明治政府と西郷隆盛率いる士族たちとの間で起こった西南戦争。
日本史上最大の内戦と言われていますが、熊本城や田原坂などでは、特に激しい戦いが展開されました。
今回の記事では、それら西南戦争で実際の戦闘地となった場所やその戦いの内容について解説していきたいと思います。
【場所その1】難攻不落の熊本城
さて、西南戦争の緒戦は熊本県熊本市のシンボルである、熊本城で行われました。
西南戦争の緒戦を飾った場所であり、ここでの勝敗が西南戦争の行方を大きく左右する重要な場所でした。
加藤清正が建てた難攻不落の熊本城
豊臣秀吉に仕えた加藤清正は、「築城の名手」と言われるほど城造りに長けており、熊本城だけでなく名古屋城や江戸城の建築にも携わっています。
そんな加藤清正が建てた熊本城ですが、難攻不落の城として昔から有名であり、その理由が石垣の「武者返し」と呼ばれる造りにあります。
武者返しの石垣を登ろうとすると、一見、石垣の下の部分は傾斜が緩やかで簡単に登れるように見えますが、上に向かうほど傾斜が急になり、登ることができなくなるのです。武士はもちろんですが、身軽な忍者でさえ登るのを諦めたと言われています。
加藤清正はこの石垣造りが特に得意だったということですが、のちに西南戦争で敗れた西郷隆盛は「ワシは官軍ではなく清正公に負けた」という言葉を残しています。
西南戦争では官軍側(政府軍側)の士気は低かった?
明治維新後、明治政府のものになっていた熊本城でしたが、西南戦争が始まる前にも、士族たちによる「神風連の乱」で熊本城は一度襲撃されており、多くの官憲が亡くなっています。
幸い、「神風連の乱」では1日で士族たちを鎮圧できましたが、今回の西南戦争の相手は、誰もが知る西郷隆盛率いる、やる気に満ちた士族たちです。1年も経たず熊本城での反乱が続いたため、政府側の兵の士気が低かったのです。
当時の熊本鎮台長官を務めていた谷干城(たにたてき)は、その状況を察して薩摩軍との籠城戦を覚悟しました。熊本城の人員は4000人、薩摩軍の人員は14000人と言われており、籠城戦では攻める側が有利になるために数倍の人員が必要なのが定説だったため、この判断は正しかったと言えます。
薩摩軍側は全員で一斉攻撃の作戦を取るも…
1877年2月22日、西南戦争における緒戦、熊本城での戦いが始まりました。
当初、薩摩軍側では池上が主張する「熊本は抑えに徹し、主力は東上に進む」という案と、篠原が主張する「全軍をもって熊本城に一斉攻撃」という案で意見が別れましたが、最終的に池上の「全軍をもって熊本城に一斉攻撃」案を採用。熊本城を包囲し、薩摩全軍を持って総攻撃に当たります。
しかし、3日間攻撃をしても熊本城はビクともしません。
すぐには落とせないことを察し、薩摩軍側は兵糧攻めの作戦に切り替えます。4000人の兵士を賄う食料が先に尽きるのを待つことにしたのです。
これに対し、官軍側は次々と援軍の兵士を送りますので、薩摩軍も対処せざるを得ません。熊本城には兵士を3000人残し、残りは官軍を迎え打つために北上します。
【場所その2】越すに越されぬ田原坂、勝敗を分けた激闘の地
熊本城で籠城している主力に援軍を送りたい官軍側は、唯一、大きな大砲を送れる田原坂を通る必要がありました。当然、それを阻止したい薩摩軍側と大きな戦闘がここで起こり、田原坂は100年後にも銃弾の跡を多数残す激戦地となったのです。ここでの戦いが、西南戦争の勝敗を決めたと言われています。
田原坂も加藤清正の手がかかっている?
田原坂は、熊本県熊本市北区植木町豊岡一帯にあり、幅4m、距離1.5km、標高差60mの緩やかな坂道です。
実はこの田原坂も加藤清正が築いた北の拠点です。丘陵を蛇行しながら進むような造りになっていて先の見通しができないため、簡単に進めないのです。
薩摩軍はこの田原坂で官軍を待ち受けており、官軍の方は田原坂の最後の300m地点である「一の坂」「二の坂」「三の坂」を抜けることができませんでした。
1日で打ち合った弾丸の数が60万発
西南戦争は大砲や小銃などの当時では近代的な武器を使用した戦いとなりましたが、この田原坂で発砲された弾丸は政府軍側だけで1日60万発に達したと言います。
あまりに多くの弾丸が飛び交ったので、空中で弾丸同士がぶつかったとさえ言います。実際に、空中でぶつかった「かちあい弾」と呼ばれるものが、今でも田原坂から出土するようです。
薩摩軍と警視抜刀隊の戦い
薩摩軍は武士の出身である士族で構成されていたため、日本刀などを扱った剣術に優れた軍隊でした。
一方、官軍側は徴兵されてから初めて銃剣等の訓練を積んだ農民出身の兵士が多く、戦い慣れしていなかったため、田原坂での戦闘は難航しました。薩摩軍の士族が奇声を発しながら切り込みに行くと、その迫力に負けて官軍側の兵士が逃げ出してしまったといいます。
そこで、官軍側はある一つの手をうちます。警視隊(今でいう警察官)の中から選抜された精鋭部隊、「警視抜刀隊」を結成したのです。官軍は、白兵戦の手練れである警視抜刀隊を薩摩軍にぶつけることで状況を打開しようとしたのです。
実は抜刀隊の中には、薩摩藩に滅ぼされた会津藩出身の若者もいたということで、その恨みをはらすべく、薩摩藩士に負けない気力でぶつかっていったのでしょう。
天候も官軍側に味方し、雨が降り続くことで薩摩軍側の銃は不発になります。また軍服や靴をしっかり履いている官軍と比べ、薩摩軍側は木綿の服にわらじの靴だったため、非常に体力を消耗する戦いを強いられます。
雨は降る降る、人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂……。
この有名な句が示すように、まさに泥沼の中での戦いでしたが、ついに官軍側が勝利を収めます。
この田原坂での戦いによって、西南戦争の実質的勝利は決定し、薩摩軍側は敗走するのみとなってしまうのです。
そして、最後の鹿児島・城山の戦いにおいて、西郷隆盛は介錯を受け、亡くなってしまいます。
西南戦争の裏話
西南戦争は一見、「明治政府VS薩摩藩」の戦いに見えますが、実は「薩摩藩VS薩摩藩」の戦いでもあるのです。
というのも、もともと西郷隆盛は政府のトップとして政治を取り仕切っていた人物ですし、西郷と一緒に幕末を戦った大親友である大久保利通は、この時政府側の内務卿を務めていました。
また、西郷隆盛の実弟である西郷従道は、西南戦争では政府側の人間として戦っています。
他にも、当時、西南戦争の総司令官だった川村純義、警視隊の司令長官を兼任した川路利良など、重要な役職で戦っていた人々の中には、もともと薩摩藩の出身だった人物が数多くいます。
親子同士、兄弟同士で敵対しながら戦う人々もいたと言われており、西南戦争はまさに悲劇とも言える戦いだったわけです。
ちなみに、西郷隆盛の息子である西郷菊次郎も、父と同じ薩摩軍側として西南戦争で戦っています。
さいごに
西南戦争で実際に戦いが繰り広げられた場所について紹介してきました。
熊本城や田原坂での戦いは、西南戦争の勝負を決する、まさに激戦地だったんですね。
その戦いも、実質的には薩摩藩という身内どうしで戦う必要があったという運命に、悲壮感を感じてしまいますね。