織田信勝(織田信行)とは?生涯や死因、大うつけと呼ばれた兄・織田信長との関係性について解説!

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織田信勝とは「大うつけ」と呼ばれていた織田信長の弟です。

2人の父・織田信秀が存命中は織田信長と対立することなく、織田弾正忠家の運営を行っていましたが、父・織田信秀が亡くなると対立関係となりました。

稲生の戦いでは織田信勝が敗北となり末森城に籠城しましたが、2人の母である土田御前が仲介をしこの戦いは終わりを迎えます。

その後も織田信勝は織田信長に対し敵意を持ち続け謀反を企てますが、柴田勝家がこれを密告したため謀反は失敗に終わり、織田信長によって誘殺されることとなりました。

そんな織田信勝の生涯や死因、兄・織田信長との関係性について解説いたします。

織田信勝の生い立ち

織田信勝は織田弾正忠家の当主・織田信秀とその正室である土田御前の三男または四男として誕生しました。

生年は不詳ですが、天文3年(1534年)に誕生した兄・織田信長(母・土田御前)はすぐ上の兄とされているため、天文3年(1534年)のすぐ後に誕生したと考えられます。

織田信勝には兄に、織田信広、織田信長、弟に織田信包、織田信治、織田信時、織田信興、織田秀孝、織田秀成、織田信照、織田長益、織田長利、妹にお犬の方、お市の方などがいました。

 

兄・織田信長と領地支配を行う

父・織田信秀は尾張国内に勢力を伸ばしていました。

晩年になると美濃国、三河国へと侵攻を開始しましたが、どれも撤退に追い込まれることとなります。

織田家の中で動揺が広がる中、父・織田信秀は天文18年(1549年)当時、15歳で那古野城主であった兄・織田信長に政務に関与させました。

この時は織田信秀と、織田信長による二元体制が行われていたのです。

しかし、天文20年(1551年)前半頃から父・織田信秀は体調を崩すようになります。

そこで父・織田信秀に代わって、織田信勝は兄・織田信長とともに領地支配を行うようになりました。

後に、織田信勝と織田信長兄弟は対立関係となりますが、父・織田信秀が存命中は父・織田信秀に仕える者としてどちらも対等な立場でありました。

 

父・織田信秀の死

天文21年(1552年)3月、父・織田信秀が42歳で亡くなります。

葬儀には約300人の僧侶が集まったとされ、大きな葬儀となりました。

 

大うつけと呼ばれた兄

兄・織田信長は少年時代から派手な服装を好み、奇行に走る青年でした。

そのような性格であったため、周囲からは「大うつけ」と呼ばれていたとされています。

そんな兄・織田信長には父・織田信秀の葬式の際、位牌に向かって抹香を投げつけたというエピソードが残されています。

兄・織田信長がなぜ抹香を投げつけるといった奇妙な行動をしたのかは分かっていませんが、父・織田信秀は後継者を決めず亡くなったため、父・織田信秀に対する不満があったのではないかと考えられています。

一方で、弟の織田信勝は正装で礼儀正しく父・織田信秀を供養していました。

末森城を継承

父・織田信秀亡き後、父の居城であった末森城は織田信勝が継承することとなりました。

この末森城には母・土田御前も一緒に暮らすこととなります。

母・土田御前は「大うつけ」と呼ばれていた織田信長を嫌い、礼儀正しい織田信勝を可愛がっていたとされています。

また織田信勝には柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門といった重臣が付けられることとなります。

 

兄・織田信長は家督を継ぐ

一方で兄・織田信長は織田弾正忠家の家督を継ぐこととなりました。

しかし、若くして当主となった織田信長には、父・織田信秀が支配していた勢力の維持を十分に行うことができるとは言えませんでした。

天文22年(1553年)7月の段階では、織田信勝は兄・織田信長とともに弾正忠家の運営を行っていたとされ、この時はまだ対立関係ではなかったようです。

 

独断で判物を発給

しかし、天文22年(1553年)10月、織田信勝は兄・織田信長の承諾なしで判物(将軍や大名などが発給する文章)を発給します。

この頃から織田信勝は独断で行動を起こすようになりました。

天文23年(1554年)4月頃、兄・織田信勝は叔父の織田信光と協力し守護代・織田大和守を滅ぼします。

しかし、同年11月、兄・織田信長に協力した叔父の織田信光は暗殺され亡くなりました。

「達成」と改名

天文22年(1553年)10月から天文23年(1554年)11月22日の間に、織田信勝は「達成」と改名しています。

この名前の「達」の字は織田大和守家の当主の通字とされ、織田信勝は織田大和守家の当主を意識し、改名したと考えられます。

また官途名として「弾正忠」と名乗っていました。

兄・織田信長ではなく自分こそが弾正忠家の当主であるとアピールするためだったと考えられています。

この頃から織田信勝と兄・織田信長は対立を見せるようになりました。

 

弟・織田秀孝が誤殺される

弘治元年(1555年)6月、弟の織田秀孝が叔父にあたる守山城主・織田信次の家臣によって誤殺されます。

叔父・織田信次が家臣らと川狩りを行っていたところ、織田秀孝がお供を付けずに単騎で乗馬通行していたため叔父・織田信次の家臣・洲賀才蔵が、領主の前で馬から下りずに通行する不届きものと勘違いし、射殺したものでした。

叔父の織田信次は射殺されたのを織田秀孝と知ると、織田信長の報復を恐れたとされています。

兄・織田信長は織田信次の領内を単騎で通行していた織田秀孝にもお咎めがあるとし、織田信次の罪を許しました。

しかし、弟・織田秀孝の死を知った織田信勝は罰として織田信次の居城・守山城の城下を焼き払いました。

暗殺された織田信光に続き、弟の織田秀孝も亡くなったことから織田弾正忠家内での権力争いで生き残ったのは、織田信勝と織田信長のみとなりました。

 

長良川の戦い

弘治2年(1556年)4月、織田信長の正室・帰蝶の父である斎藤道三が、自身の嫡男である斎藤義龍と美濃国で対立を起こします。

この戦いは長良川の戦いと呼ばれ、多く味方をつけることのできなかった斎藤道三が敗れ亡くなりました。

兄の織田信長は斎藤道三に味方していたため、長良川の戦いに駆けつけましたが、すでに戦は終わっていたとされています。

この頃、織田信勝に味方していた林美作守らが、織田信長を殺害しようとする事件もありましたが、未遂に終わります。

 

稲生の戦い

弘治2年(1556年)8月、林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに織田信勝は兄・織田信長に対抗することを決意します。

8月24日、両者の間で戦が始まりました。

稲生で行われたこの戦は織田信勝方の柴田勝家は敗走、林美作守は戦死し織田信勝の敗北に終わります。(稲生の戦い)

敗北した織田信勝が末森城に籠城すると、兄・織田信長は末森城へと攻撃を開始しました。

しかし、2人の母・土田御前が仲介に入ったため、この争いは終わりを迎えます。

斎藤義龍からの手紙

稲生の戦い以降、織田信勝の勢いは無くなり「弾正忠」と名乗ることを辞めます。

しかし、兄・織田信長に対しては敵意を持ち続けました。

翌年の弘治3年(1557年)4月、織田信勝のもとに美濃国の斎藤義龍から書状が送られてきました。

この書状は再度、織田信長に対し攻撃を始めるよう促す内容であったと考えられています。

 

謀反を企てるも

永禄元年(1558年)3月、織田信勝は駿河国の戦国大名・今川氏の攻撃に備えるため、竜泉寺城の築城を始めます。

兄・織田信長の攻撃に備えるため築城されたとも考えられています。

同年、『信長公記』によると、織田信勝は岩倉城の織田信安とともに、兄・織田信長に対し謀反を企てました。

しかし、柴田勝家がこれを兄・織田信長に密告します。

 

織田信勝の最期と死因

この密告を受け兄・織田信長は仮病を装い、11月2日、織田信勝が清須城へと見舞いに来るのを待ちました。

何も知らない織田信勝は見舞いのため清洲城へと訪れ、そのまま誘殺され21歳または22歳で亡くなりました。

 

まとめ

織田信勝は大うつけと呼ばれた織田信長の弟です。

父・織田信秀が亡くなると2人は対立関係となり、稲生の戦いと呼ばれる戦を起こしました。

この戦いは織田信勝の敗北に終わりましたが、その後も織田信長に敵意を持ち続けます。

遂に謀反を企てた織田信勝でしたが、柴田勝家に密告され、織田信長によって誘殺されました。

現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」では俳優の木村了さんが織田信勝を演じられています。