西郷隆盛の妻は3人?須賀、愛加那(あいかな・とぅま)、糸子の生涯を解説!

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西郷隆盛と言えば日本人なら誰もが聞いたことはある有名な偉人です。その西郷隆盛49年間の生涯はとても波乱万丈なもので、その中で西郷は3人の女性を妻にしました。

一人目は須賀(スガ)、二人目は愛加那(アイカナ)、三人目は糸子(イト)という女性です。西郷は同姓異性を問わずよくモテたそうで、とても魅了的な人物だったと言われております。

では、その3人の妻たちは西郷とどのような生涯を送ったのでしょうか?今回はその妻たちに焦点を置いて、その生涯を解りやすく解説していきます。

第一の妻・須賀の生涯について

一人目の妻、伊集院須賀(イジュウイン スガ)は薩摩の有力な豪族伊集院家の分家の一つで、1852年、須賀が21歳の頃に西郷隆盛(当時西郷吉之助24歳)と結婚をしています。

いろいろな諸説がありますが、周りから美人で評判だった須賀は隆盛の家から徒歩10分位の近所なので、西郷隆盛の一目惚れ説が有力と言われております。また、両家が友好な関係だったともいわれており、お見合い説も有力とされています。

 

貧乏による体調不良で離婚?

西郷家は下級武士であった為、生活にゆとりは無く、結婚後わずか1年程の間に隆盛の祖父が7月に、父親が9月に、母親が11月に立て続けに亡くなるという不幸がありました。

その翌年には薩摩藩主・島津斉彬に抜擢され隆盛は江戸へ出る事になります。主人不在の中、西郷家6歳~20歳の5人姉弟たちの面倒を見ながら留守を預かった須賀でしたが、生活はより困窮していたそうです。

それを見かねた須賀の父が実家に呼び戻した説と、須賀の体調不良が原因で実家へ戻った説があり、これが1854年頃とされています。伊集院家から江戸にいる西郷隆盛へ離縁の書状を送り正式に離婚へ至り、わずか2年の結婚生活に幕を閉じました。

この時、西郷隆盛は「こちらこそ申し訳なかった」と伝え、円満離婚という形ではありましたが、隆盛はそれを一生後悔していたそうです。

その後の伊集院須賀の生涯は不詳で一説には伊集院家が動向を伏せたとも言われています。

 

第二の妻・愛加那の生涯について

二人目の妻、愛加那(あいかな・とぅま)は当時の薩摩藩の藩法で西郷隆盛が奄美大島滞在期間だけの妻となり約3年間を共に過ごしました。奄美大島の名家である龍家の分家の娘であり小説やドラマでは貧しい農家の娘として描かれることが多いですが、実際は西郷家よりはるかに領地、石高も多かったようです。

そんな二人の出会いは西郷隆盛の島流しの地、奄美大島での事です。この出会いは西郷隆盛の人生どん底の頃に訪れたものでありました。

ちなみに、現在放映されている大河ドラマ「西郷どん」で、愛加那は「とぅま」という愛称で親しまれているようです。

 

西郷の身の回りの世話をしているうちに親しくなる

西郷隆盛を大抜擢してくれた藩主の島津斉彬の急死により薩摩藩の方針は大きく変わり、島津斉彬の下で一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を将軍にしようと動いていた西郷隆盛は、安政の大獄で慶喜派を弾圧していた井伊直弼に目を付けられ、幕府から追われる身になりました。

1858年11月に同じく慶喜派であった月照という住職と共に冷たい冬の海に身を投じ、なんと奇跡的に隆盛だけが一命を取り留めます。それを知った薩摩藩は幕府の捕縛から守る為に奄美大島での潜居を命じました。

その時の隆盛の身の回りの世話役を努めたのが愛加那で、やがて二人は結婚をしました。1859年12月愛加那23歳、西郷隆盛31歳の頃です。二人はとても仲睦まじい夫婦であったと言われており、長男・菊次郎と娘・菊子の二人の子どもが生まれ、約3年の結婚生活を送りました。

 

幸せな結婚生活に突然の終わりが訪れる

しかし1861年時代の混乱の中にあった西郷隆盛は再び薩摩へ戻るようにと命が下され、当時まだお腹の中にいた菊子の顔を見ることなく帰藩することになってしまいました。当時は薩摩藩の藩法により妻子を連れ帰ることは許されなかったのです。

余談ですがその際に愛加那は形見として受け取った西郷隆盛の毛髪を受け取っており、その髪のDNA鑑定の結果、西郷隆盛の血液型はB型と判明しています。

愛加那は西郷隆盛と別れた後も奄美大島に残り二人の子どもを立派に育てていきました。

また西郷糸子(三人目の妻)や西郷茂道(西郷隆盛の弟)のサポートもあり菊次郎は台湾の支庁長や京都市長になり、菊子は大山誠之助(大山巌の弟)と結婚しました。

その後、愛加那は1902年明治35年8月27日に雨の降る中、畑での農作業中に倒れ65歳で息を引き取りました。

 

第三の妻・糸子の生涯について

三人目の妻、糸子は1843年に薩摩藩士・岩山直温の娘として生まれ、一度、海老原家に嫁ぎましたが離婚をしました。その為、糸子は自分が離婚をしている事を気にしていましが、西郷隆盛(吉之助)は「よかよか」と寛大に受け入れたというエピソードもあります。

1865年1月28日、糸子21歳、隆盛37歳の頃、二人は結婚しました。この時、隆盛は蛤御門の変や長州征伐の参謀として活躍した後、僅か2週間後に結婚しています。

その後隆盛は僅か結婚生活8日目には藩命で福岡・京都に出張することになり、ほぼ家は主人不在であったようです。当時、西郷隆盛の生家は借金返済の為に売却されていた為、二人は狭い借家で過ごしていました。

そして二人の間に3人の子どもが生まれます。狭い借家に三人の子ども達と奄美大島の愛加那の菊次郎、菊子を養子に迎え入れ、更に戊辰戦争で戦死した隆盛の弟の子ども2人も引き取り、大家族となりながらも糸子は生活を守り続けていきました。

 

坂本龍馬も西郷家に滞在していた?

また寺田屋事件後に坂本龍馬と妻のおりょう(お龍)は薩摩に匿われますが、その間に西郷家に滞在したと言われています。

その際、龍馬が姉の乙女に宛てた手紙に「西郷吉之助(隆盛)の家内も吉之助も大いによい人なれば、この方に妻など頼めば何も気づかいなし」と、何かあった場合に妻のおりょうを西郷家に託すように頼んでおり、非常に信頼していたようです。

 

糸子の「主人はこんな人ではない」発言の意図とは?

その後、主人不在が多い中も大家族を糸子は切り盛りし続けましたが、糸子34歳の時に西郷隆盛が戦死した報告を受けました。

暫くは反逆者ということで西郷家は身を潜めて生活を送りましたが、やがて罪も許されるようになり、明治31年12月18日上野の西郷銅像の除幕式に糸子も出席をし、「んだもしたん。やどんしは、こげな人じゃなかったこてえ」と言った逸話もあります。これは、顔が似ていないということではなく、西郷隆盛は浴衣で外を歩いたりしないという意味のことを言いたかったと言われています。

そんな糸子は大正11年(1922年)79歳で生涯を閉じました。