西郷隆盛は「維新の三傑」と呼ばれる日本人の誰もが知っている人物ですが、その西郷隆盛の息子である西郷菊次郎も台湾の庁長や京都市長を務め、台湾の人々からは記念碑を立てられるなど、非常に立派な人生を送っています。
今回の記事ではそんな西郷菊次郎について、京都市長時代や台湾庁長、彼の子孫などの情報を含めて、その生涯を詳細に解説していきたいと思います。
西郷隆盛が幕府から逃れている時に生まれた菊次郎
まず先に、菊次郎が生まれる前の背景を説明させていただきます。
当時、菊次郎の父・西郷隆盛は井伊直弼の「安政の大獄」によって幕府から追われる身であり、九州南方海上にある奄美大島に逃れて暮らしていました。
その時に出会ったのが西郷隆盛の二番目の妻となる、奄美大島の名家である龍家の子・愛加那です。
愛加那が西郷隆盛の世話をしているうちに二人は親密になり、結婚してからは小浜の龍家の離れで約3年一緒に過ごしました。
そして生まれたのが、長男の菊次郎です。
菊次郎は、父の西郷隆盛が苦難を経験しているときに生まれた子供ということになりますね。
父の隆盛と一度離れ離れになった後、西郷本家に引き取られることに
西郷隆盛と愛加那は穏やかで幸せな生活を送っていましたが、薩摩藩からの召喚命令により、彼は奄美大島を後にし、鹿児島へ帰ることになります。
しかし当時は、薩摩藩の規定により「島妻制度」というものがあり、島で娶った妻は鹿児島へ連れ帰ることが出来ませんでした。
そのため、隆盛は苦渋の思いで、妻である愛加那と息子の菊次郎、そして愛加那のお腹の中にいた娘の菊草を奄美大島へ残し、鹿児島へ帰国しました。
その後、西郷隆盛は鹿児島で三番目の妻となる糸子と結婚します。
そして菊次郎が8歳の頃、彼は鹿児島の西郷本家に引き取られ、それ以降は、糸子が愛加那の代わりに菊次郎を育てました。
明治4年には、父・西郷隆盛が勅命により明治政府での役職に就くことが決まったため、菊次郎も一緒に東京に出てくることになりました。
アメリカ留学を経験し、西南戦争で片足を失う
明治5年、12歳になった菊次郎は農業を学ぶために、父の命で2年6ヶ月ほどアメリカへ留学します。
帰国してからは、西郷隆盛が吉野村寺山に作った全寮制の農業学校・吉野開墾社に入り、3年後、17歳になった菊次郎は父・西郷隆盛に従い、薩摩軍の一員として西南戦争へ参戦します。
菊次郎は延岡・和田越えの戦闘に参加していましたが、その時の戦闘により菊次郎は右足に銃弾を受けて重傷を負い、やむなく膝下を切断する事態となり、片足となってしまいました。
最終的に、西郷隆盛の老僕である熊吉が重傷を負った菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道の元へ投降。この時、西郷従道は甥である菊次郎の投降を歓迎し、熊吉に礼を述べたそうです。
母と数年暮らし、外務省へ
菊次郎はその後宮崎で放免されることになり、奄美大島へ帰って、母・愛加那と数年暮らしました。この時、妹の菊草は既に結婚していたため、母と二人きりの生活だったようです。
父の西郷隆盛が亡くなってから7年後、明治政府から高い英語力が買われて、明治17年、菊次郎は外務省へ入省。米国公使館などにも勤務します。
明治20年6月には再びアメリカへの留学を果たし、23年1月に宮内省式部官として任務に就いています。
台湾で台北県支庁長、宜蘭庁長を歴任
そして1894年に勃発した日清戦争で日本は台湾を獲得し、それに伴い、菊次郎は台湾で台北県支庁長、宜蘭(ぎらん)庁長を4年間務めることになります。
この時から、後世に語り継がれる、菊次郎の地方行政官としての活躍が始まるのです。
住民の長年の悲願だった宜蘭川の洪水を止める
菊次郎が管轄していた宜蘭市は風光明媚な場所と知られ、豊かな農作物がとれていました。しかし、夏に台風がやってくると状況は一変し、宜蘭川の氾濫などによって疫病が流行っていたのです。
住民はこの宜蘭川の洪水に長年苦しんできており、この洪水を止めることこそ、住民の悲願だったのです。
菊次郎が一番力を注いだのが、まさにこの洪水問題です。
宜蘭市をまとめる庁長として、台湾総督府と粘り強い交渉を重ね、なんと彼は巨額の補償金を引き出すことに成功します。
そして、1年5ヶ月をかけた大工事が無事に終わり、それ以降、今まで起きていたような川の洪水は二度と起きなくなりました。
台湾の地元住民に愛される菊次郎
最初は工事に半信半疑だった地元住民も、その効果がはっきりと分かってくるとひどく感激し、川の洪水を止めた菊次郎に賞賛を送りました。
1905年、その賞賛の証として、菊次郎を顕彰する『西郷庁憲徳政碑』と刻んだ石碑を堤防の近くの民家の庭に設置。
その石碑には、菊次郎の功績を後世に伝え続け、永遠に賞賛するといった内容が書かれているそうです。
京都市の市長としても、公共事業に尽力
台湾からの帰国後、菊次郎が京都市長となった背景には、前任の内貴市長からの依頼があったようです。
というのも、当時の京都は疎水の拡大や下水整備、道路の基盤整理などといった大規模な公共工事を必要としており、それを実現するための莫大な資金が必要でした。
そこで内貴市長は、西郷隆盛の長男ということで薩摩閥として人脈を持ち、台湾でも活躍した菊次郎に目をつけ、工事の認可や予算の獲得といった重大な責務を果たしてくれることを彼に期待し、京都市長の重責を依頼したのです。
菊次郎は「京都百年の大計」として、第二琵琶湖疎水掘削工事、上水道工事、道路拡張工事といった「京都三大事業」を提案しました。
この三大事業を達成するには巨額の資金が必要となり、それが最大の壁として菊次郎の前に立ち塞がっていました。
しかし彼は、三井銀行の協力を取り付け、明治42年6月にフランス・パリのシンジゲート引き受けによって4500万フランの外債を発行して、莫大な資金を調達することに成功したのです。
最終的に、菊次郎は内貴市長の期待に見事に応え、京都市のインフラ整備を完成させました。
現在の京都の姿は、菊次郎が1904年から京都市長を務めた6年半の間に形作られたものと言えるのです。
1928年、死去
京都市長を退職後、菊次郎は鹿児島に帰り、永野金山の島津家鉱山館長を務め、8年余り在任しました。
1928年、菊次郎は鹿児島市の自宅において心臓麻痺により急死。享年68でした。
西郷菊次郎の子孫
菊次郎の子孫に、陶芸家の西郷隆文(たかふみ)氏がいます。隆文氏は菊次郎の孫で、西郷隆盛のひ孫に当たります。
「現代の名工」にも選ばれている著名な陶芸家で、鹿児島県陶業協同組合初代理事長も務めています。
さいごに
この記事では西郷隆盛の息子、西郷菊次郎について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
台湾のみならず、京都のインフラ整備でも活躍しており、立派な生涯を全うされていますね。
菊次郎は父・隆盛の「天を敬い、人を愛する」という教えの元、自らも障害者である経験から、弱者に対する優しさや誠実さを持ち合わせていたようです。
それが、周囲の人々の理解につながり、大事業を成功させる原動力となっていったのかもしれませんね。