武田勝頼とは?最後や評価、子孫や明智光秀との関係について解説!

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武田信玄という偉大な父を持ち、大河ドラマ「真田丸」の第一話で脚光を浴びた一人が武田勝頼です。

武田勝頼は、戦国時代から安土桃山時代にかけて甲斐国の戦国大名で、長篠の戦で織田・徳川軍と戦い、最後は仲間に裏切られる形で生涯の幕を閉じました。

そんな武田勝頼の評価や子孫、また織田信長の家臣である明智光秀の関係等も解説していきます。

武田勝頼の生い立ち

天文15年(1546年)、武田晴信(信玄)の四男として武田勝頼は生まれます。生誕地や生月日、幼名は分かっていません。

元亀4年(1573年)勝頼が27歳の時に父である信玄の死により家督を相続し、甲斐武田家第20代当主となります。

通称は四郎です。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であった為、伊奈四郎勝頼とも言われていました。

 

四男である勝頼が家督を継ぐ

四男として生まれた勝頼は、もともと武田家を継ぐ予定はありませんでした。

ですが、長男は信玄暗殺計画の疑いをかけられ幽閉され、次男は盲目であった為出家されています。また三男は若くして他界しています。

そのような事から四男である勝頼に家督の順番が回って来ました。

家督を継いでからは父信玄が成し得なかった事を成し遂げる為に邁進します。

 

武田勝頼の怒涛の勢い

父である武田信玄は西上作戦の反信長連合に呼応する形で遠江、三河侵攻戦の途中で生涯の幕を閉じてしまいます。

これにより徳川家康と織田信長は九死に一生を得ますが、武田軍は追い込まれる状況となります。

ですが勝頼は守るのでは無く、父の遺志を継ぎ攻めて行きます。

それにより信玄以上に領国拡大に乗り出し、織田軍領地である美濃明智城を陥落させる事に成功します。

さらに徳川領遠江に侵攻し高天神城を陥落させ、東遠江をほぼ制圧します。

また徳川家康の拠点である浜松城まで迫る勢いでした。

 

もろい連合体

しかし、水面化では武田軍は非常にもろい連合隊を成していました。やはり父・信玄と比べると家臣達からの信頼は弱かったのです。

もし立ち止まれば、織田徳川連合軍に飲み込まれてしまいます。後に引くことはもう出来ません。

天生3年(1575年)、勝頼は徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵約1万5千を率いて三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠る長篠城への攻撃を開始します。

歴史的な戦・長篠の戦い

奥平勢が善戦し、武田軍は長篠城攻略に時間を費やす事となります。

そして織田徳川連合軍はおよそ兵3万8千を率いて長篠(設楽ヶ原)に到着します。

これに対し、勝頼は兵3千を残し、主力1万2千を率いて織田徳川連合軍と対峙する為、設楽ヶ原へ進出します。

これが歴史的な戦い「長篠の戦い」の始まりとなります。

 

後には引けない勝頼

長篠決戦前日の戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は高かったのですが、野戦ではなく攻城戦に近い状況に、勝頼の家臣達は撤退を進言していました。

しかし勝頼は、織田徳川連合との決戦を選択し、5月21日早朝に開戦します。

午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられますが、元々数で劣る武田軍は劣戦を強いられます。

連合軍の防御を務めていた土屋昌次が戦死すると、攻めの勢いを喪失し、武田軍は総崩れとなります。

武田軍の敗北が決まりました。

この敗北で家臣を失い、武田軍は1万人以上の兵を失いました。

 

武田勝頼はどんな最後だったのか。

追詰められる武田勝頼

長篠の戦で撤退するも一時は再建し、持ち直したかの様に思われました。

勝頼は信長との和睦交渉を進めて来ましたが、信長は勝頼との和睦を黙殺し、天正10年(1582年)に武田領攻撃を家臣に通告します。

天正10年(1582年)2月、織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始します。

織田軍の侵攻の始まった2月14日に浅間山が噴火しました。

当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており、さらに噴火の時期が織田軍侵攻と重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまいます。

 

仲間に裏切られる武田勝頼

四方から侵攻され、武田軍は組織的な抵抗が出来ませんでした。

また、勝頼の家臣達が織田軍や徳川軍に寝返り、侵攻の手引きをした者や、戦わずして逃亡した者もいました。

またこれらの事から武田軍の将兵は人間不信を起こし、将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては逃げ出します。

 

最後の時、苦渋の決断

勝頼も自身の新府城に放火して逃亡しますが、織田軍により進路を塞がれてしまい、逃げ場所が無い事を悟った勝頼は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指します。

しかし、その途中で追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人と共に自害し、生涯の幕を閉じました。

享年37歳です。

辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」です。

 

武田勝頼の戦国武将としての評価は

当時、上杉謙信や織田信長が書状において、勝頼を武勇に優れた武将として評価しています。

特に上杉謙信は織田信長に対し、勝頼の武勇を警戒するように注意していました。

信長も甲州征伐際に勝頼は最後は必ず決戦を挑んでくると警戒しており、当時の人々は勝頼は信長と決戦して勝利する事が可能な武将だとも認知されていました。

江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』には、勝頼は「強すぎる大将」と記されています。

その事からも、武田勝頼は大変優れた武将だったのです。

一方で、近世の武家社会では家を守り伝えるのは最も重要な徳目であると考えられており、勝頼は武田家滅亡の原因を作った張本人であり、家を滅ぼすの愚行の極みという低い評価もあります

現在にも通ずる勝頼に対する低い評価は、この近世の武家の倫理規範によるものと考えられています。

しかし現在、勝頼の事跡を検討し、再評価する声も上がっています。

明智光秀との関係

明智光秀と言えば、織田信長に見出されて重臣になり、本能寺の変を起こして主君を自害させた人物として大変有名です。

明智光秀は父親の名前が伝わらない程の低い身分の出と言われており、生まれた年も諸説ありますが、生まれた場所は明智城です。

天正2年(1574年)武田勝頼が攻め落とした城であり、これが後の長篠の戦の始まりとされています。

明智城と明智光秀の名前が付いていますが、実際のこの当時の城主は遠山一行です。

長篠の戦に敗れた武田勝頼は、明智城は織田軍の城となり、城主であった遠山一行が帰還します。

その後も明智光秀自身が明智城と関わりを持った資料はありません。

直接的な明智光秀と武田勝頼の関係が分かる資料は現在ありませんが、明智城での戦いや後の長篠の戦では明智光秀は織田信長の重臣として進軍しています。

最後まで敵対関係にありました。

 

子供や現代に続く子孫は?

武田勝頼の妻や子は

武田勝頼が家督を継いでから、織田家との関係は良くありませんでしたが、父である信玄の時代は織田家とは和睦を結んでいました。

その証拠に織田信長の養女である龍勝院が武田勝頼に嫁いでいます。この女性が勝頼の正室であり、勝頼の嫡男信勝の母です。

また龍勝院は元亀2年(1571年)9月16日に死去し、勝頼は天正5年(1577年)に北条氏政の妹(北条夫人/桂林院)を継室に迎えています。

北条夫人との間には2男1女を設けたと言われていますが、諸説あり、有力な一説が2男1女です。

嫡男信勝は、勝頼と共に自害しており、次男については資料が無く、三男にあたる勝親は家臣に助けられ、鎌倉まで逃げ延び出家して僧になったとあります。

そして唯一の娘である貞姫は、信玄の娘である松姫によって助けられ、武蔵国八王子に落ち延びたと言います。

その後も松姫に育てられ、後に江戸幕府高家旗本・宮原義久の正室となります。

また嫡男晴克を生んでいます。

 

現代に続く子孫は居るのか

宮原氏は高家旗本として幕末まで続いており、直系ではありませんが、唯一勝頼の子孫と言えます。

その後の資料が無い為、現在も勝頼の血が続いているかは分かりません。

しかし父である武田信玄は7男5女を設けており、武田家の末裔は現在もいます。

現在、正当な子孫として認められているのは16代の武田邦信さんとされています。

現在も甲斐の国大使や武田神社の崇敬会総裁を兼任していらっしゃるそうです。

この方は正当な血の繋がりがあるとされており、息子さんもいるそうです。

まだまだ武田家の血が途絶える事はありません。