乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)をご存じですか?
この質問をされて簡単に答えられる人は学校の社会科、日本史を教えている先生や大学で日本史関係の勉強をしている一部の人だけないかと思うほど知名度の低い日本史の出来事です。
ですがこの乙巳の変は日本史上、避けて通ることのできない歴史の転換点となった事件だったのです。
皆さんがご存じの大化の改新へと繋がる645年に起こった大事件、乙巳の変とはどのような事件だったのか、読み方や年号、場所やエピソードなども踏まえて、聖徳太子の亡き後まで遡ってみましょう。
乙巳の変の読み方や年号
乙巳の変の読み方は「いっしのへん」または「おっしのへん」と言い、乙巳の変が起こった645年は、最近までは学校の歴史の授業で大化の改新の年号とされていました。
ところが最近の歴史の解釈では、大化の改新は改新の詔が出された646年とされ、今まで大化の改新に含まれていた蘇我入鹿暗殺事件が乙巳の変として独立したために、このように変更されました。
乙巳の変が起こった背景
では、この乙巳の変はなぜ起きたのでしょうか?
乙巳の変の伏線は推古天皇時代の622年4月8日、朝廷政治の中心人物だった厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)が死去したところから始まります。
厩戸皇子は大豪族であった蘇我馬子の協力を得て冠位十二階や十七条憲法などを定めて政治を行っていたため、厩戸皇子亡きあと、朝廷政治は蘇我氏中心に動かされていきました。
蘇我蝦夷の台頭
蘇我馬子が死ぬと、その子である蘇我蝦夷が大臣となり、政治を取り仕切るようになります。
蝦夷が政権を握ったあと推古天皇が後継指名をせずに崩御、次期天皇には田村皇子(後の舒明天皇・じょめいてんのう)と山背大兄王(やましろのおおえのおう・聖徳太子の子)が有力候補でした。
蘇我蝦夷は蘇我氏の血が濃い有能な山背大兄王よりも、蝦夷の意向に従う田村皇子を天皇に就けようと、山背大兄王を推している同じ蘇我一族の境部臣摩理勢(さかいべのまりせ・馬子の弟とされる)を攻め滅ぼし、山背大兄王を孤立させ、田村皇子を即位させることによって舒明天皇を誕生させます。
蘇我一族が権力を握る
天皇に意中の舒明天皇を就けたことで蘇我蝦夷を代表とする蘇我一族の専横は募り、他の豪族たちは朝廷に出仕せずに蘇我蝦夷のご機嫌をとるために蝦夷詣でを始めます。
これに機嫌を良くした蝦夷は舒明天皇の崩御後に即位した皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代には、蘇我氏の墓の造営に天下の民を動員したり、公務である大臣の座を息子の入鹿に世襲させるなど、最早誰にも止めることの出来ない独裁者として君臨します。
蘇我入鹿が大臣に
蘇我蝦夷のあと大臣となった入鹿の野望は、皇極天皇の次の天皇に蘇我一族の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を就けることでした。
しかし今回も次期天皇の最有力候補である山背大兄王が邪魔になります。
そのため今回は山背大兄王自身を亡きものにしようと軍勢を斑鳩宮に差し向け、山背大兄王やその王子など上宮王家(聖徳太子の血を引く皇家)一族を自害に追い込みます。
ここまでくると一部の有力豪族の中にも反蘇我氏の機運が生まれます。
中臣鎌足と中大兄皇子による蘇我入鹿の暗殺計画
その最右翼に位置したのが皇族の祭、行事を司る神祇(じんぎ)を仕事とする中臣氏の一人、中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。
中臣鎌足は皇族の中にも味方を求め、これに応じたのが皇極天皇の次男となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、二人は蘇我一族の長老である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)も味方に引き入れ、蘇我入鹿包囲網を形成しました。
乙巳の変の勃発
645年7月10日、朝鮮からの使節への接見のため、天皇以下有力豪族が挙って大極殿へ出仕し、当然大臣である蘇我入鹿も出仕しており、このチャンスを中臣鎌足と中大兄皇子は逃すことなく蘇我入鹿を討ち取りました。
蘇我氏の反撃に備えた中大兄皇子は法興寺で軍備を整えると多くの豪族が味方に加わり、蘇我氏に付こうとした豪族も説得に応じて蘇我蝦夷は孤立しました。
翌日蘇我入鹿を謀殺され、有力豪族が離反して勝ち目がないことを悟った蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害、蘇我氏の後ろ楯を失った古人大兄皇子も出家して吉野へ逃れますが、後に謀反の疑いをかけられ中大兄皇子に攻め殺されます。
こうして蘇我宗家と古人大兄皇子という政敵を一気に葬り去った中大兄皇子と中臣鎌足は政権を奪取して理想とする中央集権国家への政治改革を断行していきます。
乙巳の変が起こった場所
現在の奈良県明日香村。ここが乙巳の変が起こった場所だとされています。
この明日香村にある飛鳥寺の境内を抜けたところに、「蘇我入鹿首塚」という五輪塔が立っており、蘇我入鹿の首がその五輪塔まで飛んできたことに由来しているそうです。
大化の改新
乙巳の変の翌年に孝徳天皇が出した改新の詔をもって始まった政治改革を大化の改新といい、当然その中心となったのは皇太子となった中大兄皇子と内臣となった中臣鎌足でした。
大化の改新では、公地公民制や律令制など、当時としては先進的な制度が作られました。
乙巳の変に関するエピソード
蘇我入鹿を大極殿で暗殺するために中大兄皇子は長槍を持って、中臣鎌足は弓矢を持って蘇我入鹿から見えないところに隠れ、味方に加わった佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)には海犬養勝麻呂(あまのいぬかいのかつまろ)が持ち込んだ剣がそれぞれ渡されました。
当初の予定では佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が最初に蘇我入鹿に斬り付ける段取りでしたが、二人はあまりの恐怖と緊張で全身が硬直し、汗も尋常でないほどにかいていたそうです。
式典が終わりに近づいても蘇我入鹿に二人が斬りかからないため、このままでは失敗すると思った中大兄皇子は自ら蘇我入鹿の前に飛び出し、槍で蘇我入鹿を突くと佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人も意を決して斬りかかり、頭と肩に傷を負わせ蘇我入鹿は昏倒しました。
蘇我入鹿が立ち上がって皇極天皇に助けを求めましたが、皇極天皇は奥に退き残った蘇我入鹿は佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人にとどめをさされました。
栄耀栄華を極めた蘇我氏もわずか四人の刺客に襲われた蘇我入鹿が死ぬと一気に瓦解してしまい、見る影もなく歴史の表舞台から消え去りました。
乙巳の変・まとめ
645年に起こった乙巳の変は簡単に言えば蘇我入鹿暗殺事件です。
日本史上では数少ないテロによる政変で、権力者をピンポイントで抹殺しその巨大な組織を崩壊させるという見事な戦術でした。
これまでは蘇我入鹿の専横を許せなかった若き二人の英雄が政治を正したという解釈でしたが、実際は大化の改新の政治改革自体が行われた形跡が怪しくなっており、政変ではなくて権力闘争であったという解釈がなされています。
いずれは色々な研究の成果によりその真意が判明する時代がやってくるのでしょうが、それまでは二人の英雄が奸賊を討ち取った勧善懲悪の事件、という今までの解釈で乙巳の変はまとめておきたいと思います。