明治新政府の早期実行案件の中に廃藩置県という政策がありました。この政策は幕府の体制を抜本的に変えた大改革で、新しく誕生した明治政府にとっては、必ず成し遂げなければいけない政策でした。
この記事では、廃藩置県とは何か、またその目的や由来などに関してわかりやすく解説していきます。
廃藩置県が生まれるまでの経緯
明治2年、徳川幕府の終わりを象徴する出来事として版籍奉還が行われ、274家あった大名家から土地と人民は全て明治新政府が管理することになりました。
しかし、徳川幕府直轄領以外は大名家が結果として藩知事という立場で治めることとなり、結局は徳川時代と何も変わらない体制が続くことになります。
旧幕府領は府や県が設置され、政府から知事が派遣されて統治を行っていたため、統治体制が府と県と藩に3分割されてとても非効率な体制となりました。これを「府藩県三治制」と言い、この非効率な体制を打破するために行われた改革が廃藩置県だったのです。
廃藩置県とは?
廃藩置県とは、簡単に言うと、今までのような「藩」という単位で各地の大名が地方を統治してきた体制を辞め、中央政府のもと、「藩」を「県、府」に統一して管理するという政策です。
財政難で廃藩置県が必須だった?
戊辰戦争を戦った新政府を支える各藩は多額の借金を抱えていて、またお金のない新政府も統一した軍制を敷くことが出来ず、各藩から集めた兵士で構成された軍隊は全く統率がとれない状況でした。財政圧迫に苦しむ諸藩は政府に対して廃藩を願い出る状況にまで追い込まれ、日本全体がこの財政難を乗り切る必要性に迫られていたのです。
明治3年に大隈重信が事態打開のために「全国一致之政体」を求める案を提出し認められ、これを実行に移そうとします。
これは明治政府には「軍事」「教育」「司法」「財政」の4項目の確立が必要とし、非効率な「府藩県三治制」をやめて、「三治一致」の体制を作ることを目的としたもので、財政が揺らぐ各藩、新政府には絶対に必要な改革でした。
廃藩置県のモデルは紀州藩の藩制改革?
実は廃藩置県のモデルとなった政策があります。それは、紀州藩が明治元年から行った藩制改革で、津田 出(つだいずる)という人物が政策の全権を担っていました。
廃藩置県のモデルとなったその改革とは、藩主や藩士の給料を90%カットして支出を減らし、また藩主の生活も藩政から完全に切り離して公私の区別を明確化するというものでした。津田から相談を受けた元海援隊隊士で後の外務大臣陸奥宗光(むつむねみつ)もこの改革に参加しています。
- 士農工商の誰でもが兵隊になれる四民皆兵制
- 満20歳以上の徴兵検査の実施
- プロシア式軍制の導入
- 藩主の下に執政と参政公議人という役職を置いて命令系統を一本化
行政は政治府と5局(公用,軍務,会計,刑法,民政)で全て行い、教育に関しては学習館(後の和歌山大学)を設置して藩内の子息の教育を行うように改めました。
これら新しく設置された藩の行政機関に勤めると給料以外に役料が支給され、新たな給与体系が生まれました。藩士は兼業,副業が認められ、城下外への移住も自由として長く続いた封建制度は完全に破壊することになります。
この制度は後に薩摩の西郷従道(西郷隆盛の弟),村田新八,長州の山田顕義が視察し、廃藩置県,徴兵令のモデルとして影響を与えました。
廃藩置県への期待とその実行
明治新政府内での廃藩置県の必要性は日増しに高まりますが、日本の近代化や中央集権化に反対する幕藩体制の特権階級に属する勢力の力からも依然大きく、特に島津久光のいる薩摩藩の動向が大きな影響を与えていました。
廃藩置県の実行を強く要望していた山県有朋は同郷の井上馨を味方に引き入れ、木戸孝允や西郷隆盛を説得しようと試みます。特に薩摩出身の西郷隆盛には熱心に説得を試み、戊辰戦争後の兵隊の給与負担に頭を悩ませていた西郷隆盛と利害の一致に成功。廃藩置県を実行に移す盟約が西郷,木戸,山県ら薩長要人の間で結ばれました。
この盟約の中には大きな抵抗があった場合には薩長土の軍隊をもってこれに当たるとの内容も盛り込まれていました。
明治4年7月、政府は皇居に在京の知藩事を集めて廃藩置県の命令を出します。
今までの制度をひっくり返すことになる廃藩置県の実行はかなりの混乱を引き起こすことが考えられましたが、特に何か大きな暴動が起こることもなく、予想以上にすんなりといきました。
日本は、これによって一気に中央集権国家への体制を整えることになりました。
廃藩置県による影響
多くの難問を解決するために行われた明治新政府の廃藩置県ですが、実行することによって別の難問も抱えることとなります。
最大の問題は藩を廃止したことで各藩の借金の全てを新政府が肩代わりすることとなり、莫大な負債を抱えることになったことです。
各藩の借金は大まかには、以下の2つに分類されます。
- 大阪商人からの借金
- 各藩内で流通していた藩札
明治新政府はこれを3つの条件に分けて返済する、いわゆる「徳政令」とよばれる政策によって、この財政難を乗り切ろうとしました。
- 明治以降の借金は元金3年据置で利息年4%、25年返済とする。
- 弘化年間(1844~47年)以後の借金は無利息で50年返済とする。
- 天保年間(1830~43年)以前の借金は無効とする。
幕府の借金も外国からの借り入れ以外は無効などとし、結果、借金の半額以上が無効とされて各藩に多くの貸付を行っていた大阪の商人たちは破産に追い込まれるなど、大阪は天下の台所と言われた地位から転げ落ちる要因となりました。
今も昔も国家の安泰をはかるのにはお金をいかに集めていかに使うかが最大の焦点のようです。
廃藩置県を行い、完璧な基盤を築いた明治新政府は富国強兵、殖産興業への道を進んでいくことになりました。
県名の由来
廃藩置県が行われた当初は3府302県もの自治体が存在し、飛び地や地域のまとまりも薄かったのですが、明治4年10月に3府72県、明治5年69県、明治6年60県、明治8年59県、明治9年35県と合併を進めて、明治14年の堺県の大阪府への合併をもって完了しました。
この合併を繰り返す中で現在の都道府県名へと名前を変えていくのですが、その中の幾つかを紹介しておきます。
織田信長が稲葉山に居城を移したときに「岐阜」と改めたことに由来する岐阜県などはよく知られていますが、他の県名の由来としてはどのようなのがあるのでしょうか?
「香川県」の由来
元々年間降水量が少なく、昔から水不足に悩まされていた讃岐地方は多くの用水やため池が作られています。
この水不足によくなることから「枯川(かれかわ)」と呼ばれていたのが、香川に転じたと言われています。
「三重県」の由来
「古事記」に登場する日本武尊(やまとたける)が東征に出た際にこの地を訪れ「ここは動くのに足が三重に曲がるほど疲れる」と言ったのが由来で「三重」という地名がついたと言われています。
「鳥取県」の由来
この地には水鳥が多く集まることが古くから有名で、鳥を捕獲することを仕事とする朝廷の鳥取部(とっとりべ)という役職の人が多く住んでいました。
この鳥取部の住居のまわりを鳥取造(とっとりのみやこ)と呼んでいたことからこの地を「鳥取」と呼ぶようになったそうです。
さいごに
ここまで、明治の重要な政策であった廃藩置県について、わかりやすく説明してきました。
もし良ければ、一度自分が住んでいる都道府県や市町村の名前の由来を調べてみるのも面白いかもしれませんね。
きっと新しい発見があると思います。