優秀な者なら他藩の者でも取りたて、一介の脱藩浪士である坂本龍馬(さかもとりょうま)とも面会し、納得すれば海軍の為にポンと数千両を出す気前の良さ、「幕末の四賢候」のうちの一人として称された福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく・松平慶永)とはどのような人物だったのでしょうか。
春嶽と坂本龍馬との関係や、子孫なども気になる所です。そんな春嶽の人生全般を家系図にも触れながら詳しく説明していきます。
松平春嶽(松平慶永)の生涯とは?
幼き名君誕生、松平春嶽の生い立ち
松平春嶽(松平慶永)は、田安徳川家の徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男として江戸に生れ、11歳の時に福井藩主・松平斉善(まつだいらなりさわ)の嗣子となり、その後、福井藩主となります。
ちなみに、「春嶽」という名はいわゆる称号で、「慶永(よしなが)」という名が実名です。松平春嶽は、この「春嶽」という号を最も愛用したと言われています。
実際の福井入りは16歳の時ですが、家督を継いだ江戸住まいの時から藩の財政難を知っており、自らの藩主手許金を半減とし、食事も副菜は漬物か汁のみと倹約を率先し、側近である中根雪江(なかねせっこう)ら家臣達を感激させました。
16歳の時に福井の地元に入国してからは自らの足で領地を視察し、時には民に声を掛け、同じ食べものを食べて民の苦難を実感し、何としても財政改革をすると強く心に決めて実行していきます。
賢い殿様と言われる所以、改革断行
春嶽の藩政改革は着実かつ強固に行われ、人材の登用と藩政の刷新に努め、西洋砲術などの軍事力の強化、藩校明道館の設立などを実行します。また、医学にも力を入れて種痘の導入など洋学の導入も推進しました。
春嶽は聡明な殿様と言われる理由の一つに、身分に拘らず人の話を聴いて、良い物は取り入れるという主義があり、優秀な人材ならば他藩の者も積極的に取り入れる人材登用を実施しています。その代表的な例が熊本藩士・横井小楠(よこいしょうなん)の登用です。
そして、藩政だけでなく、ペリー来航を機に海防の強化を説いて、湾岸警備の具体策を幕府に熱心に働きかけたりもしました。
幕政介入と将軍後継問題
春嶽は藩政のみならず幕政と将軍後継問題にも介入、腹心である橋本左内(はしもとさない)を京都に派遣して一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を継嗣に推すなど、薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)、土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)らとともに、幕府主流派と対立しました。
安政の大獄、謹慎と挫折
将軍継嗣問題は、南紀派で彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)が大老となり、将軍世子は徳川家茂(とくがわいえもち)に決定しました。
将軍嫡子問題に敗れただけでなく、幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印したため、春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議します。
こうした、一橋派の動きに井伊直弼の怒りが頂点に達し、「安政の大獄」で一橋派を弾圧、春嶽は片腕の橋本左内を失う事となり、自らも不時登城の罪を問われて強制的に隠居謹慎の処罰を受け、春嶽を含めた一橋派は挫折しました。
幕政復帰、大政奉還へ
井伊直弼が暗殺され政界に復帰、徳川慶喜と共に春嶽も幕政の中心的地位に就きました。
春嶽は公武合体にも尽力し朝廷からも信頼されますが、八月十八日の政変後、京都で行われた参与会議では各藩主の思惑が絡み合い、会議は崩壊。四賢会議でも慶喜と薩摩藩主・島津久光(しまずひさみつ)の関係は悪化して、久光は討幕へと舵を切ることになったのです。
徳川幕府終焉の予感を感じ土佐藩主・山内容堂は大政奉還を建白、春嶽もこれに賛同し、慶喜は大政奉還を上奏して徳川幕府の時代が終わりを告げる事となりました。
明治維新、新政府のもとで
王政復古の大号令により新政府の議定職の一人に任命されましたが、慶喜への厳しい処分に反発し、大蔵卿を最後に42歳でいっさいの公職を退きます。
以後、「逸事史補」など多くの著述をまとめ、明治23年6月肺水腫により62歳で亡くなりました。
春嶽が輩出した人材
横井小楠
横井小楠(よこい しょうなん)は、幕末に活動し明治初期に暗殺された熊本藩出身の儒学者で政治思想家です。
熊本藩において藩政対立で失敗、その後私塾を開いた事がきっかけとなり幕末四賢候の一人、福井藩主・松平春嶽に招かれ政治顧問となります。
その後、「国是三論」を著して「国是七条」を建策、徳川慶喜が将軍になった後は福井藩政府に対して「国是十二条」を提出しました。
幕政改革や公武合体の推進に尽力するも藩籍をはく奪され一時失脚しますが、その実力が評価され、新政府に参与として出仕する事になります。
しかし、天主教(キリスト教)に関するデマなどを理由に保守派に暗殺されてしまいました。
橋本左内
橋本左内(はしもとさない)は、幕末志士であり医師でもある福井藩士です。
15歳にして「啓発禄」を書き、藩校明道館学監となってからはその優秀さが藩主・松平春嶽の目にも留まり、腹心として取りたてられました。
江戸遊学時に藤田東湖や西郷隆盛とも交友があり、西郷隆盛には特に優秀だと認められていたそうです。
松平春嶽の片腕として、将軍継嗣問題に奔走し一橋慶喜の擁立に尽力しましたが、安政の大獄によって25歳の若さで斬首されました。
由利公正
由利公正(ゆりきみまさ)は、福井藩士の幕末志士であり明治の政治家です。
来藩した儒学者、熊本藩士・横井小楠に学び、藩の財政改革を実行したり、橋本左内らと藩の兵制改革にも尽力しました。
坂本龍馬とは相当気が合ったそうで、龍馬の2度目の福井来訪の際に公正は謹慎中だったにも関わらず、龍馬は平気で訪ねてきて朝まで語りあったそうです。
明治維新後は、新政府で活躍し政府の財政面を担当し、また五箇条の御誓文の起草にも参画しました。
松平春嶽と坂本龍馬
坂本龍馬は幕末のヒーローと言われていますが、当時は一介の脱藩浪士に過ぎない存在だったにも関わらず、政府高官の藩主である松平春嶽にどうようにして会えたのでしょうか。
春嶽という人は「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」という言葉を残しています。
どうやらこの春嶽の考えが春嶽と龍馬を繋ぐ接点のようで、実際どのようにして会えたのか確実な記録を探すことができませんでしたが、春嶽の書いた記録から二人は会っていた事は確かで、この出会いにより龍馬は春嶽から横井小楠と勝海舟(かつかいしゅう)に会うための紹介状を書いてもらうことになります。
この後、龍馬は勝海舟の弟子となって数々の大業を成し遂げていくこととなり、龍馬の人生のターニングポイントの水先案内人になったのが春嶽だったわけで、「坂本龍馬」を語る上で絶対に外せない人物、それが「松平春嶽」なのです。
松平春嶽の子孫と家系図
春嶽の子孫
春嶽は正室、側室合わせて四男八女、合わせて12人の子供を授かっていますが、6人が夭折しています。
福井藩は、養子である松平茂昭(まつだいら もちあき)が17代当主として継ぎ、実子の四男である徳川義親(とくがわよしちか)が尾張徳川家19代を相続しました。
春嶽の子供で元気に育ったのは、側室である婦志(ふじ)との間に生まれた子供だけなのも興味深いところです。正室と側室二人の子は全て夭折しています。
側室・婦志(糟屋十郎兵衛の娘)との子供
五女~八女
全て徳川・松平・毛利・三条家などに嫁いでいます。
三男・松平慶民(まつだいらよしたみ)
侍従・宮内大臣・宮内庁初代長官となっています。
四男・徳川義親(とくがわよしちか)
マレーで虎を狩ったことから「虎狩りの殿様」と言われたり、社会党の支援をして公職追放をされたりと、何かとお騒がせな人物で尾張徳川家19代を相続しました。
松平永芳(まつだいらながよし)
春嶽の子孫で有名な方に、春嶽の三男・松平慶民の子で孫にあたる元軍人で、6代目靖國神社元宮司の故・松平永芳(まつだいらながよし)さんがいます。
家系図からみた田安徳川家
春嶽の家系図を紐解くと、春嶽の父・徳川斉匡(とくがわ なりまさ)は田安徳川家の3代当主で、一橋徳川家より田安徳川家に養子入りしています。
田安徳川家は、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有していたのです。
しかし、実際は江戸時代を通じて将軍を輩出することはありませんでしたが、皮肉な事に新政府となった明治に入り、田安家7代当主・德川 家達(とくがわ いえさと)が徳川家宗家を相続することになり、華族となって伯爵を授けられました。