明智秀満は明智光秀の重臣として活躍した人物です。
その出自や生涯は謎に包まれていますが、明智光秀が行った謀反(本能寺の変)では先鋒となって本能寺を襲撃したとされています。
また2018年に発見された「明智秀満書状」から明智光秀から信頼を得ていたことが分かっています。
そんな明智秀満の生い立ちや経歴、兜や明智秀満書状、また天海との関係性について解説します。
明智秀満の生い立ち
明智秀満は天文5年(1536年)頃に誕生したと考えられていますが、はっきりとした時期は分かっていません。
またどこで誰から誕生したのかも明確には分かっておらず、出自については様々な説があります。
三宅氏出身説
明智秀満は当初、「三宅弥平次」と名乗っていたと考えられています。
明智秀満が名乗っていたとされる三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認されています。
明智秀満は三宅出雲の息子、あるいは美濃の塗師の子、また備前児島郡常山の国人・三宅徳置の息子などの説があります。
明智氏出身説
明智光秀を主人公とした軍事記『明智軍記』によると明智秀満は明智氏出身とされています。
明智光秀の叔父・明智光安の息子(次男)であると記されていることから、明智光秀と明智秀満は従兄弟同士という関係性になります。
遠山氏出身説
明治時代、旧尾張藩士の阿部直輔が謄写校正した『恵那叢書』には、明智秀満の父・明智光安は美濃国明知城主・遠山景行と同一人物であると記されています。
明智秀満の父・光安が遠山景行であるとすると、遠山景行の子供である遠山景玄は明智秀満であるといった説があります。
その他の出身説
他にも『細川家記』には明智秀満は塗師の子、『武功雑記』には白銀師の子であると記されていますが、信憑性は低いものとなっています。
様々な名前
明智秀満は当初「三宅弥平次」と名乗っていました。
その後は「明智弥平次」と名乗っていたとされています。
他にも「光春」「満春」「左馬助」などと呼ばれていました。
明智秀満の前半生
出自が未だ明確に分かっていない明智光満ですが、その生涯もよく分かっていません。
明智秀満の生涯は『明智軍記』を始めとした書物に記され、伝えられています。
長良川の戦いで斎藤道三方につく
明智氏出身説では、明智光満は明智光秀の世話役であった父・明智光安に従っていたとされています。
弘治2年(1556年)明智氏の主君・斎藤道三が、長男・斎藤義龍にクーデターを起こされ、戦いに繋がります。
この戦いは長良川の戦いと呼ばれ、乱戦となった長良川の戦いは斉藤義龍の勝利に終わりました。
明智秀満は敗北した斎藤道三方についていたため、斎藤義龍に攻められ長山城は落城し、父・明智光安は自害しました。
明智秀満は同じく斎藤道三方についていた明智光秀らとともに城を脱出し、その後放浪生活を送ったとされています。
明智光秀の娘を正室に迎える
その後、明智秀満は天正6年(1578年)以降、明智光秀の娘を正室に迎えます。
正室となった明智光秀の娘はもともと織田信長の家臣・荒木村重の嫡男・荒木村次に嫁いでいました。
しかし、天正6年(1578年)10月、荒木村重は突如、主君である織田信長に謀反を起こします。
これによって明智光秀の娘は荒木村次と離縁となりました。
そしてその後、明智秀満と再婚したと考えられています。
天正9年(1581年)頃になると福知山城に翌年まで在城します。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月、従兄弟である明智光秀が主君である織田信長に謀反を起こします。(本能寺の変)
なぜ明智光秀が織田信長に対し謀反を起こしたのかは未だ分かっていません。
本能寺を襲撃
明智光秀は織田信長に謀反を起こすことを前もって明智秀満やその他の重臣である明智光忠(次右衛門)、斎藤利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝に明かしていました。
その際、明智光秀の謀反の決意を聞いた一同は黙っていたとされています。
しかし、明智秀満が誰よりも先にこれを承諾したため、残る4人も明智光秀の謀反を承諾しました。
そして行われた明智光秀による謀反、明智秀満は先鋒となって本能寺を襲撃したとされています。
本能寺を襲撃した明智秀満は安土城の守備につきました。
天正10年(1582年)6月13日の夜、明智光秀が山崎の戦いで敗れたことを知ります。
山崎の戦いとは
山崎の戦いとは天正10年(1582年)6月2日におきた本能寺の変を受け、6月13日、現在の京都府長岡京市乙訓郡大山崎町において織田信長方の羽柴秀吉軍(豊臣秀吉)と明智光秀軍が衝突した戦いです。
戦いが始まると、すぐさま明智光秀軍は包囲されることとなり、明智光秀は坂本城へと落ち延びようとしました。
しかし、落ち延びる途中、明智光秀は落ち武者狩りに遭い明智光秀は亡くなりました。
明智秀満の最期
明智光秀が敗れたことを知ると、明智秀満は6月14日未明、安土城を発ち救援のため坂本城へと向かいます。
明智秀満が坂本城に入ったことを知った豊臣秀吉方の堀秀政はすぐさま坂本城を包囲しました。
明智秀満はしばらく堀秀政の攻撃から防戦していましたが、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名品が無くなることを恐れ、これらをまとめると目録を添えて堀秀政の一族の堀直政へと送ります。
そして14日の夜、明智秀満は自身の正室を刺殺した後、腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされています。
明智光秀の妻子を刺殺してから自害したといった説もあります。
明智秀満の伝説
明智秀満には「明智左馬助の湖水渡り」という伝説が残されています。
この伝説は明智秀満が馬で琵琶湖の湖上を越えたというものです。
明智光秀が山崎の戦いで亡くなったことを安土城で知った明智秀満は救援のため坂本へと向かおうとしましたが、しかしその途中、大津で豊臣秀吉方の堀秀政と遭遇しました。
明智秀満軍の兵たちは次々と討たれてしまい、窮地に立たされた明智秀満は馬に乗り琵琶湖へと走りました。
豊臣秀吉方の堀秀政はきっと、琵琶湖に沈んでいくだろうと見ていたとされています。
しかし明智秀満は唐崎に上陸し、そのまま坂本城へと向かいました。
この逸話は「明智左馬助の湖水渡り」として伝説に残されています。
明智秀満と天海は同一人物?
明智秀満と天海は同一人物といった説があります。
天海とは安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した天台宗の僧侶で、徳川家康の側近として政治に深く関わりました。
南光坊天海、智楽院とも呼ばれています。
「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と『東叡山開山慈眼大師縁起』に記されていることから、天海は蘆名氏の出自で陸奥国で誕生したと考えられます。
しかし、同時に「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」、つまり室町幕府第11代将軍・足利義澄の子供であるといった説も記されているため、天海の出自については謎が多く残っています。
また他にも実は本能寺の変後も明智光秀、明智秀満は生き延び天海と名乗り徳川家康の政策に携わっていたといった説があります。
ですが明智光秀、明智秀満が天海であるといった説は否定されています。
明智秀満書状
2018年、三重県で5通の明智秀満による書状が発見されました。
この書状は「明智秀満書状」と呼ばれています。
明智秀満書状の内容
5通の明智秀満書状の中には明智光秀の本拠地となる坂本城の築城に関するものがありました。
そこで明智秀満は「広間の襖・障子・引手・釘隠しの取りつけについて、責任を持って丁寧に行うこと」といった指示を出していました。
明智光秀の娘と結婚した明智秀満は、明智光秀の本拠地となる坂本城の築城を任されていたことから、明智秀満は明智光秀から非常に信頼されていたことが分かります。
兎の耳がついたユニークな兜
明智秀満が使用していた鎧兜は「南蛮胴具足」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されています。
その兜は「兎耳形」と呼ばれる兎の耳をあしらわれたユニークな兜です。
まとめ
明智秀満は出自や生涯など謎の多い人物でした。
明智光秀の重臣として活躍したとされ、「明智秀満書状」から明智光秀に非常に信頼されていたことが分かります。
本能寺の変では先鋒となって本能寺を襲撃したとされ、山崎の戦いで明智光秀が亡くなったことを知ると、救援のため坂本城へと向かいました。
しかし豊臣秀吉方の堀秀政に坂本城は包囲され、明智秀満は自害したとされています。