長宗我部元親とは、四国全土を領した戦国大名です。
明智光秀と本能寺の変を起こす直前まで、書状のやり取りがあったため、本能寺の変を企てたのは、長宗我部元親だったのではという説があります。
そんな長宗我部元親の生涯と子孫や、家紋、また高知市に建立された元親像と残された名言について解説していきます。
長宗我部元親の生い立ち
長宗我部元親は天文8年(1539)土佐国の岡豊城にて誕生しました。
幼少時は、色白の大人しい子供であったため、周囲から姫若子と揶揄されていたとされています。
初陣
永禄3年(1560年)5月、長宗我部元親は長浜の戦いで初陣を飾ります。23歳という遅い初陣でした。
この長浜の戦いにおいて、長宗我部元親は自ら槍を持って突撃し周囲に勇猛さを見せつけました。このことから鬼若子と賞賛され、長宗我部元親の武名は高まります。
同年6月、父・長宗我部国親が亡くなると、長宗我部元親は家督を継ぐこととなりました。
土佐国を統一
長浜の戦いで、敗れた本山茂辰は長宗我部軍の勢力に押される形となり永禄3年(1560)末には土佐国の西南部の一端を除き、長宗我部元親の支配下となります。
永禄4年(1561)3月に本山茂辰を朝倉城と吉良城に追い込み永禄5年(1562)9月には朝倉城攻めを行いました。
この朝倉城攻めでは、本山親茂の奮戦で1度は敗北するも、本山茂辰の家臣の多くが長宗我部元親に寝返ったため、永禄6年(1563)1月に本山茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠ることとなりました。
本山茂辰はその後本山を放棄して瓜生野城に籠もって抗戦するも、この最中に病死し永禄11年(1568)冬に降伏したため、土佐中部は長宗我部元親によって平定されることとなります。
永禄12年(1569)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼし土佐東部を平定し、元亀2年(1571)に一条氏の家臣・津野氏を滅ぼし、三男の親忠を養子として送り込みました。
天正3年(1575)に一条兼定が再起を図り土佐国に攻め込んできた際は弟・吉良親貞の援助もあり、四万十川の戦いで一条兼定を破り、土佐国を長宗我部元親は完全に平定することとなりました。
伊予国や阿波国、讃岐国へ
土佐国を平定した長宗我部元親は織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結ぶこととなり、その後、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻を進めます。
天正6年(1578)2月、阿波白地城を攻め大西覚養を討ち、次男の親和を讃岐国の豪族・香川信景の養子として送り込みました。
天正7年(1579)夏には重清城を落城させ翌年までに長宗我部元親は阿波国、讃岐国を制圧したとされます。
伊予国では、伊予国守護・河野氏が毛利氏の援護を受け長宗我部元親に抵抗を続けたため長宗我部元親の伊予国平定の計画は長期化することとなりました。
織田信長との対立
伊予国や阿波国、讃岐国の平定を進めた長宗我部元親に同盟を結んでいた織田信長は不満を抱きました。
織田信長は自らに臣従するよう迫りますが、長宗我部元親はこれを拒否したため双方は敵対関係となります。
天正9年(1581)3月に織田信長の助力を得た三好康長・十河存保らによって反抗を受け、天正10年(1582)5月には阿波の一宮城と夷山城を落とされます。
このようなことから長宗我部元親は斎藤利三宛の書状に織田信長に対し恭順する意向が記述されました。
長宗我部軍に攻め込む四国攻撃軍が6月2日に渡海する予定でしたが、その日に京都にて、本能寺の変が起こり、織田信長が死去したため長宗我部元親は危機を脱することとなりました。
豊臣秀吉との対立
織田信長の死後、政権を握り後継の地位を得た豊臣秀吉は天下統一を目指します。
長宗我部元親は、織田信長の死去を好機とし再び勢力拡大を図り、天正10年(1582)8月に十河存保を中富川の戦いで破り阿波国を完全に平定しました。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と共に、豊臣秀吉に対抗し、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいても織田信雄や徳川家康らと共に豊臣秀吉に対抗します。
この間、長宗我部元親は、南予の西園寺公広の諸城を落とすなどし、伊予国にて勢力を広げました。
同年6月には十河城を落として讃岐を平定するも、小牧・長久手の戦いでは織田信雄と豊臣秀吉が和睦するという形で終結を迎えます。
四国全土を統一
伊予国の平定までは長く時間を要しましたが、長宗我部元親は、天正13年(1585)春までに西予の豪族なども降伏させ、四国全土の統一を果たしたとされています。
豊臣秀吉に降伏
天正13年(1585)春、豊臣秀吉が紀州征伐に向け挙兵し、紀州を平定すると豊臣秀吉は伊予国、讃岐国の返納を長宗我部元親に命じます。
それに対し、長宗我部元親は伊予国を割譲することを申し入れますが豊臣秀吉はそれに応じず長宗我部元親に攻撃をしかけました。
豊臣軍の勢力に押された長宗我部元親は天正13年(1585)7月に降伏し阿波国、讃岐国伊予国を没収され豊臣秀吉に臣従を誓います。
豊臣政権下
豊臣秀吉に臣従を誓った長宗我部元親は天正18年(1590)の小田原征伐にて長宗我部水軍を率いて参加、文禄元年(1592)の朝鮮出兵には従軍したとされています。
長宗我部元親の最期
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死去してからは同年の年末か年明けに土佐国へと帰国するも翌年の3月頃から体調を崩し病気療養のために上洛したとされます。
5月になると病状は悪化し遺言を残し、長宗我部元親は最期を迎えました。
長宗我部元親の家紋
長宗我部元親は丸に七つ片喰紋とされる家紋を用いていました。
この家紋は長宗我部の初代が天皇からいただいた盃の中に片喰の葉が浮かんでいたことから、この紋が作られたとされます。
片喰は繁殖力の高い植物であるため、この紋は子孫繁栄の意味を持ち、片喰をつかった紋が多くの大名によって使用されました。
長宗我部元親の銅像
長宗我部元親の銅像は元親公没後400年に当たる平成11年(1999)に高知県立歴史民俗資料館の前に建立されました。
この銅像は、永禄3年(1560)長宗我部元親が23歳にして初陣を飾った長浜の戦いの前夜、若宮八幡宮で陣取った姿がモデルとされています。
長宗我部元親の子孫
長宗我部元親は正室との間に4男4女を授かり、また側室との間には1男1女を授かりました。
しかし、長男・信親は九州討伐で討死、次男・親和は兄・信親の死後、長宗我部家の家督を継ぐことなく病死、三男・親忠においては弟の盛親によって殺害され、末っ子の盛親は大阪の陣において討死となりました。
このことから長宗我部元親の直系の血は断絶するも、長宗我部元親の末弟・長宗我部親益は島性を名乗り土佐藩士として活躍し、明治維新後に長宗我部姓に復し長宗我部氏の当主となりました。
島性から長宗我部姓に変更したことは明治天皇から正統の子孫であると認められ、編集プロダクション「企画の庭」の社長、長宗我部友親さんは長宗我部家17代目当主とし活躍されています。
名言
この名言は長宗我部元親が常に家臣たちに伝えていた言葉とされています。
武士には槍、刀、弓、馬など心得なければいけない技が多くあります。
しかしいくつもの技を習得しようとすると、全て中途半端な技術となってしますので、一芸だけを熱心に取り組むほうが役に立つといった意味が込められました。
さいごに
長宗我部元親は幼少期、姫若子と揶揄されるほどの大人しい子供でした、しかし23歳で遅い初陣を迎えた後は、次々と戦に参加し天正13年(1585)春までには四国を統一した人物でした。
豊臣秀吉と対立し、降伏した際には統一した阿波国、讃岐国、伊予国を没収されるも豊臣秀吉からの丁寧なもてなしを受けると長宗我部元親は天下統一をもくろむ野心家から豊臣秀吉の忠実な家臣として残りの生涯を生きていきました。
もしこの時代に豊臣秀吉が生きていなければ、長宗我部元親は天下統一を果たせたのかもしれません。