阿部正弘は徳川第12代家慶、第13代家定の二人の将軍に仕えて、奏者番,寺社奉行を歴任した後、老中首座まで登り詰めました。
備中福山藩の阿部氏は、福山移封後、廃藩置県までの10代の藩主で、4人の老中と1人の大阪城代を輩出する、譜代大名ではエリート中のエリートといえる大名家です。
徳川幕府末期に登場したエリート官僚・阿部正弘とはどんな人物だったのでしょうか。彼が日米和親条約を締結した経緯やイケメン説、子孫や死因などについて解説していこうと思います。
阿部正弘の簡単な生い立ちや生涯まとめ
阿部正弘は文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代備中福山藩主阿部正精(まさきよ)の五男として生まれました。
7歳の時に兄正寧(まさやす)が第6代の家督を継ぎますが、病弱だったために正弘17歳の時に隠居、正弘が第7代藩主となります。
19歳で奏者番,21歳で寺社奉行,25歳で老中と、若くして出世街道を邁進します。
その後、江戸城焼失や外国問題の紛糾などで前の老中首座の水野忠邦が復帰すると、あからさまに対立し水野の三羽烏と呼ばれた鳥居耀蔵・後藤光亨・渋川敬直の天保改革時代の不正を暴き、これらを処分。
ついには水野自身の不正も暴いて老中から追い落とし、老中首座に就きます。
この後は内政,外交を幕府の中心で数多く解決していきますが、安政4年6月17日(1857年8月6日)39歳の若さで老中在職のまま江戸城で急死してしまいます。
阿部正弘が日米和親条約を締結?
阿部正弘が出世の糸口を掴んだのは寺社奉行時代、第11代家斉時代にその大奥と目白の感応寺僧侶が乱交を繰り広げた事件を、家斉死後に幕府の権威を傷つけることなく解決し、第12代家慶に目を掛けられるようになったことがきっかけです。
その後は前述の水野忠邦との政争に勝利し、老中首座として権力の中枢に座ると目の前に立ちはだかる難問を解決していきます。
江戸城西の丸造営を指揮し、1840年に清国で起こったアヘン戦争の影響で日本に通商を求める外国船が来航するようになると、海岸防禦御用掛(海防掛)を設置。
1846年アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル,1853年のマシュー・ペリー率いる東インド艦隊,同年にはロシアのプチャーチン率いる艦隊が来航し、これらに対処しながら日本の鎖国政策を堅持し、松平慶永や島津斉彬らの諸大名にも広く意見を求めることも行いました。
しかし、圧力をかける外国船の来航に有効な手段が打てないまま、1854年日米和親条約を締結するしかないしないところまで追い込まれ、阿部正弘が老中の時に鎖国政策がついに崩壊します。
この日米和親条約を結んだことで、外国をうち払おうとする尊王攘夷派の動きが強くなり、阿部正弘への風当たりも強くなります。そして重圧へのプレッシャーからか、若くして亡くなってしまうのです。
その後は諸外国に対抗するため講武所(日本陸軍の前身),長崎海軍伝習所(日本海軍の前身),洋学所(東京大学の前身)を創設し、西洋砲術の推進や“大船建造の禁”の緩和、海防の強化などに取り組み、幕府の軍制改革を行い、これら一連の幕政改革は「安政改革」と呼ばれるようになります。
阿部正弘の死因について
39歳という若すぎる死因に関しては、死去する直前は肥満体型が下痢によって激やせしていたとも言われ、肝臓癌による病死が有力と言われています。
他には外交問題による山積した激務による過労死,正弘の安政の改革に不満を持つ譜代大名による暗殺説までありますが、その後の政治の流れをみれば癌かどうかは別にして、成人病なども含めての急死と考えた方が自然だと思われます。
阿部正弘のイケメン説や大奥に関するエピソード
若くして権力の頂点に立った阿部正弘ですが、彼の容姿はどんな感じだったのでしょうか?
NHKの大河ドラマで何度も阿部正弘は登場しているのですが、若林豪さんや草刈正雄さん,枡毅さん,藤木直人さんなど、渋い感じの男前な俳優が演じています。
名門譜代大名の出身、スピード出世で権力の頂点に駆け上がり、これでイケメンだったら非の打ち所がないのですが、実は相当な肥満体質だったようです。
肥満だったために正座が苦手で、長時間正座していると畳が汗で湿っていたと幕臣木村芥舟(きむらかいしゅう)が伝えています。
13代家定の将軍世嗣問題が起こったとき、12代家慶は家定の病弱を嫌い、一橋慶喜を13代にと考えていましたが、阿部正弘はこれに猛反対し、結果的に家慶が折れて家定が13代将軍になります。
このため家定は阿部正弘に頭が上がらなかったと考えられますが、14代世嗣問題の時には阿部正弘は一転して一橋慶喜を推して、大奥や譜代大名が推す紀州慶福(のちの14代家茂)らと対立します。
このころ大奥の実権を握っていた家定の継室・篤姫こと天璋院とは相当に険悪な仲になっていたのではないでしょうか。
結果的には阿部正弘の急死により一橋慶喜派は腰折れ状態となり、紀州慶福派が勝利します。
阿部正弘の子孫について
急死した阿部正弘のあとを継いだのは、福山藩6代藩主阿部正寧の長男正教(まさのり)ですが、相続後4年で死去したため、9代目には正教の弟正方(まさかた)が就いています。
政方は幕末の動乱期をなんとか乗り切ろうとしますが、戊辰戦争に突入する直前に20歳で死去、正弘の娘と結婚した芸洲広島藩主浅野長勲(ながこと)の弟元次郎が阿部正桓(まさたけ)と名乗り10代目藩主になりました。
正桓の長男は気象研究所長,次男は農林大臣,日本中央競馬会(現在のJRA)の理事に就くなどしています。
阿部正弘の一目惚れの逸話
39歳のエリート官僚・阿部正弘には1つだけ有名な逸話が残っています。
江戸向島にある長命寺で今でも営業している山本屋は桜餅が評判のお店ですが、阿部正弘が生きていた時代も美味しかったそうです。
そこの看板娘のおとよが近所でも評判の器量好しで、桜餅が目当てかおとよが目当てかと言われるほどでした。
評判の桜餅ということで母へのお土産を買い求めた阿部正弘がおとよに一目惚れしてしまいました。
用事があるたびに足を運んでおとよの顔を見に来ていた正弘でしたが、ある日おとよに惚れてる男の話を聞きます。これを聞いた正弘は心穏やかにいることができず、山本屋に対しておとよを下屋敷に奉公に出すよう申し渡します。
奉公といっても実質は側室に上がれということで、阿部正弘は体よくおとよを囲ったということです。
このおとよを囲った一件は、おとよに好意を寄せていた人々の反感を買い、阿部正弘の評判を相当に落としたようで、幕府きってのエリートも女には弱かったようです。
ちなみにこの時阿部正弘は37歳、おとよは18歳(15歳や17歳の説もある)でした。
阿部正弘は運や偶然で老中首座まで上り詰めたのではなく、この時代最高の行政手腕を持っていたからです。正すべき不正は正し、諸外国への対応も軟弱と言われながらもなんとか抑えきりました。
39歳の若さで江戸城内において急死したというのは、幕府の政治を司った老中阿部正弘らしい最期だったのかもしれません。
なお、このあと瓦解の一途を辿る幕府ですが、多くの幕臣が阿部正弘さえ生きておればと嘆いたと伝えられています。