ストックホルムオリンピックに監督として同行した大森兵蔵。妻はアメリカ人の安仁子(アニー)でその年齢差約20歳!
結核のため若くして亡くなりますが、体育教育の先駆者としてバスケットとバレーを日本へ伝えました。日本代表・金栗四三との関係についても紹介します。
大森兵蔵とは?
1876年、岡山県生まれ。東京高等商業高校(現在の一橋大学)を経てアメリカのスタンフォード大学に留学するも中退し、国際YMCAトレーニングスクールに入学します。
日本人の体格向上を目指して最新のスポーツや体育学を学び、バスケットボールとバレーボールを日本へ伝えました。
1911年、オリンピック委員会の一員となり、監督としてストックホルムへ同行。日本へ帰国する際に経由した妻の母国アメリカで結核のため1913年に死去します。
アメリカ留学
セツルメント事業と日本人の体格向上
大森は、日本でセツルメント事業を通して日本人の体格を向上させたいと考えていました。
当時の留学生は、帰国したらなにがしかの事業をしたいと考えるのが普通で、大森の場合は、セツルメントハウスでした。
セツルメントとは、診療所、幼稚園などの庶民の生活向上のための福祉活動のことを言います。
そして同時に大森は日本人の体格を向上させたいとも思っていました。
というのも大森自身が体が弱かったからです。特に大森は、幼少期から運動することで体質を改善できると考えていました。
国際結婚
安仁子(アニー)との出会い
大森はYMCAスプリングフィールド・カレッジで学生をしていた時に、アニーと知り合います。
アニーは旧家の出身で、当時は画家として生計を立てていました。
画業に集中するために家政婦を雇いたいとYMCAへ募集したところ、夏休み期間だったこともあり、たったひとり応募してきたのが大森だったのです。
しかし、料理などできるはずもなく、別の家政婦を雇うことになりました。
大森は夏休みの間だけのつもりで応募していたので、学校へ戻ろうとするのですが、引き留められて力仕事を任されるようになります。
引き合うものがあったのか、その後も文通でのやり取りが続き、1907年に結婚することになりました。大森が30歳、アニーが50歳の時でした。
その後、アニーは大森とともに日本へ渡り、帰化して安仁子となります。
夢の実現へ
帰国後は、東京YMCAで働く
大森はアメリカから帰国すると1909年、東京YMCAに就職しました。
そして、初代体育指導主事に就任し、YMCA会館の裏にコートを建設します。
近隣の大学へも指導に出かけるなど精力的に活動し、バスケットボールとバレーボールを日本へ伝えます。
バスケットボールとバレーボール
バスケットボールとバレーボールは、大森が学んだYMCAで健康増進のためのスポーツゲームとして作られました。
アメリカでは健康のために機械的に体を動かすのではなく、楽しんで行うことができる競技性のあるスポーツが求められていました。
また、春から秋までに外で行うスポーツは、野球、水泳、サッカーなどすでにあったのですが、冬の悪天候時に行える競技がなかったので、新しく室内競技を作る必要がありました。
そして作られたのがバスケットとバレーでした。
体育指導主事の辞任
大森と時を同じくして欧米視察に出かけていた総主事・山本邦之助が東京YMCAに対してアメリカに倣ったスポーツ・体育の推進のため体育館とプールの建設を提案します。
しかし、体育館建設の予算がなかったことと、身体的鍛錬は軍隊で行われるものという考え方があり、山本の提案は受け入れられませんでした。
その後も東京YMCAの考えは変わらなかったため、大森は就任から1年で体育指導主事を辞職します。
しかしながら一説にはこのころ大森は結核にかかり、体調を崩していたと言われています。
セツルメントハウス「有隣園」の建設
大森は1908年に私財を投じて有隣園という施設をつくりました。
当時としては珍しく授産所・幼稚園・図書館などを備えた複合的な施設だったそうです。
大森は体育主事の職を辞めたものの、YMCAで妻・アニーとともに英語講師として働きながら有隣園を運営しました。
大日本体育協会に入る
クーベルタン男爵からの要請を受け、オリンピックへ参加することになり、日本のスポーツを取りまとめる国内のオリンピック協会として大日本体育協会が設立されました。
役員に選ばれた大森は、羽田運動競技場の用地調達と設計に尽力します。
大森は京浜電機株式会社と交渉して毎年、競技会開催を条件にもともと自転車練習場として利用されていた場所を用地として手に入れました。
そしてアメリカ留学で学んだ最新の知識をもとに競技場を整備させます。
それは傾斜をつけた、楕円形の一周四百メートルのトラックで、スパイクを履いて走れるように固められた、現代的なものでした。
病を押して、ストックホルムへ渡航
オリンピック予選会の結果、金栗四三と三島弥彦がオリンピックへ派遣されることになりました。
すると大森は金栗に妻アニーから英語を習わせて語学の面で支援しました。
そして、監督としてストックホルムオリンピックに同行します。
当時はとにかく海外渡航者が少なく、ほかに海外生活を経験した人がいなかったのです。
長い道中、大森は結核が悪化し、ストックホルムに到着したときには部屋からほとんど出られないほど重篤になりました。
結核の悪化
大森は現地での練習に参加できず、金栗四三と三島弥彦の選手二人で行うことになります。例えば練習ではお互い交代でスタートの合図役を行いました。
しかし、大森は金栗のマラソンの競技日は病を押して応援に出かけます。
当日はどういうわけか迎えの車が来ず、電車も満員の為、二人で歩いて競技場へ向かったそうです。
この時の無理がたたって、マラソン観戦後はドクターストップがかかるほど病状が悪化し、しばらくストックホルムで静養することになりました。
先に帰国する金栗と三島があいさつに部屋を訪ねたものの、会うこともできませんでした。
アメリカでの最期
ストックホルムで静養後、病状が持ち直した大森は、アニーの親戚を訪ねてアメリカに渡ります。
大森は最初は入院を嫌がっていたものの、再び病状が悪化し入院せざるを得なくなりました。
入院から一か月後、闘病の甲斐なく亡くなります。この時大森は37歳でした。
エピソード
アニーのその後
大森が亡くなったあと、アニーはアメリカに留まるという選択肢もありましたが、大森の遺骨とともに日本へ戻りました。
そして、大森の遺志を継いで有隣園の運営を続け、関東大震災の際には被災者の救護に尽力し、叙勲を受けます。
戦時中は反米感情から有隣園の運営が難しくなり、別荘で過ごすようになりますが、最後は日本で亡くなりました。
大森の死後は喪服を通し、命日には誰にも会わず大森をしのんで一人で過ごしていたそうです。