幕末のヒーローとして現代でも人気の高い坂本龍馬は、当時の女性にも大変もてました。
龍馬の生涯には何人もの女性が登場しますが、中でも有名なのは妻となった「おりょう(お龍)」と、婚約者であった「千葉さな子」の二人です。龍馬の伝記や小説、テレビドラマなどで欠かせない存在として登場します。
この二人の女性と龍馬の関係について、詳しく説明していきたいと思います。
おりょう(お龍)の生い立ち
おりょう(お龍)は天保12年(1841年)、青蓮院宮の侍医であった楢崎将作の長女として京都に生まれます。本名は楢崎龍(ならさきりょう)です。
父は名医で裕福な家庭だったそうで、おりょうは、花道、香道、茶の湯などを嗜み、炊事は苦手だったらしく、育ちが良かったことが伺えます。
しかし、勤王家であった父が安政の大獄で捕らえられ、放免後病死すると環境は一変し、困窮のあまり、妹達が舞妓や女郎として売られてしまいました。
おりょうは、刃物を懐に抱え大阪まで出向き、男二人相手に大立ち回りをして妹を取返したそうです。
この事は、龍馬も「珍しきことなり」と手紙に書いています。
龍馬との出会い
おりょうは七条新地の「扇岩」という旅館で働き始めます。母と妹も土佐藩出身の志士達の隠れ家だった河原屋五兵衛の隠居所で住み込みで働くことになりました。
龍馬とおりょうは元治元年(1864年)頃に、河原屋五兵衛の隠居所で出会ったと言われています。
おりょうに惚れた龍馬は、彼女を妻にしたいと母、貞に申し入れ承知してもらいました。
龍馬とおりょうはこの年の8月1日、金蔵寺の住職智息院が仲人となり内祝言をあげます。この時、おりょう24歳、龍馬30歳でした。
また、寺田屋遭難後の3月薩摩旅行の折りも、西郷隆盛を媒酌人として祝言をあげています。
池田屋事件と寺田屋遭難
池田屋が新撰組に襲撃され(池田屋事件)、河原屋五兵衛の隠居所にも捜査が入りました。龍馬はたまたまその場にいませんでしたが、身の危険を感じたため、おりょうを「寺田屋」に預けます。
慶応2年(1866年)1月21日、龍馬・中岡らの仲介により薩長同盟が成立しました。
翌々23日の夜、龍馬が寺田屋に滞在しているところを、奉行所の役人に襲撃されます。(寺田屋遭難)
龍馬はピストルで応戦して役人2名を射殺しますが、手に重症を負い、おりょうの手引きで裏木戸から逃走、薩摩藩邸に保護されました。
この事件の時、風呂にいたおりょうが不審な人物に気づき、袷一枚で階段を駆け上がり龍馬に知らせたことは大変有名な話です。
この事件の後から龍馬は周囲におりょうの事を「妻」として紹介するようになりました。
薩摩旅行から下関へ
寺田屋遭難で龍馬は手に重傷を負ったので、西郷隆盛・小松帯刀の勧めで、おりょうを伴い薩摩へ湯治に行きます。
日当山温泉、塩浸温泉に行き、犬飼滝を見物したり、山に入って鳥を撃ったりして過ごし幸せな時間を過ごしました。
この旅行は日本最初の新婚旅行として知られ、この後龍馬は下関に亀山社中の拠点を置き、おりょうも下関で生活することになります。
しかし慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は近江屋で暗殺され、二度とおりょうの元に戻ることはありませんでした。
坂本龍馬の死後のおりょう
龍馬の死後、長府藩士三吉慎蔵が龍馬からおりょうの面倒を頼まれていたこともあり、3か月後の慶応4年(1868年)3月、おりょうは土佐の坂本家に送り届けられました。
しかし、おりょうは義兄の権平夫婦と折り合いが悪く(一説には家事をせず、芸事ばかりで嫁の自覚が足りず離別を言い渡されたとも言われています。)、3か月ほどで家を出て妹の嫁ぎ先に身を寄せます。
その後、妹の嫁ぎ先でも居づらくなり、明治2年(1869年)中頃に土佐を出ました。
おりょうは寺田屋お登勢を頼りに京都へ行きますが、やはり京都でも居場所がなくなり、勝海舟や西郷隆盛を頼って東京へ出ます。
龍馬の死後、流転しているおりょうに同情した西郷は金20円を援助し世話を約束しますが、西南戦争で自決してしまい二度と会う事はありませんでした。
結局、元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になったりもしますが、長くいられる場所はなく、元海援隊士で龍馬の甥の坂本直にも冷遇され流れ者のように転々とします。
おりょうは気が強く海援隊士をアゴで使っていた節があったので、 元海援隊士の間で評判が悪く、維新後に出世した者も彼女を援助するものはいませんでした。
おりょうの再婚
明治7年1874年頃から、勝海舟の紹介で神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働きだしたおりょうは、ここで横須賀の行商人(回操業)である西村松兵衛と知り合い、明治8年(1875)34歳の頃、旧海援隊士安岡金馬の媒酌で再婚し、西村ツルと名乗り横須賀に住みます。
ツルと名乗ったのは転々と仲居をしていた頃、使っていた名前だったそうです。
再婚相手との出会いについてはもう一つ説があり、寺田屋時代からの知り合いだったとも言われています。
また、晩年のおりょうのインタビューから、入籍する前年に松兵衛の男児を出産した後すぐ夭折したという話があり、定かではありません。
松兵衛との入籍後は母の貞を引き取り、妹の子を養子としますが、50歳頃に母貞と養子を相次いで亡くします。
おりょうの晩年
おりょうの晩年は幸せとはとても言えないものだったようです。住まいも貧乏長屋暮らしだったようで、ほぼ外出もしなかったそうです。
龍馬のかつての同志や知り合いに落ちぶれた自分の姿をみせたくなかったのでしょう。
また、アルコール依存症のようになり、酔っぱらっては「私は龍馬の妻だ」「龍馬さえ生きていれば」と松兵衛に絡んでいたそうで、とうとう妹と夫が内縁関係になり別居します。
その後は、退役軍人・工藤外太郎に保護されて余生を過ごしたと言われていますが、おりょうの墓の建立賛助人として名前の刻まれている、鈴木魚龍(ぎょりゅう)の話では、露天商となり落ちぶれた松兵衛の住む長屋にやたらと威張り散らす大酒飲みの婆さん(おりょう)がいて脳溢血で死んだとあります。
魚龍のみの証言なので定かではありません。どちらにしてもおりょうは大酒のせいで中風を病み脳溢血で明治39年(1906年)1月15日に66歳で亡くなりました。
婚約者・千葉さな子
おりょう以外に、龍馬の物語には必ず登場する正式な婚約者であった女性がいます。
自分を龍馬の妻だと思い、龍馬からもらった紋付の片袖を形見に生涯独身を貫いて亡くなった千葉さな子という女性です。
龍馬が結婚していたことも承知で、龍馬の死後も婚約者であると公言していたという千葉さな子とはどのような女性であったのか、彼女の人生について説明したいと思います。
剣術に優れていた
千葉さな子は、龍馬が江戸で門下となって塾頭まで務めていた北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟・桶町道場千葉定吉の次女として生まれます。
剣術の腕前は相当なもので、免許皆伝であったとされ、龍馬も土佐の姉、乙女に宛てた手紙にさな子の事を、長刀も上手く、力があり男並みに強いと称賛しています。その上、美人で「千葉の鬼小町」などと称されるほどでした。
龍馬との婚約
晩年のさな子の回想では、龍馬からは桔梗紋服、千葉家からは短刀一振りを取り交わし安政5年(1858年)頃に婚約したと言っています。
しかし、龍馬が帰郷して疎遠となり、その後龍馬はおりょうと出会い結婚し、幕末の動乱の中、近江屋で暗殺されました。
晩年のさな子
維新後、華族女学校(学習院女子部)に舎監として寄宿舎の管理監督の仕事につき、卒業生の女学生に「坂本龍馬の許嫁でした。」と形見の紋服を見せて語ったそうです。
晩年は千住で家伝の灸を生業とし、明治29年(1896年)に59歳で生涯を終えました。
さな子の亡骸はいったん谷中の天王寺に埋葬されますが、生前懇意にしていた自由民権家小田切謙明の豊次夫人が、縁者がおらず無縁仏になるのを不憫に想い、小田切家の菩提寺である甲府市の清運寺に分骨し墓を建てました。
墓には「龍馬室」と刻まれています。