松永久秀といえば、戦国時代を象徴する「下剋上(げこくじょう)」の典型例としてよく知られています。
織田信長が徳川家康と対面した際、久秀のことをこのように紹介していたようです。
「この、わたしの隣にいる松永久秀という老人は、世の人が1つも出来ないことを3つ成し遂げた男であります。まず1つに将軍(足利義輝)を殺害し、2つめは主君(三好義興、三好長慶)を殺害しました。3つめというのは東大寺大仏殿を焼いたことです。」
このような悪行が後世に伝わっている松永久秀とは、一体どのような人物なのでしょうか?
爆死したという伝説や、家紋や子孫についても解説します。
松永久秀の生い立ち
久秀は永正5年(1508年)に生まれました。出身地についてはいろいろな説があり、山城西岡(現在の京都府乙訓郡)説、阿波(徳島県)説、摂津東五百住(大阪府高槻市)説がありますが結局はっきりしていません。
最新の研究では証拠が数多く残されている摂津説が有力とされているようです。
絵図資料から半町(4958.7m2)四方程度の家を持つ土豪(兵農一体の武士)層であったと推測されています。
三好家での活躍
松永久秀は天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃に山城国下五郡守護代の三好氏に仕えます。
三好家は当時室町幕府の重臣であった細川晴元の部下でした。久秀のように身分の低い者が抜擢されたのは当時非常に珍しいことだったといわれています。
天分8年(1539年)に三好家とその主君細川晴元で争いが起こりましたが、松永久秀もこのときには松永弾正(だんじょう)久秀という役職を名乗り、三好家について戦ったという記録が残っています。
弾正というのは今でいう警察のような役職をいい、弾正忠ということもあります。
三好長慶&松永久秀VS将軍・足利義輝&細川晴元
天分20年(1551年)になると、三好長慶は細川晴元とその義父・六角定頼等と権力をめぐって戦います。
松永秀久は三好長慶について戦い、幕府の重臣であった細川晴元に勝ち、戦いに負けた晴元は前将軍足利義晴、将軍足利義輝と共に京都から逃げ出しました。
将軍とその重臣を都から追い出したことにより、三好長慶は事実上の政治権力を手に入れ、久秀はご褒美として摂津滝山城(神戸市中央区)の城主となっています。
永禄元年(1558年)に足利義輝と細川晴元はリベンジのため京都に戻ってこようとしましたが、それをさせまいとする三好方との戦いはとても激しく、死亡者や重傷者がどちらの軍も300人から400人ほどいたということです。
激しい戦いの末、結局両者和解することとなりました。
和解後、将軍・義輝は京都に戻ってくることとなりましたが、その結果、三好方は他地域へ勢力を伸ばすようになり、松永久秀は大和(奈良)地方を支配していくことになります。
幕府との複雑な関係
翌年の永禄2年(1559年)より、松永久秀は三好氏の重臣としてあっという間に大和を支配していき、翌年の11月には大和一国をほぼ手中に治め、大和と河内間にある信貴山城を居城にします。
同じくして永禄3年(1560)1月、三好長慶が修理大夫、その息子義興が筑前守という公的な地位に任じられたのに続き、久秀は弾正少弼(しょうひつ)に任じられ、将軍足利義輝の御供衆(おともしゅう)に加えられました。御供衆とは、将軍が外出する際についていく家来のことをいいます。
久秀は、三好氏の重臣でありながら幕臣であるという側面も持っていたのです。
このように政争の構図は非常に複雑なものとなっていました。
相次ぐ三好氏の死と将軍殺害
三好家の悲劇
永禄6年(1563年)に三好長慶の嫡男義興が22歳の若さで病死しました。
毒殺説や久秀の仕業という説もありますが、資料から俗説に過ぎないという見方が有力です。そしてこの義興の死をきっかけに三好家は大きく変化していきます。
同年5月、三好長慶は弟の安宅冬康を殺害します。久秀が根拠のない悪口を長慶に言いふらし、殺すように仕向けました。
当時の長慶は病中で判断力に欠けていたと資料には残っています。この頃の長慶は、相次ぐ身の回りの人物の死によって心身共に弱り果てており、うつ病だったという説もあります。
そんな長慶も弟の殺害から2ヶ月後の7月4日、43歳で亡くなりました。殺害後、久秀が自分を騙したことを知って病状が悪化したと言われています。
久秀が三好義興を毒殺したというのは冤罪ですが、主君である長慶の不安定な心を利用し、結果死へと追い詰めたのは事実のようです。
その後、長慶の養子である三好義継が14歳で家督を継ぎ、久秀と三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)が義継を補佐することになりました。
将軍・義輝への謀反
そして永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は二条御所を攻め、将軍・足利義輝を殺害します。
生き残った幕府側の武公衆、奉行衆は三好方へ頭を下げて礼に参り、三好一族は京都支配の足がかりを作りました。
当時日本に滞在していた宣教師のルイス・フロイスが記した書簡には将軍殺害の首謀者は松永久秀であると書かれており、いかに久秀が当時の京都で権力を持ち、勝手な振る舞いをしていたのかが詳しく記述されています。
しかし一説には将軍殺害を主導したのは三好三人衆であり、久秀は義輝の弟である足利義昭を保護下において次の将軍への就任を画策していたとの説もあります。
どちらにしても久秀が足利義輝に対し謀反を企てていたことは間違いないと言えるでしょう。
三好三人衆との対立
弟の死を転機に
しかしその後松永久秀と三好三人衆は対立します。きっかけは同年8月、松永久秀の弟である松永長頼の戦死でした。
長頼は戦が強く、三好家で久秀が出世したのも弟の七光りと言われています。何より計算高い久秀よりも、性格が優しい長頼のほうが三好家で好かれていました。
長瀬の死によって丹波一国を失ったことは、久秀にとっても三好氏にとっても大打撃でした。若すぎる三好義継の手腕ではこの状況を立て直すことは出来ず、三好氏と久秀は対立するようになります。
三好方は久秀が支配していた大和の筒井氏などを味方につけて久秀を追い詰め、久秀は一時期行方不明になるなど劣勢が続きます。
その翌年の永禄9年(1566年)、久秀不在の間に松永方と三好方で和平交渉が進められ、戦乱は一時おさまったかのように思われました。
何度も変化する政局
しかしまた予想外のことが起こります。
和平成立から2カ月後、なんと三好氏の家督である三好義継が三好三人衆から離れて松永久秀を頼ることとなります。
義継は三好三人衆の行いが「悪逆無道、前代未聞の所業」であると断罪し、久秀こそが三好家に対しての「大忠」であると説いて、大和の国衆を再び久秀の味方につけました。
こうして堺(大阪府)に逃れていた久秀は義継によって大和に復帰します。
東大寺大仏消失と新たなチャンス
混乱を極めた戦場
この抗争は激しさを増し、現在の奈良周辺で長期戦が繰り広げられました。大和の筒井氏が間に入って関係の改善を図りましたが、あまり意味がなかったようです。
そして同年10月10日、戦火により東大寺大仏殿が全焼するという事件が起きましたが、この大仏焼失に関しては諸説あります。
- 久秀が意図的に大仏殿に火をつけた
- 久秀軍の夜襲に驚いた三好軍が動揺して火事を起こし、延焼した
- 三好軍のキリシタン兵が放火した
など、記録によってバラバラで、いかに現地が混乱していたが伺えると思います。
しかしこの大仏の焼失には久秀、三好氏の両者共に心を痛めていたようで、永禄11年(1568年)に大仏殿の再興を支援した京都の阿弥陀寺に対して久秀と三好長逸が謝罪と感謝を表す手紙を送ったと記録に残っています。
信長との同盟
この戦いで久秀は三好氏だけではなく周辺の諸国大名に警戒され、居城である多聞山城を監視されることになり、このようなピンチを打開する為に、久秀は新たな手を打ちます。
織田信長・足利義昭との同盟です。
新たな大義名分
東大寺大仏が焼失した永禄9年(1566年)、久秀は織田信長・足利義昭と同盟を結びます。
足利義輝の死後、次の将軍を足利義栄にしようと三好三人衆が動き出していました。しかし義栄は足利家でも将軍家とは違う別家の血筋だったのです。
よって、殺された足利義輝の実弟で、将軍家の血を引く義昭を将軍にしようという動きがありました。
義昭は長男ではないため、足利家のきまりで興福寺(奈良市)で覚慶というお坊さんになっていましたが、大名たちに護衛されながら京都を目指すことになります。
その大名たちの中に織田信長もいたのです。織田信長は義昭が上洛(京都入り)するためには松永久秀の力が必要と考えていました。
また久秀にしても大和の情勢が不安定であるため、将軍のために戦うという大義名分は好都合でした。
足利義昭が室町最後の将軍となる
永禄11年(1568年)2月に足利義栄が将軍となりましたが、病気で背中に腫れ物ができ、また三人衆と久秀の抗争のため上洛することが出来ませんでした。
9月に足利義昭が京都に到着すると三好三人衆は畿内で抵抗するも敗北し、義栄も阿波へと移ります。
その後義栄は腫物が悪化して病死、義昭が将軍となりました。
織田信長との関係
将軍となった義昭の政権は、有力な大名たちによる連立政権であったと言われています。
そのため、久秀が信長に家来のように従っていた、という記録はなく、お互いに対等な立場であっただろうと思われます。
しかし久秀は信長に自分の娘を人質として送ったり、超高級な茶器を送ったりと異様なまでに気を遣っています。
早くから織田信長を只者ではないとみていたのだと考えられます。
信長にとっても、京都で影響力を持つ久秀との協力関係は有益だったのでしょう。信長と友好関係にあったこの時期、久秀の大和支配も最盛期を迎えました。
権謀術数の行く末
今日の友は明日の敵
その後久秀は三好三人衆との対立と和睦を繰り返しつつ、将軍・義昭とは不仲になっていきます。
元亀2年(1571年)5月、将軍の仲間だった畠山秋高の家臣安見直政を松永久秀が自害させると、義昭は久秀の所業に幻滅し、久秀と領地を争っていた筒井順慶側につきます。
そして同年、その筒井氏と松永久秀、久通の親子が衝突した「辰一合戦」で久秀は大敗しました。
久秀側に裏切り者がいたことが大きな敗因となり、久秀の大敗と味方の裏切りを知って、世の人々はついに仏罰が下ったと噂したそうです。
運の尽き
翌年の元亀3年(1572年)になると、久秀は信長に敵対する意志をはっきりと表します。
その頃、義昭も同じく信長に対し敵意を表しており、ついこの間まで敵対していた義昭と久秀がタッグを組んで信長と戦いますが、敗退します。
秘密裏に同盟を組んでいた武田信玄が病死しており、久秀側の援軍が来ませんでした。
武田信玄は戦上手のスーパー名将であり、泣く子も黙ると言われた信長が最も恐れ、苦手としていた人物です。
信玄の病死は武田軍のトップシークレットで、日本中の誰もが予測していない事態でした。さすがの久秀もそのことまでは知らなかったのでしょう。
壮絶な最期と爆死伝説
不可解な二度目の謀反
織田信長は、敵となった者を徹底的に憎み、冷酷に処断するという一面をもっていましたが、敵対した久秀に対しては不気味なまでに寛容でした。
大和の一領主へと格下げしたものの、珍しい茶器を一つ譲ることを条件に久秀を許したのです。
実際茶器も欲しかったのでしょうが、合理主義な信長は久秀の利用価値を冷静に見極めていたのだと思います。
しかし天正5(1577)年、久秀は突然にまた信長を裏切ります。
信長の軍とともに石山本願寺を攻めていた最中、久秀が急に戦線を離脱し、居城の信貴山城へと帰って立てこもってしまいます。
この裏切りの理由は誰にもわかっていません。
久秀が持っていた大和国領地の所有権をライバルの筒井氏に渡したからなのか、生ぬるい処罰に鬱屈した思いがあったのか…上杉謙信や毛利輝元などの新しいポスト信長勢と組んでいた、などの説もありますがいまだに真相ははっきりしていません。
信長側も意味がわからず混乱するも久秀に使者を送り、「不満があるなら対応するから言ってほしい」と誠実に接しますが秀久は応じず、使者を突き返すような態度でした。
さすがに堪忍袋の緒が切れた信長は息子の信忠と共に久秀の城を攻め、ことごとく焼き払った上、わずか12歳と13歳だった久秀の孫を残酷な刑に処し、自害させます。
爆死説について
それでも信長はまだ久秀を許すつもりでいました。久秀が持っている「平蜘蛛茶釜」という茶釜を譲ってくれたら許す、と説得していたようです。
久秀の裏切りの理由も謎ですが、信長の考えもよくわかりません。
当時の大名は茶を嗜むことが多く、久秀も信長も茶道にたいへん凝っていました。特にこの平蜘蛛茶釜は何度も信長が欲しがったと言われています。茶器も惜しければ久秀という人材もよほど惜しかったのだろう、と推測しておきましょう。
しかし、久秀の返事はノーでした。「俺の首もこの茶釜も、お前にはやらないぞ。ここで(茶釜を)割って死んでやる」と見得を切り、茶釜を打ち砕いたのちに城に火をつけ、息子の久通と一緒に自害しました。
天正5年(1577年)11月19日、享年68歳でした。
この「(茶釜)を割って死んでやる」と久秀が言ったことにどんどん尾ひれがついていき、松永久秀が平蜘蛛茶釜に火薬を詰めて爆死したという伝説が後世に広まりました。
爆死説は創作ですが、自らの死をも派手に演出して退場したという点で、松永久秀の抜け目なさと、後述する文化人としてのエンターテインメント性を物語っていると言えます。
一流の文化人
稀代の茶器コレクター
久秀は文化人として非常に優れていた、という意外な一面があります。
久秀が三好家に仕えていた時代、茶の湯が流行っていた堺を支配していました。
そのため、三好家にも茶道に詳しい武将が沢山いて、久秀もその影響を受けていたと考えられます。茶道にハマる武将にはいくつかタイプがありましたが、彼は特に珍しい茶器を集めることに凝っていたようです。
そのうち10点は織田信長の手にわたっていると記録に残っています。
また竹野紹鷗(じょうよう)という有名な茶人(千利休のお師匠だそう)から茶道のレッスンを受けていたこともわかっています。
こうして久秀は堺の茶人と交流し、茶の湯の道を究めていくとともに、堺という経済都市との関係をよくしていたようです。
城づくりの名人
当時の城は戦闘目的に特化した土づくりの城が一般的でした。
しかし久秀はふんだんに予算と最新技術を使って、美しい城壁や瓦造りの屋根を持った城を建てたのです。
戦う前に敵を威圧する豪華な城は、信長の安土城へ影響を与え、その後大名の城としてのスタンダードになりました。
久秀の考え方が斬新で、時代の最先端であったことが伺えます。
松永久秀の家紋
久秀の家紋は蔦紋と言われています。
日本十大紋のひとつで、植物としての強い生命力が縁起がよいとされ、家紋に利用されました。
エレガントなデザインのため、武将や政治家などよりは女性や芸能人、役者、作家などがよく使っているようで、江戸時代では遊郭などでも好まれました。
ここでも久秀の意外に繊細な美的感覚が伺えます。
蔦紋を使用している有名人は、出雲阿国、徳川吉宗、山田検校、十返舎一九、市川左団次、藤堂平助、東郷平八郎、谷崎潤一郎などがいます。
現代では指原莉乃、松井秀喜、一青窈、山下智久、つんくなども蔦紋を使用しています。
松永久秀の子孫
久秀の子・久通は信貴山城の戦いで父と共に自害しています。
しかし久通の子・松永一丸は博多で生き延び、質屋を営んで大変に儲けたと言われています。
また久秀には松永永種という養子がおり、久秀の死の頃には出家していたため生き延びました。その息子は松永貞徳と名乗り、俳人として活躍したそうです。
貞徳の息子、松永五尺は徳川家康の時代に大変高名な儒学者となりました。
このように久秀の子孫は文化人として活躍しています。
現代にも久秀の血は受け継がれており、陸軍中将の松永貞市、iモードの名付け親で玩具メーカーのバンダイやロート製薬の取締役をつとめた松永真理、芸能事務所社長の太田光代(旧姓松永光代)などがその名を連ねています。