俳優の長谷川博己(はせがわひろき)さん主演、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で大河史上初めて明智光秀(あけちみつひで)が主役で制作されることが決定しました。
明智光秀と聞くと、主君である織田信長(おだのぶなが)を裏切って本能寺の変を起こし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に追い詰められ「三日天下」と後世まで揶揄される裏切り者のイメージがつきまといますが、実際は智将と言われるだけあり武将としても忠実で、領主としても有能な人物だったと言われています。
ではなぜ織田信長に謀反をおこしたのでしょうか。また、忠実な明智光秀を唆した黒幕などは存在したのでしょうか。
今回は本能寺の変にスポットを当て、歴史的事件が起きた場所や、本能寺の変の真実、明智光秀がどうなったのかなど詳しく説明していきたいと思います。
本能寺の変とは
天正10年(1582)6月2日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)による中国毛利攻めの大詰めとして織田信長自ら出陣するために京都・本能寺に宿泊中、丹波亀山城にいた明智光秀が引き返し織田信長と長男・信忠(のぶただ)を急襲し自害に追い込んで滅ぼした歴史的事件です。
背景
本能寺の変の背景を説明すると、明智光秀がどうして織田信長に対して下剋上を起こしたのでしょうか。かなり有力な説も浮上していますが今だ定説が確定しておらず、さまざまな研究が行われ仮説が乱立している状態です。
当時の織田信長は西国・毛利氏を討ち果たせば日本中を支配下にする勢いであり、家督継承、官位、全てにおいて満足いくものであり人生の絶頂期に達し、誰も織田信長を諫めたり、咎めたりする立場の人間が存在しませんでした。
日本に来ていた宣教師・ルイス・フロイスは織田信長について、その富、権力、身分の強大さにより、大いなる慢心と狂気の沙汰に陥ったといい、本能寺の変について、瞬時にして信長は地獄に落とされ、悪魔に対する奉仕の報いを受けるに至ったと述べているいるくらいです。
織田信長は相当慢心が過ぎ、家臣掌握に綻びが出ていた事が本能寺の変の背景だと言えるでしょう。
このような織田信長の状況を踏まえて、本能寺の変を起こすことになった明智光秀の乱立する諸説背景から主要な説と最も有力とされる説を紹介していきます。
不安怨恨説
- 甲斐の武田を攻略し平定した後、上諏訪で光秀が「骨折った甲斐があった」と発言したことに織田信長が激怒して、明智光秀の頭を欄干に押し付け激しく折檻した。(祖父物語)
- 安土城における徳川家康(とくがわいえやす)饗応膳の料理に対し、接待役であった明智光秀の不手際として織田信長は激しく叱責し接待役を罷免、現在の領地も召上げ羽柴秀吉の援軍先発の司令官に任命した。(川角太閤記)
- 明智光秀は、丹波八上城の波多野秀治(はたのひでたか)・秀尚(ひでなお)・秀香兄弟を囲い攻め、自身の母親を人質に出すことで降伏させたにも関わらず、織田信長は兄弟を磔にして処刑しました。激怒した八上城側が、明智光秀の母親を磔にして処刑してしまったのです。(総見記)
上記3つの怨恨説は、かなり有力とされて広く信じられている内容のように思われますが、3つとも江戸時代に書かれた物語の創作で、決めてとなるような一級資料は存在しません。
野望説
明智光秀は織田信長の重臣として着々と地位を固めていました。婚姻や同盟で多数の有力武将との縁も強固に築いていたのです。
裏を返せば、何か事を起こしたら味方になってくれる布陣があり、他の織田家武将は明智光秀よりも遠い地で何かあってもすぐに戻れない距離であることから、年齢的にも天下を取れる最後のチャンスと捉え本能寺へ進軍したとされます。
しかし実際には、本能寺の変の後、各武将、各方面に手紙を多数送るも明智光秀の思うようにはならなかったのです。
四国説
当時の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)から織田信長への「信長に恭順」の手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が発表し2014年6月23日付け各社新聞で報じられました。
四国討伐に至る前、四国の長宗我部元親と織田氏は同盟関係にあり、明智光秀は長宗我部氏側と親交が深く織田氏と長宗我部氏の取次役を担っていました。
しかし石山戦争がひとまず終結したことが転機となり、本願寺の背後を衝く位置にいた四国の長宗我部氏の存在価値が薄れ、織田信長は四国の政策転換を断行します。
長宗我部元親は徹底抗戦したと言われていましたが、新聞報道で発表された手紙のように織田信長に恭順する意向が示されていたことにより、今までの親交がある明智光秀が外交交渉の仲介を行っていたことが伺えます。
しかし、織田信長は板挟みになる明智光秀の事を考えることなどなく、四国攻めを決定しました。
斎藤利三も絡んでいる?
それから四国説には、もう一つの鍵となる明智家家老・斎藤利三(さいとうとしみつ)も絡んでいます。
斎藤利三は元々稲葉一鉄(いなばいってつ)に仕えていましたが稲葉一鉄と仲違いをし、親戚筋である明智光秀を頼り召し抱えられ明智家筆頭家老にまで重用されました。
その上に、斎藤利三は四国・長宗我部元親と縁戚関係にあり、明智光秀と同じく長宗我部氏と親交があったのです。
また、同じく稲葉一徹に仕えていた那波直治を斎藤利三が仲介する形で明智家の家臣に迎えた所、稲葉一徹が織田信長に家臣を明智家から返して欲しいと訴えました。
この訴えに織田信長は那波直治も斎藤利三も稲葉家へ返すように明智光秀に命じます。しかし、明智光秀が拒否したことで激高した織田信長は明智光秀を激しく折檻したのです。
その上、織田信長は斎藤利三に切腹を命じました。
その決定を下したのが本能寺の変の3日前とも4日前とも言われ、決して本能寺の変とまったく関係が無いとは言い切れず、四国討伐と斎藤利三、明智光秀自身の受けた折檻など複合して明智光秀の我慢の臨界点を越えたとされる四国説は、現在かなり有力な説として浮上しています。
本能寺の場所
織田信長の最後となった本能寺址
「本能寺の変」が実際に起こった当時の本能寺は、本能寺の変後に豊臣秀吉が再建した現在地の寺町御池ではなく、中京区小川通蛸薬師元本能寺町(蛸薬師通小川通西南角)で、旧本能寺跡にはかつて本能寺小学校がありましたが、現在は特別養護老人ホーム、京都市立堀川高等学校、および本能寺会館などが2006(平成18)年に建てられ石碑が存在します。
御池通両替にある二条殿址(にじょうどのあと)です。
織田信長嫡男・信忠の最後となった二条新御所址
二条殿は、南北朝時代太政大臣を務め和歌連歌で著名な二条良基(にじょうよしもと)の邸宅でした。邸内には龍躍池があり、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだといいます。
本能寺の変の際には信長の長男信忠がこの場所で最後を迎え二条新御所は焼失しました。
京都市中京区両替町通御池上る東側(旧龍池小学校前)・現在は、廃校になった龍池小学校があります。
当時の状況
本能寺の変から遡ること数日前、中国攻めに向かうはずの明智光秀は一旦坂本城に戻ってから亀山城に入り愛宕山に詣りくじを引いて命運を占います。
本能寺の変前日には1万3000の兵を揃えさせ、亀山城を発し、篠村八幡宮で重臣達に謀反を表明しました。
こうして本能寺の変当日の未明、明智軍は、戦闘準備を取り目的地である本能寺を包囲したのです。
この時、「敵は本能寺である」と宣言したと言われていますが俗説とされています。
織田信長は明智光秀の謀反と知ると、自身も弓、槍を用いて奮闘しますが、負傷して奥へ下がります。
明智軍1万以上に対して織田信長は100名足らずの供回り、かなうはずもなく織田信長は本能寺に火を放ち自刃しました。
もちろん、森蘭丸(もりらんまる)をはじめとする供回りもことごとく討死、もしくは殉職し、本能寺が焼け落ちた後、妙覚寺・二条御新造も襲撃され、こちらも500名足らずでは太刀打ちできず、織田信長の長男・信忠も奮闘しますが自刃、織田信長の弟・織田長益(おだながます)は逃亡します。
戦後、明智軍がいくら探しても織田信長・信忠親子の亡骸は見つからず未だに諸説あり語り継がれるなぞとなっています。
黒幕や真実は?
本能寺の変は背景も原因も推測の域を出ず、戦国最大のミステリーと言われているくらいで諸説が数多くあり、黒幕説も多数存在するのですが、その多数存在する黒幕説の中から主要な物を紹介しいたいと思います。
朝廷説
この頃の織田信長は自身を神と公言するなど、天皇や朝廷など意に介さずという具合でした。天皇の譲位問題や暦の関与など朝廷の脅威になっていたため、明智光秀に密かに討伐させたという説があります。
徳川家康説
結果的に漁夫の利を得たということと、明智光秀は死んだのではなく僧侶になって生き永らえたという作家・小林久三が提唱した南光坊天海=光秀説からくる、フィクションが元説となっています。
豊臣秀吉説
この場合も徳川家康と同じく、結果的に漁夫の利を得たことと、地位を脅かす明智光秀を陥れようとした、あまりにも早い中国大返しなどいくつかの疑う余地があり推理として面白いので歴史的裏付けなどまったく無く語られている説です。
毛利輝元説(もうりてるもと)
本能寺の変の後、あまりにも早い羽柴秀吉との和議・停戦と毛利輝元の朝廷などの影響力など複合的に考えて、本能寺の変を起こして羽柴秀吉を退け織田の侵攻を止めるためという説で、なんら根拠も証拠もありません。
なるほどと思わされるような主力の黒幕説を紹介してみましたが、他にも、濃姫説、堺商人説、森蘭丸説、ルイス・フロイス説など揚げればキリがないほどの説が存在します。
それほど、この本能寺の変は歴史的に衝撃的で人を魅了する大事件だったのです。
本能寺の変、その後
本能寺の変の後、明智光秀は近江を平定、安土へ城入城します。城内から金銀財宝を家臣に分け与え、そこから皇族にも金を出し朝廷より京の治安維持を任され信任を得ました。
また、各地の武将に協力の手紙を送りますが、縁戚関係の細川家をはじめ、同盟を結ぶ大名家からも協力が得られない状況の中、中国から急遽大返しで戻ってきた羽柴秀吉を十分な準備が整わない中、山崎にて迎え撃ち敗戦します。(山崎の戦い)
明智光秀は坂本城を目指して逃れますが、敗走中小栗栖で落ち武者狩りの農民に殺されてしまうのです。
その後も戦乱の世は留まる事はなく、後世の誰もが知る豊臣秀吉による天下へと時代は流れていくこととなります。