石田三成という人物は、有名な「関ヶ原の戦い」での敗者である西軍側の主役でしたので、非常に多くの逸話が残っている武将の一人です。
しかしその逸話のほとんどは江戸時代に書かれた資料が多く、つまり関ヶ原勝者の徳川側の目線で書かれたものであるため、三成は悪意を持って書かれることも少なくありません。
創作などでも冷徹で器が小さい嫌われ者として描かれることも多い人物ですが、実際の石田三成とはどのような人物で、どのような性格だったのでしょうか?また有名な干し柿のエピソードとはどんなものだったのでしょうか?
子孫や家紋のことも含めて、解説します。
石田三成の出自について
実家は浅井家家臣だった
石田三成は永禄3年(1560年)、浅井家家臣である石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生しました。幼名は佐吉といいます。
石田という姓は生まれた村の名前であることから元々は土豪出身の家なのではないかと言われており、身分としてはあまり高くないことが分かっています。
元亀元年(1570年)浅井家は、織田信長・徳川家康連合軍の前に敗北し、滅亡しましたので、浅井家に仕えていた石田家の者はその後織田家で新しく台頭してきた羽柴(のちの豊臣)秀吉に仕官することになりました。
持ち前の賢さで出世
三成は武功もそこそこ上げましたが、どちらかといえば戦後処理などの外交や、内政の事務仕事に適性がある武将でした。
ですので、小姓として秀吉に仕えると20代前半には羽柴家の有能な家臣として他家にも名が知られるようになっていきました。
年も若く旧浅井家の家臣という身分の青年がここまで出世することは異例でしたので、後世で創作される「冷徹で出世のために他人を陥れる狭量な野心家」という石田三成像はこういった点からも作りやすかったのでしょう。
武だけではなく政が得意な戦国武将というのもこの時点では珍しく、派手な武功を立てたわけでもない三成が出世することも嫉妬の的となりました。
天正10年(1582年)本能寺の変後は上杉家を中心に他大名家との外交官としてその能力を発揮しました。羽柴家の窓口となる役目を勤めていたことから、秀吉からの信頼が篤かったことが伺えます。
石田治部少輔へ
天正13年(1585年)に秀吉は従一位関白に就任しましたので、家臣の三成もそれに伴って治部少輔という朝廷の役職が与えられました。
三成は25,6歳の若さで官僚の中間管理職クラスに出世したことになります。
その後は小田原征伐などの戦い、九州仕置や奥州仕置などの検地と、それに不満を持った領民の一揆の鎮圧、また時には後陽成天皇の聚楽行幸への対応として天皇をもてなすなど、多忙をきわめました。
文禄の役・慶長の役での綻び
行先不安な海外遠征
文禄元年、天下を平定した豊臣秀吉は朝鮮半島全域に小西行長、加藤清正、福島正則、黒田長政などを出兵させました。
何故このように朝鮮半島へと軍を進めたのかについては様々な説があり、未だにはっきりとしたことはわかっていません。
一説には大国スペインの植民地支配をさせないための秀吉の高度な政治的判断という説もありますが、当時は上手くいかないだろうと予測する人も少なくありませんでした。石田三成もそのうちの一人で、この出兵について無理があるだろうと読んでいたそうです。
三成も朝鮮半島に赴きましたが、現場では武将達との連絡係や秀吉への報告などの事務仕事が主な仕事でした。
加藤清正らと対立
後に文治派と武断派で対立することになる加藤清正、福島正則らとの確執はこの文禄の役・慶長の役で決定的になったと言われています。
最初の出兵である文禄の役で戦功をあげた加藤清正は同じく先鋒の軍にいた小西行長を差し置いて進軍していたため、小西行長が三成にそのことを相談すると、三成は秀吉に直接加藤清正の軍律違反を報告しました。
加藤清正は戦果を挙げたにも関わらず秀吉にひどく怒られてしまったため、三成のことをとても恨んだといいます。
結局この朝鮮出兵は勝敗もはっきりせず、慶長3年(1598年)豊臣秀吉の病死を以って戦へのモチベーションの低かった日本軍が撤退する、というすっきりしない結果に終わりました。
そしてこの文禄の役・慶長の役での豊臣家臣の綻びは、秀吉の死後はっきりと文治派と武断派の対立という形で現れてきます。
秀吉の没後
文治派と武断派の対立
三成は豊臣秀吉死後、朝鮮半島からの帰国業務や戦争の終結処理に当たっていましたが、既にこの頃三成を中心とする文治派と加藤清正や福島正則を中心とする武断派で対立していました。
そのため、家督を継いだ秀吉の嫡男・豊臣秀頼のために、意見が食い違った際は協力して解決しましょう、という書状もこの時期に書かれました。
しかし、このような豊臣家家臣の分裂を狙って台頭してくる者もいました、それが徳川家康です。
徳川家康の台頭
徳川家康は秀吉の死後すぐに武断派の武将達に接近し、細川幽斎や京極高次などの大名とも繋がりを持ち、力を広げていました。
更に慶長4年(1599年)に福島正則、黒田長政、蜂須賀家政らと婚姻関係を結ぼうとしていましたが、このことは秀吉が生前定めていた「大名たちの間で私的な婚姻を結んではいけない」という決まりに背くことでしたので、前田利家をはじめとする諸大名達から責められることになります。
三成襲撃事件
このように家康をはじめ豊臣家の家臣達が突出しないよう牽制していた前田利家が同年の慶長4年に亡くなると、文治派と武断派の対立は仲裁者を失って更に表面化します。
利家病死の直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興らは石田三成を討ち取るべく三成の大阪にある屋敷を襲撃しました。
三成は桑島治右衛門の通報により襲撃を察知しており、佐竹義宣の屋敷に逃れていたため傷を負うことなどはありませんでした。しかし翌日この事件によって三成と武断派の七将たちの間に緊張が高まり、両者は京都の伏見で睨み合う状況となりました。
徳川家康と三成との関係
そんな中、両者の仲介をしたのは徳川家康でした。
武断派の武将達は伏見城にいる三成の身柄を引き渡すように家康に要求しますが、家康は三成を隠居させることと、両者の対立の元ともなった文禄の役・慶長の役における蔚山城の戦いの査定をやり直すことを条件に、それを拒否しました。
結果この事件で石田三成は奉行の座から退いたため事実上失脚し、徳川家康は中立的な立場で仲介したことにより評価されることとなります。
ですので家康の発言力や権力はこの頃から更に増していくこととなりました。
しかし、慶長4年(1599年)9月に家康が前田利長らによって暗殺されそうになるという事件があった時も隠居している三成が大阪の役所に家康を匿うなど、二人の比較的関係は良好だったようです。
関ヶ原の戦い
大義名分は三成にあった?
関ヶ原の戦いといえば、徳川家康を筆頭とする東軍と石田三成を筆頭とする西軍に分かれて戦ったという歴史的な合戦ですが、そもそも関ヶ原の戦いというのは、天下を巡って石田三成と徳川家康が戦ったという合戦ではありません。
立場にしても、会社で言えば徳川家康が副社長くらいの発言力を持っていたとしたら、石田三成はせいぜい企画部長くらいの立場でしかありませんでしたので、もし三成が合戦に勝利していたとしても、天下を取れるような身分にはいなかったと言えます。
豊臣秀吉はもともと前田利家を息子・秀頼の後見人として、他家による豊臣家の乗っ取りを防ごうとしていました。
利家の存命中は三成も彼を押し立てて豊臣家のために家康に抵抗していましたが、秀吉の没後すぐに前田利家が病死したため、三成は黒子に徹するわけにもいかずに戦いの表舞台に出ることになったのです。
開戦のきっかけ
石田三成襲撃事件で三成が佐和山城に隠居すると、代わって徳川家康が大阪城入りをして政務を指揮することになりました。
家康は先述した婚姻関係の斡旋や領地の分配など明らかな越権行為を行なっており、それには流石に家康を非難する声も出てきていました。
そして慶長5年(1600年)正月、実質豊臣家臣ナンバー1となった家康は各大名家に年賀の挨拶を求めますが、東北の上杉家だけはそれを断りました。
更に前年から上杉家は無断で軍備の増強を進めており、合戦をするのではないかと疑った家康はそれらの件についての釈明を求めて上杉家に書状を出します。
それに対する上杉家重臣の直江兼続の返信が非常に挑発的であったため、徳川家康は大軍を率いて大阪城を出発、上杉家に向けて軍を進めたのでした。
打倒家康に向けて
家康が大阪城を留守にすると、その隙にと家康に不満を持つ者が集まりました。
これは三成が率先して集めたという説や、他にも色々な説がありますがはっきりとしたことはわかっていません。
繰り返しになりますが徳川家康の身分、立場に比べて石田三成の立場は比べ物にならないほど低いものでした。
ですので、西軍として名目上は豊臣五大老である中国地方の大名の毛利輝元を総大将とし(三成に人望がなく、西日本の諸将が徳川家康に味方しないように関所を封鎖、更に東軍の武将の妻子を人質に取るなどして必勝態勢を整えていきました。
合戦へ
徳川軍の駐留部隊がいる京都の伏見城を西軍が攻撃し、城主の鳥居元忠が戦死するとたちまち家康の元に連絡が行き、徳川家康ら東軍は「小山評定」によって三成達の軍勢と戦うことを決めました。
東軍にいた細川忠興の妻・ガラシャは自分が人質にいれば迷惑がかかると自宅に火をつけて自害しました。
三成ら西軍の思惑とは逆に、このような話が耳に入る度に東軍の結束や士気は高まっていったようです。
石田三成の最期について
このように複雑な政局の末に起こった関ヶ原の戦いですが、慶長5(1600年)9月15日、いざ合戦が始めるとわずか一日と半で東軍の勝利で決着が着きました。
最初は西軍が有利と言われながらも、様々な裏切りや予想外の落城があり、三成がいる佐和山城も9月18日には落城し、その後三成は逃亡するも捕縛され、京都市中や大阪で生きたまま晒し者にされた後10月1日に六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らと斬首されました。
享年41歳、辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」でした。
家紋について
「大一大万大吉」は家紋ではない?
石田三成といえば「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」と書かれた旗が有名であり、関ヶ原の戦いでもこの旗印がしっかりと書かれたものが資料として残っています。
しかしこれは旗印といって三成が掲げていたスローガンのようなものであり、正式な家紋は九曜紋という者でした。
九曜紋は仏教で星を表すマーク(現代で言えば ☆の形のようなもの)で、細川忠興や伊達政宗も使用していました。
「大一大万大吉」の意味とは?
とても平たく言うと、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」といった意味の、三成が掲げた政治のモットーです。
最終的に豊臣政権を横取りした形になった徳川幕府にとってはばつの悪い言葉だったのか、この旗印の存在は幕末の頃まで隠されることになりました。
性格について
嫌われ者のイメージから
そのようにみんなで平和を願っていた三成ですが、江戸時代になると徳川家目線で作られた歴史的資料の影響もあって「嫌われ者、悪者」のイメージが定着します。
それらによると、
- 横柄で冷たく、豊臣家の権威を傘にきて態度が大きい
- 他の豊臣家臣たちを過小評価し、細かいことですぐ秀吉にチクる
- 最終的に関ヶ原の戦いは三成に人望がなかったからあの結果になった
という言われようです。
しかしそのように言われる反面、石田三成は徳川幕府の権威が失墜する幕末から現代に至るまで人物評の見直しを盛んにされている武将でもあります。
逸話を参考に三成の性格について考えてみたいと思います。
逸話について
大谷吉継との絆
ある時秀吉が諸国の大名を集めてお茶会を開いた際、ハンセン病を患っていた大谷吉継という武将が湯のみ茶碗に顔の膿を落としてしまい、他の武将たちが次々と茶を飲んだふりをして回していく中三成は平然とその茶を飲み干し、大谷吉継の面子を守ったという逸話があります。
このことにより吉継は何があっても三成についていくことを決め、実際に関ヶ原の戦いでも歩けなくなるほど病が重くなっていたのにも関わらず輿に乗って西軍として戦いました。
結果、小早川秀秋の裏切りを受けて大谷吉継は戦死しますが、その小早川秀秋も2年後に21歳の若さで原因不明の死を遂げます。
良い領主だった?
また領地ではとても良い治世を行ったようで、平成27年(2015年)滋賀県から公式に、三成に対して感謝の気持ちを表した動画が作られています。
関ヶ原の戦いの後佐和山城に入城した徳川家康がその城の質素な様子に驚くほど、私欲とは無縁に働いていたようです。
その反面主人である秀吉に意見を申し立てるときの物言いは相手が秀吉であろうときっぱりと言い切り、資料にも「脚色した物言いをせず、真面目で毅然としている」と残っています。
島左近とのエピソード
三成には島左近という非常に戦上手な家臣がいました。
三成を嫌う武将たちに彼の存在は「三成には過ぎたる(もったいない)もの」と言われて羨ましがられ、戦よりも実務を得意とした三成にとって彼の存在は大きく、三成は自分の石高の半分を島左近に払うという重用ぶりでした。
関ヶ原の戦いやそれ以前の諍いでも、島左近は徳川家康さえ倒してしまえば良い、という明確なプランを持っており度々三成に提案しますが、三成が大義名分にこだわってそれを用いなかったため、それも敗因になったと言われています。
逸話から推測する三成の性格
以上のことから、三成の性格についてこのようなことが推測されます。
- 強きを挫き、弱きを助ける正義感の持ち主
- 非常に真面目で、相手が誰であろうとも間違ったことは指摘する
- 真面目なあまり大義や正義にこだわり、攻撃出来ない一面もあった
三成と対立した家康側がこのような三成の性格を、「態度が横柄」「臆病」などと言い換え、それらのイメージが後世にまで残ったのではないかと推測します。
干し柿の逸話とは
三成は処刑の直前、喉が渇いたために白湯を求めましたが護送中のために用意できず、白湯を求められた者が「干し柿ならある」と答えたので三成は「柿は体を冷やし体調が悪くなるかもしれないからいらない」と返しました。
今から首を刎ねられるという者が体調を気にしたため、周囲の者は三成を笑ったそうですが、三成は「立派な人というのは死の直前まで全力で生きるのだ」と言って周囲を黙らせたというエピソードがあります。
この逸話は三成の往生際の悪さを主張したと言われていますが、死が眼前に迫りながらも命を全うしようという姿勢は現代を生きる私たちにも突き刺さるエピソードです。
子孫について
三成の子供について
石田三成には3人の男子と女子がいましたが、関ヶ原の戦いの後はどのような運命を辿ったのでしょうか。資料が残っているものを中心に説明します。
長男・石田重家
関ヶ原の戦い当時は16歳くらいと言われており、三成の居城である佐和山城を守っていました。
西軍が敗北すると家臣の津山甚内が京都の妙心寺に逃し、重家は出家しました。当時は「坊主殺せば末代まで祟る」というジンクスがあったため、重家を追って命を狙う者はいませんでした。
その後は大変長生きし、資料が正しければ徳川綱吉の代まで生きたことになります。
出家したため子供はいないと言われていましたが、石田家の第15代当主の石田秀雄さんは石田重家の子孫であるということです。このことについては後に述べます。
次男・石田重成
関ヶ原の戦い当時は12、13歳と言われており、当時は豊臣秀頼の小姓として大阪城にいました。
西軍が敗北すると津軽信建と、重家を出家させた津山甚内とともに東北へ落ち延び、石田三成と縁のあった津軽藩(青森県弘前市)へと身を寄せました。
津軽信建は津軽藩藩主の津軽為信の嫡男であり、その津軽為信と石田三成は深い関係にありました。
津軽為信は、強引に南部氏から独立して領地を広げたため、領主の南部信隆から惣無事令(私的な争いを禁じる秀吉が定めた法律)違反だと奥州仕置で訴えられていました。
ですが三成がそれを仲介したことにより津軽の所領は安堵されたので、津軽為信は三成に大変な恩義を感じており、石田三成の子供を保護することになったのです。
津軽藩の重臣となる
その後徳川氏に憚ったのか石田重成は杉山源吾と改名し、その子供の杉山八兵衛良成と名乗り、津軽藩主の津軽信牧の娘と結婚しました。
また、蝦夷地での合戦(シャクシャインの戦い)で活躍するなどして津軽藩で重要な役目を全うしました。
石田重成の子孫は東北で現在まで続いています。
三女・辰姫
津軽藩へ渡ったのは三女の辰姫も一緒でした。辰姫は津軽信牧に嫁ぎ、3代目津軽藩当主の津軽信義を産みました。
その子孫は今も津軽家として残っています。
現在に続く子孫
石田家は現在にも続いており、今は石田秀雄さんが第15代目としてご健在です。
ご本人によると、関ヶ原の戦い当時石田重家には身篭った妻がおり、その妻が結城秀康の保護を受けて越前(福井県)で出産したと言います。
その後新潟県妙高市に移り住み、庄屋として現代まで家系を伝えたそうです。
平成28年(2016年)に放送された大河ドラマ「真田丸」で石田三成を演じた山本耕史さんと対談し、三成が関ヶ原の戦い当日にお腹を下していたことや「石田家の男子はお腹が弱い」などとお話しされたようです。