慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康(とくがわいえやす)は、西軍側の大名の改易や減封を進め、東軍側大名への加増や徳川家の領土の拡張などを行い、圧倒的な支配的地位を築き上げて、慶長8年(1603年)、征夷大将軍に朝廷より任じられ江戸に幕府を開きます。
この年が徳川幕府の始まり、すなわち江戸時代の始まりとなります。
ここから15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還を行った慶応3年(1867年)または明治に元号が変わった慶応4年(1868年)まで江戸時代は続きます。
今回は徳川家が260年以上にわたって政権を握って、日本を統治した江戸時代がどのような時代であったのか、年号や将軍、出来事、庶民の暮らしや食事、娯楽など文化的なことろまでを詳しく調べてみたいと思います。
江戸時代の年号
日本国憲法下(大日本帝国憲法下でも)の日本では年号(元号)は天皇の即位及び退位によってのみ改元されますが、明治以前では天災や凶事、吉事、慶事など、人心一新をはかりたいときなどに年号を自由に変更していました。
このため将軍や天皇の即位、崩御に関わらず年号が変わっています。
江戸時代には慶長、元和、寛永、正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応の36の年号が使われました。
徳川家歴代将軍
将軍は家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜の15代を数えました。
徳川家康の直系男子は7代家継で途絶えており、8代吉宗は紀州徳川家から迎えられました。
吉宗の血筋は14代家茂まで続き、15代慶喜は水戸家から将軍家を継いでいます。
江戸時代の食事、料理
江戸時代は身分統制がはっきりとした時代であったため、その身分によって食べたものが異なっていました。
徳川将軍家の食事
この時代の最高権力者である徳川将軍家の食事は膳が二つの二汁三菜が基本でした。
- 一の膳…ご飯、汁物、刺身や酢の物、煮物
- 二の膳…吸い物、焼き物
これが基本的な献立で、焼き物はいわゆる焼き魚のことで、鱚(きす)は字からわかるように縁起物として数多く出されたそうです。
鮪(まぐろ)や河豚(ふぐ)、秋刀魚(さんま)や鰯(いわし)などは以下物(いかもの)と呼ばれ、魚としては将軍が食べる格がないと言うことで将軍の口に入ることはなかったそうです。
当然、野菜などほかの食材にも以下物は存在し、南瓜(かぼちゃ)や葱(ねぎ)、韮(にら)、鯏(あさり)、蜆(しじみ)なども将軍が食べることは出来ませんでした。
将軍の食事は何回も毒味をされるため作られてから二時間ほど経って将軍の前に来るため、将軍はホカホカの白米を口にすることはありませんでした。
江戸庶民の食事
江戸に住む一般人の食事は一汁一菜が基本でした。
- 朝食…ご飯と味噌汁
- 昼食…ご飯と焼き魚や煮物など
- 夕食…お茶漬けと漬物
これが一般的な食事であったとの記録が残っています。
通常は朝に一日分のお米をまとめて炊くため、朝はホカホカ炊きたてのご飯、昼は冷飯で夜はお白湯をかけたお茶漬けだったそうです。
おかずは大根や牛蒡、豆を使ったものが多く、おひたしや白和え、煮豆、たくあん、目刺しの焼き魚や鯏、蜆の汁物でした。
ちなみに奈良時代からの獣肉食禁止は江戸時代にも引き継がれていましたが、軍鶏や魚は食べられていました。
しかし牛や馬が滋養のある食材であることはよく知られていて、猪肉を牡丹、馬肉を桜肉、鹿肉を紅葉肉といい、鶏肉を柏肉と花や植物の名を付け、鳥が禁止されていない事に便乗して兎を一羽、二羽と数えて鳥と同じ扱いで食していました。
江戸時代の住居
将軍の住まい
徳川将軍家の住居は日本の統治の中枢であった江戸城(別名千代田城、現在の皇居)です。
徳川家康が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で関東へ移封となったときに居城と定めた城ですが、徳川家康が征夷大将軍になった1603年から1638年の天守修築までの間、諸大名へ賦役を課して何度も改修や修築を行い、将軍家の住居にふさわしい規模へと普請を繰り返しました。
将軍は江戸城本丸御殿に居住しており、ここは表、中奥、大奥に仕切られていました。
- 御殿表…将軍が政務をとったり、幕閣の面々と会議をしたり、儀式を行ったりする場所です。
- 御殿中奥…将軍の住居に当たる部分で、ここで食事をしたり、寝室で睡眠を取ったり、側近と内密の話をしたりする場所でした。
- 御殿大奥…テレビドラマや映画で何度も描かれたことがある場所で、御台所(将軍の正室)を頂点とした将軍に仕える女性たちが生活しているところです。
ちなみに現在の天皇陛下は江戸城吹上御苑内の御所にお住まいになられています。
江戸庶民の住居
江戸の町に住む人々はどのような場所に住んでいたのでしょうか?
大名や旗本その家臣たちは一般に言う大名屋敷で寝起きしていました。
当時の江戸は武士が住む場所と町人が住む場所を明確に仕切っており、浪人以外の武士が町人地域に住むことはできず、当然その逆も出来ませんでした。
大名屋敷は石高によってその広さが決まっており、大藩であればあるほど屋敷は立派でした。
町人のほとんどは時代劇で見かける長屋と呼ばれる平屋建ての集合住宅に住み、土間と畳部屋を併せて六畳ほどの広さで、ここで寝起きし、食事をとって生活していました。
トイレは共同、洗い物をする井戸も供用でした。
お風呂は共同浴場(現代の銭湯)を利用し、お湯を沸かして湯船に浸かる現代とは異なり、江戸時代は蒸し風呂に浴衣を着て入るのが当たり前で、男女混浴が普通でした。
なお長屋の家賃は現在の通貨価値で約一万円程度だったといわれており、平均月収が10万程度だったといわれている江戸町人の収入では安いとは言えない価格でした。
江戸時代の写真
日本に写真が伝わったのは、嘉永元年(1848年)だと言われています。
日本人によって撮影された写真で、現存する最古のものは、安政4年(1857年)の薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)銀板写真です。
写真は写真術を学んだ人々によって日本中に広まり、幕末に活躍した坂本龍馬(さかもとりょうま)や近藤勇(こんどういさみ)の姿を後世に残しました。
上の写真は、撮影者、場所、日付などは未詳ながら写真の両脇に並ぶのは旅籠で、どこかの宿場町を撮影したものと思われます。
中央に写る駕籠が当時の街道筋の雰囲気を醸し出しています。
若旦那と呼ばれる若い商人の談笑している姿を写真に収めたものです。
羽織をはおっておりそれなりに裕福であったと推測されます。
これら以外にも幕末の日本の町並みや風景を撮った写真は数多く残されており、過ぎ去りし江戸時代の情緒を伝える貴重な資料として保管されています。
江戸時代の主な年表
江戸時代におこった数多くの出来事から日本史の試験に出そうな事柄を年表にしてみました。
慶長8年(1603年)徳川家康、征夷大将軍に任じられる(江戸幕府誕生)
慶長19年(1614年)大坂冬の陣
元和01年(1615年)大坂夏の陣、豊臣氏滅亡
寛永12年(1635年)武家諸法度を改正し参勤交代を制度化
寛永14年(1637年)島原の乱
寛永20年(1643年)田畑永代売買の禁令
慶安02年(1649年)慶安の御触書
慶安04年(1651年)由井正雪の乱
明暦03年(1657年)明暦の大火
延宝01年(1673年)分地制限令発布
貞享02年(1685年)初の生類憐みの令発布
元禄08年(1695年)元禄の貨幣改鋳
元禄15年(1702年)赤穂浪士討ち入り(忠臣蔵)
享保01年(1716年)享保の改革始まる
享保03年(1718年)江戸町火消制度
享保06年(1721年)目安箱設置
享保07年(1722年)上げ米の制を制定
享保08年(1773年)足高の制を制定
享保17年(1732年)享保の大飢饉
宝暦08年(1758年)宝暦事件
天明02年(1782年)天明の大飢饉
天明07年(1787年)天明の打ちこわし
寛政02年(1790年)寛政異学の禁
文政08年(1825年)異国船打払令発布
文政11年(1828年)シーボルト事件
天保04年(1833年)天保の大飢饉
天保08年(1837年)大塩平八郎の乱
天保12年(1841年)天保の改革
天保14年(1843年)人返しの法
嘉永06年(1853年)ペリー浦賀に来航
安政01年(1854年)日米和親条約
安政05年(1858年)日米修好通商条約、安政の大獄
万延01年(1860年)桜田門外の変
文久02年(1862年)坂下門外の変、生麦事件
文久03年(1863年)下関事件、薩英戦争
元治01年(1864年)池田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐
慶応01年(1865年)第二次長州征伐
慶応02年(1866年)薩長同盟成立
慶応03年(1867年)大政奉還(江戸幕府の終焉)
さいごに
江戸時代は武家政治の集大成にして、最後の時代でもあり、鎖国によってあらゆるものが停滞した時代でもありました。
このため社会のなかに発散できない大きな力が溜まり、これが幕末になって行き場を失い、若者のなかで爆発することとなり、明治維新へと繋がりました。
わずか150年ほど前に写真と同じ世界がこの日本に広がっていたことを考えれば、時間の流れとは、どれほどまでに早いのかを痛感させられます。
歴史を学ぶこととは年号を覚えることではなく、時間の流れを知ることなのかもしれませんね。