「高山右近(1552?~1615)」という名の人物をご存知でしょうか。
キリシタン大名(キリスト教に入信し、洗礼を受けた大名)として有名な人物であり、熱心なキリスト教徒であった彼はその後、時代の流れに逆らえず日本からマニラへ追放され、そこで生涯を閉じることとなります。
歴史の授業や大河ドラマなどで名前と少しの経歴を知った方も多いと思いますが、今回はその高山右近に焦点を当て、彼の生涯や彼の周辺人物を紹介していきます。
また高槻城の地下から発見されたある痕跡や細川ガラシャとの関係性、さらにはマニラに残された子孫がその後どうなったのかということにも触れたいと思います。
キリシタン高山右近の生涯
高山右近(1552?~1615)は、日本史を代表するキリシタン大名であり、洗礼名は「ジュスト」といいます。
父の高山飛騨守(?~1595、洗礼名「ダリヨ」)は畿内のキリシタンのさきがけであったとされます。高山右近は家臣や領民だけでなく、豊臣政権下で親交のあった周囲の武将たちにも信仰を広げ、キリシタンとしては国内外に知られました。また数多くの戦歴を持つ武将としてや、千利休門下の茶人としても有名です。
高山右近の生涯は信仰と一体であったといえます。
元亀2年(1571)に父の飛騨守が仕えた高槻城主、和田惟政が戦死し、同4年(天正元年1573)に惟政の子、和田惟長との対立を制して高槻城主となります。
その後、高山右近が与力として属した荒木村重は天正6年、織田信長に謀反を起こし、織田信長は高山右近にキリスト教弾圧を楯に寝返りを迫るのですが、この時点の高山右近は裏切りを許さない熱心なキリシタンになっており、苦悩の果てに出家姿で織田信長の許に向かうこととなります。
天正15年( 1587)の豊臣政権による伴天連追放令の際には大名の地位を捨て、淡路島・小豆島などを経て1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭。
その後、徳川幕府によるキリスト教の禁教令(1612) が発布、1614年には右近の国外追放令が出されたことにより、加賀前田家を去るのです。
マニラでは権力に屈服しなかった熱心なキリスト教徒であるとして大歓迎されますが、苦難の道中に加え、不慣れな南国の気候や食事により身体を弱めていました。
そして慶弔20年(元和元年、1615)、高山右近はフィリピンのマニラで63歳の生涯を閉じたのです。
高山右近と高槻城
高槻城とは?
大阪府高槻市にあったとされる城であり、高山友照・右近父子が高槻城主城を支配したことでも有名です。現在ではその城跡地は高槻城跡公園という形で開放されています。
残念ながら明治維新でこの城は完全に破却されたようで、城の遺構と呼べるものはほとんどありませんが、その周辺には「高麗門」、永井氏を祀った「永井神社」、高山右近時代にあった「天主教会堂の石碑」など、当時の痕跡はわずかながら残されています。また「市立しろあと歴史館」は高槻城城下の模型や、永井氏についての資料・展示物が見学できるスポットにもなっています。
キリシタン墓地の存在
さて、外観では現在において、高山右近が統治した当時の姿はあまり見えてこなかった高槻城ですが、地下にはまだまだ興味深いものが眠っているようです。その中の一つとして1996年には、高槻城跡の地下から「キリシタン墓地」がみつかったことが挙げられます。年代測定結果から高山右近の時代のものであるらしく、木棺の中からは木製のロザリオも見つかったのです。
この墓地には面白いことに、男女の区別・幼児や老年の年齢関係がなく、さらに聖職者とみられる人物も他と同じように埋葬されており、きわめて等質的な墓地となっているとのことです。
つまり、ここからキリスト教でみられる「博愛的な思想」が読み取れ、それが身分制を超えて実践されていたことが分かるのです。
キリシタン「細川ガラシャ」
細川ガラシャは明智光秀の娘で、名は「玉子」、細川忠興の妻として知られています。また洗礼名の「ガラシャ」とは、ラテン語で恩寵・神の恵みの意味を表します。
悲劇的な最期を遂げた彼女ですが、高山右近と細川ガラシャの出会い・関わりに関して、残念ながら現在残されている書物などからみるに、そこまで深い関係性は確認できないようです。
しかしながら改宗のきっかけは、残された資料を見るに、細川忠興が高山右近から聞いたカトリックの話を細川ガラシャにしたことで、その教えに心を魅かれていったとしか伝わっておらず、改宗に至る内面的な動機については、はっきりとしたことは分かっていないのです。今後の書物の発見・研究に期待を寄せたいところです。
ちなみに、改宗前までの細川ガラシャは気位が高く怒りやすかったそうですが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという話です。
残された子孫たちのその後
高山右近の死後、残された家族には後々帰国が許されました。
そのため、現在も石川県・大分県の2ヶ所に直系の子孫である、石川県羽咋郡志賀町の高山家と大分市の高山家があります。
右近がマニラで亡くなった後の1616年、妻とルチアと孫のひとりが帰国していることが ロドリゲス神父の書簡に記されており、この孫の子孫が石川県志賀町に移住し、現在の志賀町代田の高山家の祖先となったといいます。(高山家に伝わる掛け軸に、「高山右近孫長房」と記されています。)
一方、大分市の舞子浜霊苑にある「1802年の碑文」には、右近の次男「亮之進」が大友義統(キリシタン大名であった大友宗麟の子)にかくまわれ、その子孫が大分の高山家であると記されています。そして昭和12年、片岡弥吉教授が、元大分市長の高山英明氏の系図を発見して、亮之進の子孫であることを確かめたのです。
以上のことから、高山右近の二つの直系子孫が日本に存在するという事実が明らかとなったのであります。
さいごに
今回は戦国時代のキリシタンで有名な高山右近の生涯と、彼が周囲にどのような影響を残したのかまとめました。
もし今回の記事で少しでも興味を持った方は高山右近の痕跡を辿ってみるのはどうでしょうか。
マニラまで旅行をしに行くのは大変ですが、高槻城跡周辺は当時の遺物はほとんどないにしろ、今でも小さな様々な発見ができるかと思います。是非一度足を運び、散策をしてみてください。