堀田正睦とは?堀田正俊や井伊直弼との関係、読み方についても解説!

堀田正睦(ほったまさよし)の生涯は、アメリカとの間に、日米修好通商条約を締結するために奔走した人生であったと言っても過言ではありません。

大名、老中首座という肩書をもちながら、開国、尊王攘夷の間で揺れる幕末期において、徹底した開国論を唱える大名は、この堀田正睦の他には類を見なかったのではないでしょうか。

一体どのような生涯を送ったのか、同じ名字を持つ堀田正俊や、大老・井伊直弼との関係性なども踏まえ、解説していきたいと思います。

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堀田正睦の生い立ち

幕末、開国派として有名だった堀田正睦は、下総佐倉藩第5代藩主になります。文化7年8月、佐倉藩第3代藩主である堀田正時の次男として誕生した堀田正睦は、初名を正篤と名付けられます。

が、安保3年には、篤姫が第13代将軍徳川家定に嫁ぐ際、同じ篤の字を用いることが憚られることから、堀田正睦と名を変えます。読み方は、名前の読み方はまさよしになります。

 

順天堂大学の起源となった塾を開設

藩主となった正睦は、まず、藩の財政を見直し、徹底した倹約を打ち出します。その堀田に逆らい、異を唱える者はその場で厳しく処断し、反対に学問を究めたいとの希望のある者に対しては、彼が手掛けた佐倉成徳書院において、文武実践すべく、演武場を設けました。

また、医学の大切さを痛感していた正睦は、医学の中でも、特に西洋医学の発展に力を注ぎます。佐倉順天堂と名付けた塾を開き、そこに、江戸から招いた蘭方医の佐藤泰然を招き入れ、塾生の教育と患者の治療を行うよう、依頼します。

ちなみに、現在の順天堂大学は、佐藤泰然が江戸に戻り、薬研堀にて開いた蘭方医学塾が起源とされています。

 

天保の改革から離脱し、難を回避

第11代将軍の徳川家斉が没した後、本丸老中の職を任命され、その時の老中首座であった水野忠邦が進める天保の改革に協力します。しかし、先を詠むことに長けていた正睦は水野忠邦が行う天保の改革の危うさを感知し、いち早く辞表を提出し、難を逃れます。

この時代、安政の改革を行った阿部正弘が実権を握っており、その阿部正弘が亡くなった後は、政治の実権を握るために安政の大獄に精を出す井伊直弼がおります。

堀田正睦は日本の鎖国を終わらせる開国論を理想としていましたが、一筋縄ではいかない個性的な人々の間に挟まれ、彼が理想とする開国案は容易には実を結びませんでした。

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将軍嫡子問題で罷免される

安保5年、急遽、第13代将軍・徳川家定の体調が悪くなり、跡継ぎ問題が勃発します。正睦は、外交問題の面から徳川斉昭とは反りが合わず、当初は徳川慶福を推していましたが、日米修好通商条約の件を朝廷に働きかけるには一橋慶喜の力が必要だと考え、一橋慶喜派へと寝返ります。

しかし、慶福派の井伊直弼が行った安政の大獄において、老中職を罷免された際、家督を四男の正倫に譲り、隠居することになりました。

その4年半後の元治元年3月21日、佐倉城松山御殿にて、55歳という短い人生を閉じています。

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堀田正睦と堀田正俊の関係

堀田正俊と堀田正睦。同じ苗字に、同じく正の字が付く名前となっていますが、何かの関係性があるのでしょうか。

実はこの二人、直系の先祖・子孫の関係です。堀田正俊が生まれた年は、1634年。活躍した年代は、江戸時代初期から中期にかけてになります。

小早川秀秋に仕えていた堀田正利の息子堀田正盛は、第3代将軍徳川家光の時代に老中として佐倉藩の藩主となりますが、家光が亡くなった際に殉死しています。堀田正俊は、その正盛の次男になります。

ちなみに、正俊の後は、正俊の五男の堀田正武、正武の次男の堀田正亮、正亮の十一男の堀田正時、正時の次男の堀田正睦と続きます。

 

堀田正睦と井伊直弼との関係

大老・井伊直弼と聞く機会の多い名前ですが、井伊直弼が何を行った人か、ご存知でしょうか。桜田門外の変で殺害された大老と言うことは、映画、テレビドラマ等でよく再現されますので、ご存知の方も多いと思います。

井伊直弼が行ったことは多々ありますが、その中でも有名なことは、日米修好通商条約の締結になります。この日米通商条約は、堀田正睦が準備し、進めていた案件になり、井伊直弼自身が考え、行ったわけではありません。

基本的に敵対していた二人でしたが、この日米修好通商条約についてはなぜ堀田正睦の意向が反映されたのでしょうか。

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井伊直弼の許可なしに開国へ

日米修好通商条約の調印を急ぐハリスが、突然に神奈川沖に停泊し、即時調印を要求します。慌てた幕府は、会議を重ねますが、孝明天皇の許可を得るのが先だと宣言したのは、井伊直弼と若年寄本多忠徳のみ。

できるだけ返答を延ばしたかった井伊直弼でしたが、実際に交渉に当たった老中の松平忠固や下田奉行の井上清直らは開国派。承諾をやむなしと考え、井伊直弼の許可がないまま調印を行ってしまいます。

堀田正睦が、夢にまで見た開国が成就した瞬間です。

本人の意向には反していましたが、結果的に井伊直弼は、堀田正睦の夢を叶えてくれた恩人と言えるのではないでしょうか。

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井伊直弼は大老、堀田正睦は老中首座

最後に、間違われやすいのですが、井伊直弼と堀田正睦はどちらも幕府の中枢で業務を行いましたが、井伊直弼は大老職であり、堀田正睦は大老職には就いていません。正睦は、老中首座になります。

ちなみに、老中とは、江戸の治安を維持する大目付、奉行、朝廷、公家、寺社等の管理、江戸市政の治安を守ることが仕事になり、ひと月ごとに変わります。老中首座とは、その代表的な人物であり、老中の職務をスムーズに動かす権限をもちます。

大老とは、徳川幕府の名誉職であるため、酒井、井伊、堀田、土井の4家の者でなければ、就けない職になります。堀田正睦もその権利をもちますが、文政8年家督を相続した時から、安政5年、老中職を罷免される時まで、大老職には就けておりません。

二人は敵対関係にあったとされていますが、年若い頃から、5歳下の井伊直弼を堀田正睦が助け、親友として、また、兄として仲良くしていた時期もあったとされています。

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