崇徳天皇とは?歌や呪い、神社や陵について解説!

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崇徳天皇とは平安時代にあたる保安4年(1123)から永治元年(1142)まで第75代天皇となった人物です。

異母弟・近衛天皇に譲位し上皇となるも父・鳥羽法皇によって長期院政が行われ実権無き上皇となりました。

不満を抱いた崇徳上皇は父・鳥羽法皇亡き後、源為善らの武力を頼り保元の乱をおこすも敗北し讃岐へと配流後、怨霊として恐れられることとなります。

そんな崇徳天皇の生涯や呪い、歌や神社・陵について解説していきます。

崇徳天皇の生い立ち

崇徳天皇は元永2年(1119)5月28日、父・鳥羽天皇、母・藤原璋子の第一皇子として誕生しました。

崇徳天皇の父親は鳥羽天皇とされていますが、母・藤原璋子は鳥羽天皇の祖父・白河法皇と関係を持っていたため崇徳天皇は鳥羽天皇の子供ではなく、白河法皇の子供だと噂されていたとされています。

そのため白河法皇は崇徳天皇を自身の子供であると主張し、保安4年(1123)1月28日、父・鳥羽天皇を強引に譲位させ、2月19日に崇徳天皇を即位させました。

しかしこの時まだ、崇徳天皇は3歳であたっとされ、幼い崇徳天皇に代わり鳥羽上皇の祖父・白河法皇が院政を行いました。

 

鳥羽上皇による院政

第75代天皇となった崇徳天皇はこの時まだ10歳と幼かったため、白河法皇が院政を行っていましたが、白河法皇は崩御してしまったため父・鳥羽上皇が院政を行いました。

父・鳥羽上皇は祖父・白河法皇の子供と噂される崇徳天皇のことを「叔父子」と呼び嫌っていたとされています。

大治4年(1129)になると関白・藤原忠通の長女・藤原聖子が中宮として入内しました。

崇徳天皇と中宮・藤原聖子は仲の良かった夫婦であったとされていますが、2人の間に子供は恵まれませんでした。

しかし、後の保延6年(1140)9月2日、女房・兵衛佐局と崇徳天皇との間に第一皇子・重仁親王が誕生すると、中宮・藤原聖子とその父・藤原忠通は非常に悔しがったとされています。

後に起こる保元の乱において、藤原忠通は崇徳天皇を敵視するようになりますが、崇徳天皇と娘・藤原聖子との間に子供が誕生しなかったことが原因とされています。

 

父・鳥羽上皇に強引に譲位させられる

父・鳥羽上皇による院政が開始されると、父・鳥羽上皇は亡き祖父・白河法皇の側近である藤原長実の娘・藤原得子(美福門院)を寵愛するようになります。

そして2人の間には保延5年(1139)6月、体仁親王が誕生しました。

つまり崇徳天皇にとって異母弟ということとなります。

院政を行っていた父・鳥羽上皇は、誕生したばかりの体仁親王に皇位を継がせようと企み、崇徳天皇に対し体仁親王に譲位するよう迫りました。

こうして父・鳥羽天皇は自身の息子ではないとされる崇徳天皇を無理やり譲位させ、わずか3歳の体仁親王を即位させたのです。(近衛天皇)

実権無き上皇となる

父・鳥羽天皇と藤原得子(美福門院)の間に誕生した近衛天皇は久寿2年(1155)第76代天皇となりましたが、この時まだ幼かったため院政が必要となりました。

そこで、父・鳥羽天皇は近衛天皇を崇徳天皇の養子とさせます。

近衛天皇を崇徳天皇の養子とすることで、崇徳天皇の父である鳥羽法皇が政治に関与することができるからでした。

こうして近衛天皇は崇徳天皇の養子となり崇徳天皇の「皇太子」となりました。

しかし、父・鳥羽法皇は天皇即位の宣命に近衛天皇を崇徳天皇の「皇太子」と書かず崇徳天皇の「皇太弟」と記述します。

つまり近衛天皇は崇徳天皇の子供として養子となったのではなく、弟として養子となったということであり、近衛天皇の兄である崇徳天皇は院政を行うことが不可能となったのです。

こうして崇徳天皇は譲位したにも関わらず、院政を行うことのできない実権無き上皇となります。

 

和歌に没頭する日々

近衛天皇に譲位した崇徳上皇は鳥羽田中殿に移ると「新院」と呼ばれるようになりました。

もともと和歌に興味を持っていた崇徳上皇でしたが、鳥羽田中殿に移ってからは一層、和歌の世界に没頭するようになり、頻繁に歌会を催し、『久安百首』の作成、また『詞花和歌集』を撰集するなど行います。

そのため当時の歌壇は崇徳院を中心に展開するようになりました

この頃になると、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王は父・鳥羽法皇が寵愛する美福門院の養子となります。

これによって、近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合でも、崇徳天皇の第一皇子・重仁親王に皇位が継承されるようになりました。

 

近衛天皇の崩御

久寿2年(1155)7月23日、近衛天皇が17歳で崩御します。

もともと病弱であったため、病気を患い崩御しました。

近衛天皇が亡くなったのは病気が原因でしたが父・鳥羽法皇や美福門院は崇徳上皇を主君としていた藤原頼長の呪詛であると信じていたとされています。

この時、近衛天皇には子供はおらず後継天皇を決める王者議定が開かれます。

この際、次期天皇の候補として挙げられたのは崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と美福門院の養子である守仁親王(後の二条天皇)でした。

結局、守仁親王(後の二条天皇)が次期天皇に決定されましたが、守仁親王(後の二条天皇)の父・雅仁親王がまだ存命しているため、守仁親王の父・雅仁親王が立太子しないまま守仁親王即位までの中継ぎ天皇として29歳で即位することなりました。(後白河天皇)

このように、上皇であるにも関わらず院政を行えず、また自身の息子である重仁親王に皇位が継承されなくなったため、崇徳上皇の不満は増すばかりでした。

父・鳥羽法皇の崩御

その後、保元元年(1156)5月、父・鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日に崩御します。

父・鳥羽法皇から酷い仕打ちを受けていた崇徳上皇でしたが、父・鳥羽法皇の臨終の直前に見舞いに訪れていました。

しかし、父・鳥羽法皇は自身が亡くなった際、息子である崇徳天皇に遺体を見せないように側近らに命じていたため、崇徳上皇は父・鳥羽法皇との対面を拒否されます。

そのため、崇徳上皇は憤慨し鳥羽田中殿へと引き返しました。

 

保元の乱

父・鳥羽法皇の崩御後の7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」崇徳上皇が藤原頼長と共謀し国をつぶそうとしている。といった噂が流れます。

このような噂に対し、崇徳上皇は軍事対応を起こそうとしましたが、当時の天皇である後白河天皇は崇徳天皇の側近である藤原忠実と藤原頼長に対し、荘園から兵を集めることを禁じました。

また藤原頼長に対し謀反の疑いとして財産没収の刑が与えられます。

これらの動きは、崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによるものとされています。

 

後白河天皇方に夜襲を仕掛けられる

崇徳上皇は7月9日の夜中に鳥羽田中殿を脱出すると、京都の白河にある妹・統子内親王の御所に身を寄せました。

崇徳上皇に対し、直接的な攻撃はありませんでしたが、平安京内では崇徳上皇が国をつぶそうとしているという噂が流れていたため、朝廷による拘束を避け鳥羽から脱出したと考えられています。

翌日の10日になると崇徳上皇の身を寄せる御所には、側近の藤原教長や平家弘、源為義、平忠正らが集まりました。

しかし、兵の数は朝廷に比べ非常に少なかったとされ、崇徳上皇は平清盛が味方になってくれるよう期待していたとされています。

一方で後白河天皇は崇徳上皇の動きを察知し、武士を集めはじめました。

その中には平清盛もいたとされ、11日未明、崇徳上皇が身をひそめる白河北殿に夜襲が仕掛けられます。

この夜襲によって白河北殿は炎上し、崇徳上皇は脱出すると身をくらませました。

これらの一連の騒動は保元の乱と呼ばれています。

 

讃岐国へと配流され崩御

身をくらませた崇徳上皇は源為義・平家弘らと共に東山の如意山へと逃げ込みましたが、崇徳上皇は源為義・平家弘らを逃がし投降を決意して剃髪しました。

その後、投降を決意した崇徳上皇は13日に仁和寺に出頭し、弟・覚性法親王に朝廷との仲立ちを依頼するも断られ、朝廷方に捕えられます。

朝廷に捕えられた崇徳上皇は源重成の監視下におかれた後、23日に網代車に乗せられ罪人として讃岐国へと島流しされました。

天皇または上皇の配流は淳仁天皇の淡路国配流以来、約400年ぶりの出来事であったとされています。

讃岐へ渡った崇徳上皇は、その後2度と京都へ帰ることはできず、長寛2年(1164)8月26日に46歳で崩御しました。

配流先での崇徳上皇

配流先の讃岐国で崩御した崇徳上皇でしたが、生前、讃岐国において崇徳上皇は仏教を深く信仰すると極楽往生を願い、五部大乗経の写本作りに専念していたとされています。

崇徳上皇は完成した写本を、保元の乱の反省の証として、また戦死者の供養とし朝廷の後白河天皇に送りましたが、後白河天皇は写本に呪いがかけられているのではと疑い受け取りを拒否しました。

これに激しく怒りを見せた崇徳上皇は自身の舌を噛み切り「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と血でか書き込んだとされ、また髪や爪も伸ばし続け天狗のような姿になったと『保元物語』に記されています。

崇徳上皇が崩御した後、朝廷は未だ崇徳上皇を罪人として扱い、国司のみによる葬礼を行うといった措置を取りました。

このように朝廷は崇徳上皇の死を無視し続けたのです。

 

怨霊と恐れられた崇徳上皇

しかし、安元3年(1177)になるとは延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、また安元2年(1176)には後白河天皇に近い建春門院、高松院、六条院、九条院が相次いで亡くなりました。

これらの騒動は、崩御した崇徳上皇の呪いや怨霊の仕業と考えられ、後白河天皇は怨霊鎮魂のために「崇徳院」という院号を与え、また寿永3年(1184)4月15日、保元の乱の戦場跡であった春日河原に「崇徳院廟」を設置します。

また崇徳上皇が崩御した際、配流先の讃岐国の人々によって崇徳天皇陵の近くに頓証寺(現在の白峯寺)が建てられたとされ、その頓証寺(現在の白峯寺)にも官の保護が与えられました。

 

明治、昭和における崇徳上皇に対する怨霊鎮魂

後白河天皇だけではなく、慶応4年(1868)明治天皇は崇徳上皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建、また昭和天皇も昭和39年(1964)、崇徳天皇陵(白峯陵)に勅使を派遣し式年祭を執り行わせています。

また京都府京都市東山区にある神社・安井金比羅宮は崇徳上皇を慰霊する神社で配流先の讃岐国ですべての欲を断ち切り、堂にこもり写本作りに専念していた崇徳上皇にあやかり「縁切り神社」と呼ばれています。

 

日本三大怨霊

怨霊と恐れられた崇徳天皇は平将門、菅原道真と並び、日本三大怨霊とし今でも恐れられています。

 

まとめ

崇徳天皇は白河法皇の子供と疑われ、父親である鳥羽天皇から嫌われ続け、院政も行うことができず悲運な生涯を送った人物でした。

保元の乱を起こすも後白河天皇方に敗北し、上皇であるにも関わらず配流され、その後怨霊として恐れられることとなります。

しかし、和歌の才能を持っていたとされ「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」は『小倉百人一首』に採られています。