徳川昭武とは、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる人物です。
徳川清水家6代当主となり、徳川慶喜の代行としてパリ万国博覧会に参加しました。
その際、渋沢栄一は会計係として随行したとされています。
パリ万国博覧会が終わると、そのままパリで留学生活を送ることとなりますが、この間、日本では異母兄・徳川慶喜が大政奉還を行い、鳥羽伏見の戦いが勃発することとなりました。
日本に帰国後は水戸藩第11代に就任し、その後、軍学校の1つである陸軍戸山学校で教官として活躍します。
そんな徳川昭武の生い立ちや幕末滞欧日記、パリ万国博覧会や渋沢栄一との関係性、また末裔について解説いたします。
徳川昭武の生い立ち
徳川昭武は嘉永6年(1853年)、徳川斉昭とその側室・万里小路睦子の子供として水戸藩中屋敷で誕生しました。
異母兄に徳川慶篤(母は正室の吉子女王)、池田慶徳(母は側室の松波春子)、徳川幕府最期の将軍となる徳川慶喜(母は正室の吉子女王)がいます。
生後半年から水戸で育てられたとされていますが、文久3年(1863年)からは再び江戸で育てられるようになりました。
上洛
江戸で暮らしていた徳川昭武ですが、同年、同母兄・松平昭訓が病に倒れたため、看護のため上洛します。
上洛後は長者町の藩邸に住んでいましたが、元治元年(1864年)7月19日、徳川昭武が11歳の時、江戸幕府と長州藩による武力衝突である禁門の変(別名、蛤御門の変)が京都で起きたため、以降東大谷長楽寺、本圀寺に滞在するようになりました。
京都に滞在中は江戸幕府の補佐で多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱(幕府陸軍と天狗党による衝突)などに出陣していました。
徳川清水家の6代当主となる
慶応2年(1867年)、徳川昭武は清水徳川家を相続・再興します。
清水徳川家とは
清水徳川家とは江戸幕府9代将軍・徳川家重の次男・徳川重好を家祖としたものです。
徳川清水家の初代当主となった徳川重好には実子がおらず、寛政7年(1795年)徳川重好亡き後は当主は空席となり一時は所領・家屋敷・家臣は江戸幕府に収公されることとなりました。
しかしその後、寛政10年(1798年)、江戸幕府第11代将軍・徳斉の五男・敦之助が幼くして徳川清水家の当主となり再興されることとなりました。
2代当主となった敦之助ですが、わずか4歳で亡くなり、その後1799年から1805年の間は当主不在となります。
3代当主となったのは江戸幕府11代将軍家斉の七男・徳川斉順で、その後は4代当主に徳川斉明(江戸幕府11代将軍家斉の十一男)、5代当主に徳川斉彊(江戸幕府11代将軍家斉の二十一男)が就任しました。
5代当主・徳川斉彊亡き後、徳川清水家は1846年から1866年まで約20年の間、当主不在となりましたが、水戸徳川家から徳川清水家の養子となった徳川昭武が徳川清水家の6代当主となりました。
パリ万博博覧会に出席
徳川昭武は徳川清水家の6代当主就任と同時に、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂亡き後、将軍となった異母兄の徳川慶喜の代理人として、慶応3年(1867年)4月からパリで行われるパリ万国博覧会に参加するためヨーロッパ派遣を命じられます。
そして慶応3年(1867年)1月、使節団を率いて渡仏しました。
渋沢栄一との関係性
渡仏には約50日かかったとされています。
この使節団の中には当時幕臣であった渋沢栄一が会計係として従い、また随行医として高松凌雲、通訳係として山内堤雲、随行員に保科俊太郎などがいました。
徳川昭武幕末滞欧日記
パリ万博博覧会終了後は江戸幕府の代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどを訪問し、以後、徳川昭武はパリで留学生活を送ることとなりました。
徳川昭武はパリでの留学生活を記録しており、『徳川昭武幕末滞欧日記』としてまとめられています。
パリ滞在中、異母兄・徳川慶喜が大政奉還を行う
慶応4年(1868年)1月、異母兄で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったことをパリで知ります。
大政奉還とは日本の実質的統治者であった江戸幕府将軍が朝廷に政権を返上することです。
鳥羽伏見の戦い
明治元年(1868年)1月になると、明治政府を樹立した新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩など)と江戸幕府第15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府軍(奥羽越列藩同盟、蝦夷共和国、幕府陸軍、幕府海軍など)が衝突を起こします。
この戦いは鳥羽伏見の戦いと呼ばれ、戊辰戦争の初戦とされています。
明治政府からの帰国命令
鳥羽伏見の戦いの様子はパリでも新聞で報じられ、使節団として随行していた栗本安芸守らは日本に帰国しました。
徳川昭武は使節団のうちの6名とともにパリに残りましたが、程なくして明治政府から帰国の要請が届きます。
しかし、4月の時点で異母兄・徳川慶喜からパリに留まり勉学に励むようにと手紙が送られていたため、徳川昭武はパリに滞在しました。
同年5月15日、再び明治政府から帰国命令が届き、これによって徳川昭武らは日本に帰国することとなりました。
水戸藩第11代となる
明治政府から帰国命令が届いてから徳川昭武らは思い出作りとして10日間、ノルマンディーのカーンやシェルブールを回り、ロワール川河口のナントなどに旅にでました。
しかしその間、長兄で水戸藩主であった徳川慶篤が亡くなり、次期水戸藩主として徳川昭武が指名されることとなります。
同年9月4日、徳川昭武らはマルセイユを出航、11月3日、日本に帰国しました。
帰国した徳川昭武は翌年、水戸徳川家を相続し水戸藩主第11代に就任します。
水戸藩知事となる
明治2年(1869年)になると版籍奉還により、水戸藩知事となりました。
2年後の明治4年(1871年)7月14日になると廃藩置県により、藩知事を免ぜられ、その後は東京府向島の小梅邸で暮らしました。
陸軍戸山学校の教官となる
明治7年(1875年)になると陸軍少尉に任官し、日本陸軍の軍学校の1つである陸軍戸山学校で教官として軍事教養を生徒たちに教えました。
結婚
明治8年(1875年)には中院通富の娘・栄姫と結婚します。
再び留学
明治9年(1876年)アメリカ合衆国ペンシルベニア州のフィラデルフィアで開催されたフィラデルフィア万国博覧会に参加します。
訪米した徳川昭武はその後、異母兄・土屋挙直、異母弟・松平喜徳とともにフランスへと向かい、再び留学生活を送ることとなりました。
明治13年(1880年)留学先のエコール・モンジュを退学すると、同じくフランスに留学していた甥・徳川篤敬とともに欧州旅行へと出掛け、その後、翌年の6月に日本に帰国しました。
長女の誕生と妻の死
明治16年(1883年)1月、徳川昭武と、妻・栄姫との間に長女・昭子が誕生します。
しかし、妻・栄姫は産後の肥立ちが悪くそのまま亡くなってしまいました。
明治16年(1883年)5月、隠居を決めた徳川昭武は甥・徳川篤敬に家督を譲り、その翌年になると父・徳川斉昭の正室・吉子とともに戸定邸(現在の千葉県松戸市)へと移ります。
趣味を楽しんだ
自転車や写真、園芸など多くの趣味を持っていた徳川昭武は隠居後も、異母兄・徳川慶喜とともに写真撮影や狩猟に出掛けるなどしていました。
写真撮影は好んで行っていたとされ、自ら現像した写真も残されています。
徳川昭武の最期
明治43年(1910年)7月3日、徳川昭武は58歳で亡くなりました。
徳川昭武の末裔
徳川昭武は正室・栄姫との間に長女・昭子が誕生しました。
長女・昭子は伯爵・松平頼寿と結婚しています。
徳川昭武は正室・栄姫が亡くなった後、正式な妻を迎えなかったとされていますが、側室であった八重が、後妻の位置にあります。
側室・八重との間には次女・政子、長男・武麿(早世)、次男・武定、三女・直子、四子・温子、三男・武雄(早世)が誕生しました。
次男・徳川武定は後に海軍軍人となり東京帝国大学教授となっています。
まとめ
徳川昭武は江戸幕府の最後の将軍となった徳川慶喜の異母弟で、徳川清水家6代当主、水戸藩第11代となった人物でした。
将軍・徳川慶喜の代行としてパリ万国博覧会に参加するものの、その間、将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったことにより、日本では鳥羽伏見の戦いが勃発しました。
明治政府が樹立すると、帰国命令を受けることにより、日本に帰国します。
帰国後は水戸藩知事、陸軍戸山学校の教官となり活躍しました。
そんな徳川昭武は2021年に放送予定の大河ドラマ「青天を衝け」に登場することが予想されています。