池田屋事件とは?坂本龍馬との関係や場所などわかりやすく解説!

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つかこうへい原作の映画「蒲田行進曲」の世紀の階段落ちが有名になり、幕末史に興味があまりない人にも「池田屋事件」の名前だけは知られています。

池田屋事件は京都の池田屋という場所で起こった大事件ですが、幕末の京の事件は各藩贔屓の宿で起こっていることが多く、よほど幕末史に興味がない限りいくつもの宿の名前がつく事件があり混同されて覚えられているのです。

坂本龍馬の暗殺された近江屋事件と違い、池田屋事件は新撰組と長州藩・土佐藩などがメインとなった事件です。

今回はその池田屋事件を、坂本龍馬との関係や場所を含めてわかりやすく解説していきたいと思います。

池田屋事件が起こった背景

池田屋事件が起こった理由と時代背景

当時は八月十八日の政変で、長州藩が京から一掃され尊王攘夷派に大きな打撃を与えていました。

そして公武合体派が台頭して危機的な状況に陥った長州攘夷派と、尊王攘夷派の志士達が朝廷と幕府を引き離そうと合作し地下潜伏しながら密会を重ねます。

この動きを幕府は放置するはずはなく、京都守護職の保護下にある新撰組を使い、長州勢力とその他の追随する尊王攘夷勢力の勢力挽回を阻止する為に、徹底した警備と捜査をしたことがきっかけです。

 

池田屋事件が起こった経緯

幕府の一部組織となっていた新撰組は、徹底した警備の中で不審な人物として捕縛した熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)下僕から重要人物の情報を得て、長州間者の大元締をしていた薪炭商・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎(ますやきえもん・ふるたかしゅんたろう)を捕縛するのです。

新撰組は、この古高俊太郎を尋問し、激しい拷問の末に、長州攘夷派と追随する攘夷派士達が中川宮邸放火・佐幕派大名の殺害などの計画を企てていることを知ります。

すでに、多数の計画実行の長州藩・土佐藩・肥後藩等の志士達が上洛潜伏しているという自供の元、新撰組は直ちに探索を開始しました。

そんな中、池田屋で長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派の会合が行われるとの、情報を得た新選組が突入し襲撃したのです。

 

池田屋事件の日付と場所

1864年(元治元年)6月5日・長州藩の定宿だった京都三条木屋町の旅館・池田屋で事件は起こりました。

 

池田屋事件当日の状況

新撰組は、近藤隊・土方隊・井上隊に分かれて事前に周辺や間取りを徹底的に調査し、事件当日を迎えます。

池田屋には尊王攘夷派の志士が20名以上いましたが、新撰組は近藤隊が突入することになり、近藤勇(こんどういさみ)・沖田総司(おきたそうじ)・永倉新八(ながくらしんぱち)・藤堂平助(とうどうへいすけ)の4名のみで屋内に突入、残りの隊士は外を固めていました。

 

戦闘開始

「蒲田行進曲」の壮大な階段と大袈裟な階段落ちはありませんが、最初に見張り役として階段を下りてきた土佐藩士・北添佶摩(きたぞえきつま)が切られたのを皮切りに真夜中の大戦闘となります。

この戦闘の凄まじさは、奮闘するも昏倒して途中離脱した沖田総司の刀の先が折れ、後日修理不能で鍛冶職人から突き返される程の激しい戦闘だったようです。

一時は新撰組の近藤勇と永倉新八の2名になり窮地に陥りますが、駆け付けた土方隊などののおかげで巻き返し、9名打ち取り4名捕縛の成果を挙げます。

残りの逃げた志士達も翌朝、市中掃討で応援に駆け付けた会津藩・桑名藩らに20余名が捕縛されました。この市中掃討も激戦となり各藩数名ずつの死者を出します。

闇討ちに合う事を懸念して朝を待ち、新選組は後日正午に駐屯地へ帰りました。その沿道は野次馬でごった返していたほど相当大掛かりな捕り物だったのです。

 

池田屋事件その後の影響

この池田屋事件は新撰組にとっても、逸材を戦死させた尊王攘夷派にとっても後々に影響を及ぼす事になります。

幕府の一部警護組織だった新撰組は、一躍「時の人」となり京に名を轟かせ日本中に「新撰組」という名前が知れ渡る事となりました。

長州藩は、この事件をきっかけに上下問わず激高し挙兵、禁門の変を引き起すのです。

後の世では、この池田屋事件のせいで多数の逸材が命を落とし、明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激して維新を1年早めたとも言われています。

池田屋事件と坂本龍馬

池田屋事件の時に坂本龍馬はどこで何をしていたのか

池田屋事件が京で起こった時、坂本龍馬は神戸海軍操練所が正式に開設され海軍塾塾頭に任ぜられ、勝海舟の弟子として奔走していました。

 

池田屋事件と近江屋事件が良く混同されるのはなぜ?

池田屋事件は当時の人々には衝撃的な事件ですが、現代人にしてみれば歴史の一片に過ぎません。ただし、新選組、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、徳川慶喜などの幕末のキワードは耳に残り記憶しているものです。

なんとなく歴史の授業で聞いただけで意識しないと、当時の京都の町の事件は起こった場所や宿の名前が付いている場合が殆どで、実際、薩摩藩を中心に起こった寺田屋事件・騒動と、坂本龍馬が襲われた寺田屋遭難もよく勘違いされています。

あまりにも宿の名前の事件が短期間に続いているので、多くの人がキーワードの人物と事件の場所が頭の中で繋がらず、新選組の池田屋事件と坂本龍馬暗殺の場所となった近江屋事件が混同されているのです。 

以下、それぞれ間違われやすい事件について記載しておきます。

 

寺田屋事件(騒動)

1862年(文久2年)4月23日、寺田屋にいた薩摩の過激派尊王志士たちを島津久光の命で同じ薩摩藩士が粛清した事件です。

 

寺田屋遭難

1866年(慶応2年)1月23日、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃した事件です。

 

近江屋事件

1867年(慶応3年)11月15日、近江屋の2階に停泊していた坂本龍馬が暗殺された事件です。