松平春嶽・島津斉彬・山内容堂とともに幕末の四賢候に数えられる伊達宗城は、伊予宇和島藩8代藩主になります。
伊達政宗との関係、蒸気船を造った理由、子孫や家系図を含め、伊達宗城の生涯をひも解いてみたいと思います。
伊達宗城とは
伊達宗城は、1818年、山口直勝の次男として誕生しました。
伊予宇和島藩5代藩主・伊達村候は祖父にあたりますが、後継者に恵まれない7代藩主・伊達宗紀のことを思いやり、宗紀の五女・貞の婿養子として、宗城を迎えます。
1840年、宗城は佐賀藩主・鍋島斉直の娘・益子と婚姻し、宗紀が隠居した後に藩主を命じられ、伊予宇和島藩第8代藩主となります。
藩政・幕府改革を提言
宗城は先代が手掛けていた藩政改革を更に発展させ、高野長英や後の大村益次郎である村田蔵六を招き、藩士に蘭学を勉強させ、軍艦の教えを請う等、藩政の近代化に着手しました。
四賢候と呼ばれた福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂と積極的に交流をもち、幕府の政治にも参加して老中・阿部正弘に幕府改革を訴えます。
ですが、阿部正弘が急死したことにより、井伊直弼が大老に就任すると、春嶽・斉彬・容堂・宗城の4人と直弼の間で将軍継嗣問題をめぐって激しく対立し、安政の大獄によって、四賢候は隠居謹慎の身となりました。
明治維新後
1867年、明治政府の閣僚に選ばれますが、1868年に戊辰戦争が勃発すると、薩摩藩・長州藩の動きに抗議し、新政府参謀辞任の決意を表明します。
1869年、民部卿兼大蔵卿としてイギリスから鉄道敷設のための借款を取り付け、1871年、欽差全権大臣として日清修好条規に調印した後は外国貴賓の接待役を任されますが、1872年、その任を辞任し再び隠居生活となりました。
1879年、蜂須賀茂韶・岩崎弥太郎とともに東京海上保険会社設立に携わった後、1881年に勲二等旭日重光章を受章。1884年には伯爵に、1889年には勲一等瑞宝章を受章、1890年には勲一等旭日大綬章を受章、1891年には維新時の功が認められ侯爵へと陞爵しています。
1892年12月20日、容体が急変し、75年の波乱万丈の人生の幕を閉じています。
蒸気船について
伊達宗城のひと言で始まった蒸気船建造ですが、なぜ、蒸気船を造ることになったのでしょうか。
宇和島藩が幕府から建造を命令されたわけでも、差し迫って造らなければならない理由があったわけでもありません。理由はただ、宗城が欲したからです。
参勤交代の途中、品川沖に停泊していた黒船を見た宗城は「あのような船が欲しい」と近くにいた藩士にそう言い付けました。
前原巧山登場
その命令に応じるため、藩士は手先が器用な者ならば建造することができるのではないかとの考えから、手先が器用だった仏壇職人の提灯屋・嘉蔵(後の前原巧山)に、蒸気船を造るよう申し付けます。
命令された嘉蔵は、不眠不休で思案しますが、ようやく考えついたのは、網曳きで使われていたロクロの活用です。箱を造り、その箱に四輪をつけて回転するカラクリ物をつくり上げ、宗城に見せに行きました。
ですが、宗城は「本物を造れ」と言い渡し、その場で嘉蔵に十分な金子を与え、二人扶持五俵の武士へと取り立てます。
嘉蔵が持ち帰った金子と大小の刀を差して帰った姿を見て、家族、近所の者は大層驚き、腰を抜かしたと言われています。
村田蔵六の活躍
その嘉蔵を助けたのが、宇和島藩に招かれていた大村益次郎になります。
この当時、まだ村田蔵六と名乗っていた益次郎は、宗城に蘭学を翻訳して船を建造するよう命令されていたことから、一緒に蒸気船を造ることになりました。
蔵六の図面を頼りに何度も試作、試運転を重ねますが、なかなか思うような蒸気船が完成しません。そこで、蔵六と嘉蔵は、長崎に停泊している黒船の噂を聞き、長崎へと向かいます。
嘉蔵がタービンの音をヒントに鋼でタービンを造ったところ、蒸気の漏れが止まり、無事、蒸気船が完成しました。
ちなみに、独力で蒸気船を完成させたのは宇和島藩が最初であり、国内初の蒸気船になります。
子孫と家系図
伊達政宗との関係
伊達宗城の子孫の前に、伊達政宗との関係について説明しておきましょう。
独眼竜と呼ばれ恐れられた政宗の跡は、異母弟であり守城の名君と呼ばれた伊達忠宗が継ぐこととなりました。
秀宗は政宗の長男として誕生しましたが、母が側室であったために、伊達家を継ぐことができず、伊予宇和島藩の初代藩主となります。
その秀宗から数えて、伊予宇和島藩8代藩主となったのが、宗城です。
実父・山口直勝、実母・蒔田広朝の娘のもとに生まれましたが、百歳長寿の大名として知られる7代目藩主の伊達宗紀のもとへ養嗣子として迎えられました。
さて、その宗城の子孫についてですが、正室・益子との間には、十三男七女の20名の子どもに養子1名がおります。
ちなみに、この養子は養父であった第7代藩主の伊達宗紀の三男・伊達宗徳であり、伊予宇和島藩を継がせるために迎えたものです。
子孫と家系図
まず、男子からですが、長男・幸民は真田幸教の養子に、次男・宗敦は伊達慶邦の養子に、四男・昌邁は奥平昌服の養子に、六男・信広は田沼智恵と離縁後、瀧脇信成の養子に、七男・忠良は牧野千代子の養子に、八男・宗倫は分家し、十男・宗曜は伊達宗倫の養子に、十二男・広城は蒔田広孝の養子となっています。
続いて女子ですが、初子は柳原前光の妻へ、敏は松根城臣の妻に、照子は水野忠弘継室、三井高弘の妻に、幾は志賀平四郎、桜田栄次郎の妻に、五女・泰は佐和正の養女となった後、阪田九郎の妻へとそれぞれ嫁いでいます。
孫・伊達順之助(張宗援)
賢候と知られた宗城の子孫の中でも異彩を放つのは、孫・伊達順之助ではないでしょうか。
宗城の次男・宗敦の六男になりますが、若い時から素行が悪く、不良学生を射殺後に山縣有朋暗殺計画を立てる等、家族を悩ます存在となります。
朝鮮にわたり、大陸浪人・馬賊として活動し、1948年9月9日、銃殺刑に処せられています。