中大兄皇子(天智天皇)について!中臣鎌足との関係、子孫や家系図を解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )といえば読み方も含めて日本史を学んだ人なら必ず覚えている名前の一つと言えるほどの有名な人物ですが、その功績といえば中臣鎌足とともに行った大化の改新ぐらいしか思い付かないのではないでしょうか。

しかし、中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)として即位後、数々の政策を執行していきます。国土防衛の政策として烽火(のろし)の常設・防人の設置、冠位も十九階から二十六階へ拡大し行政機構を整備、日本最古の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成し、公地公民制の土台を築きました。

類いまれなる政治手腕と暗殺というテロ行為をやりきるだけの度胸と行動力をあわせ持った飛鳥時代のスーパースター・中大兄皇子について、子孫や家系図も含めて追いかけてみたいと思います。

乙巳の変(いつしのへん)と皇太子時代

626年に舒明天皇(じょめいてんのう)の第2皇子として生まれ、母親は皇極天皇(斉明天皇)、異母兄が古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)、弟が大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)です。

 

大化改新を成し遂げる

弱冠二十歳にして乙巳の変で、中臣鎌足とともに専横を続けた蘇我入鹿を討ち果たし、蘇我蝦夷を自害に追い込み、蘇我氏独裁体制を崩壊させたのちは母の弟軽皇子を即位させて孝徳天皇としました。

その後、中大兄皇子は皇太子となり、改新の詔を出して税制改革、土地、人民の国有化、行政改革などを矢継ぎ早に行います。これがいわゆる「大化改新」です。

 

孝徳天皇による遷都

652年に難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)が完成すると孝徳天皇はここに遷都して政治を行おうとします。

しかし、翌年653年に孝徳天皇に対して中大兄皇子がもとの飛鳥宮へ戻るように進言、孝徳天皇はこれを拒否し難波宮で政治を続けようとしますが、中大兄皇子は母の皇極前天皇と皇太弟の大海人皇子を連れて飛鳥宮へ帰ってしまいます。

すると難波にいた大臣や役人の多くがこれに従って飛鳥宮へ戻ってしまい、自分の人望のなさを孝徳天皇は嘆いたと言われています。

 

皇太子から天智天皇へ

中大兄皇子らが難波宮を去ると孝徳天皇はにわかに病に臥せり、翌年あっけなくこの世を去ります。その後、中大兄皇子は母である皇極前天皇を再び斉明天皇として即位させ、自身は皇太子のまま国政の実権を完全に掌握しました。

 

政敵・有間皇子(ありまのみこ)を絞首刑に

658年には政敵となる孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)を天皇への謀反の罪で絞首刑に処して政権の安定をはかり、阿倍比羅夫を蝦夷に3度派遣して蝦夷平定を成し遂げました。

660年に百済が新羅と唐の軍勢に滅ぼされると朝鮮半島への出兵を敢行します。

 

白村江の戦いで大敗

翌661年斉明天皇が崩御というアクシデントが発生しますが、中大兄皇子は即位せず皇太子のまま執務を取り続け、663年、白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で新羅・唐の連合軍と激突しますが大敗を喫し、日本軍は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。

 

天智天皇となる

667年、乙巳の変から12年後近江大津宮(おうみおおつのみや)へ遷都し、ついに即位して天智天皇(てんじてんのう)となり弟の大海人皇子を皇太弟、息子の大友皇子を日本史上初の太政大臣に任命し、磐石の政治体制をとります。

 

中臣鎌足に続いて崩御

669年、中臣鎌足を内大臣に任じて藤原の姓を与え、その長年の功績に報いるとその翌日に中臣鎌足はこの世を去り、2年後の671年には天智天皇も病に倒れます。

後事を託そうとした弟・大海人皇子は剃髪して吉野に去り、後継者が定まらないままに672年天智天皇は近江大津宮で崩御しました。

中臣鎌足との関係

中臣鎌足は614年生まれで、中大兄皇子よりも日本でいう一回り(12歳上)年長でした。若くして「六韜」(りくとう・中国の代表的な兵法書)を丸暗記、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の私塾でも蘇我入鹿とならんで秀才の名を欲しいままにしていました。

祭官の家柄であった中臣家でしたが鎌足は任官を拒み、摂津の三島に退いて打倒蘇我氏に全てを賭けようとします。

この中臣鎌足を反蘇我氏の旗頭として見出だしたのが中大兄皇子でした。

 

中大兄皇子との固い絆

法興寺で行われた蹴鞠の会で見た才気溢れ、折り目正しく覇気のある中大兄皇子に接近して二人は意気投合、打倒蘇我氏の計画を着々と練り645年にそれを成し遂げます。

鎌足は外務、軍事の二大権力の指揮者として常に中大兄皇子を補佐して大化の改新の政治改革を推し進め、政権を掌握し即位して天智天皇となった中大兄皇子は、病に臥した中臣鎌足を見舞って家格以上の位である内大臣に任じ藤原の姓を与え、その功績に厚く報いました。

策謀渦巻く飛鳥時代の権力闘争のなかで知り合ってから約25年間、裏切ることなく理想に向かって走り続けた中大兄皇子と中臣鎌足は、天皇と臣下の関係の前に固い絆で結ばれた親友だったのでしょう。

 

天智天皇亡き後の皇統(こうとう・天皇の男系血統)

天智天皇が病に臥した時に後事を託されながらそれを断り、剃髪して吉野へ去った大海人皇子は静かに力を蓄え、672年1月に天智天皇が崩御すると同時に、後継と目された皇太子・大友皇子が即位する前に反乱の火の手をあげます。

伊勢、美濃、伊賀の豪族らを味方にし、大友皇子率いる近江朝廷軍と激突。連戦連勝で追い詰めていき、大友皇子をついに自害させます。

翌673年、大海人皇子は即位して天武天皇となり、天智天皇の改革路線をより強く推し進めていきます。このあと天武天皇の血筋は48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)まで脈々と受け継がれていきました。

 

中大兄皇子(天智天皇)の子孫や家系図

中大兄皇子(天智天皇)に続く子孫として、娘の持統天皇、元明天皇、そして第一皇子・弘文天皇、第七皇子・志貴皇子(しきのみこ)などがいます。

志貴皇子から続く家系図としては、光仁天皇から第50代天皇となる桓武天皇へと続きました。桓武天皇は都を平安京へ遷都した人物として有名ですね。

天智天皇の子孫や家系図は、まさにロイヤリティーの権化とも言うべく、「〇〇天皇」の名前を持つ人物ばかりが登場します。驚きの家系図ですね。

 

さいごに

乙巳の変で覇権を握った天智天皇は数多くの改革の道筋をつけ、その後の日本の中央集権国家体制に多大な影響を与えました。

また勉強家であった天智天皇は671年に水時計を製作し、庶民に時を知らせた逸話を残す技術者でもありました。この時を知らせた日付6月10日は時の記念日として現在もその功績が称えられています。

若くしては秀才といわれ、成功率の低い軍事クーデターによる内乱で政権を奪取した中大兄皇子こと天智天皇は、日本の国家体制の基礎を築いた飛鳥時代の名君としてこれからも人々の尊敬を集めることでしょう。