・やへの子として誕生しました。

 

渋沢栄一との関係性

母・やへは後に実業家として活躍する渋沢栄一の父・渋沢元助の姉であったため、尾高惇忠と渋沢栄一は従兄弟同士でした。

尾高惇忠がどのような幼少期を過ごしていたのかはあまり分かっていませんが、幼少の頃から学問に秀ていた尾高惇忠は私塾「尾高塾」を開きます。

17歳から幕末の時代に入るまで尾高惇忠は「尾高塾」で子弟たちに学問を教えました。

当時7歳であった従兄弟である渋沢栄一も尾高惇忠から学問を教わっていたとされています。

 

妹・尾高千代が渋沢栄一と結婚

安政4年(1858年)尾高惇忠の妹・尾高千代が従兄弟の渋沢栄一と結婚します。

倒幕計画

渋沢栄一は結婚から3年後の文久元年(1861年)頃、千葉栄次郎の道場に入門します。

そこで剣術を学ぶうちに勤皇志士から影響を受け、尊王攘夷思想を持つようになりました。

文久3年(1863年)、尾高惇忠もまた尊王攘夷思想を持っていたため、渋沢栄一とともに長州と協力し幕府を倒す計画を企てます。

現在の群馬県高崎市高松町にある高崎城を襲撃し武器を奪い、その後、横浜外人居留地を焼き討ちにするといった具体的な計画まで建てていました。

しかし、弟の尾高長七郎から説得を受け、この計画は中止に終わります。

 

戊辰戦争

慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発します。

この戦いは明治政府を樹立した新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩など)と旧政府軍(奥羽越列藩同盟、蝦夷共和国、幕府陸軍、幕府海軍など)による戦いです。

絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争などと解釈されることが多いです。

戊辰戦争に至った経緯は江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還をし朝廷に政権を返上したにも関わらず、実際は旧政府軍がその権力を持ち続けていたため、新政府軍が旧政府軍の討伐しようとしたとされています。

 

彰義隊に参加

渋沢栄一の従兄・渋沢成一郎や幕臣であった天野八郎らによって徳川慶喜の警護を目的に結成された「彰義隊」には参加しますが脱退し、その後、渋沢成一郎とともに「振武隊」を結成しました。

現在の埼玉県飯能市にある能仁寺に陣営を築いた尾高惇忠らは、ここで慶応4年(1868年)5月23日、新政府軍と交戦しますが、敗退となります。(飯能戦争)

この戦いで弟の平九郎は自決しました。

戊辰戦争は最終的に新政府軍の勝利に終わります。

富岡製糸場の経営に尽力

新政府軍が勝利した戊辰戦争が終わり、明治維新が行われると、尾高惇忠は大蔵省官僚となった渋沢栄一の勧めにより富岡製糸場の経営に尽力します。

尾高惇忠の長女・勇は富岡製糸場の最初の工女となりました。

また富岡製糸場の経営だけではなく、蚕の飼育方法を研究などを行いました。

 

第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人となる

明治9年(1876年)末、富岡製糸場を後にした尾高惇忠は明治10年(1877年)から第一国立銀行の盛岡支店、仙台支店の支配人となりました。

 

尾高惇忠の最期

明治34年(1901年)1月2日、尾高惇忠は71歳で亡くなりました。

 

尾高惇忠の曾孫

曾孫には作曲家として活躍した同名の尾高惇忠がいます。

1966年3月に東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業した後、パリ国立高等音楽院へ入学しモーリス・デュリュフレ、マルセル・ビッチュ、アンリ・デュティユーといった音楽家に師事しました。

作曲家として活躍する尾高惇忠の主な作品として、オーケストラのための『イマージュ』、オーケストラのための肖像、混声合唱とオーケストラのための『光の中』などがあげられます。

 

まとめ

尾高惇忠は渋沢栄一の従兄弟にあたる人物でした。

渋沢栄一に学問を教えた後、渋沢栄一とともに倒幕計画を企てていたとされています。

戊辰戦争が始まると、旧幕府軍方につき彰義隊に参加しました。

戊辰戦争が終わると富岡製糸場の経営に携わりました。

2021年に放送が予定されている、渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマ「青天を衝け」では重要な人物として登場することが予想されています。