鎌倉幕府成立からわずか3代で源頼朝(みなもとのよりとも)の血筋が絶えると、その2年後の1221年、執権・北条義時(ほえじょうよしとき)に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が追討令を出し、朝廷に政治権力を復活させようと幕府転覆をはかったのが承久の乱です。
武家政治がまだまだ未完成な時期ではあったにせよ、どのような経緯で後鳥羽上皇は幕府転覆を狙ったのでしょうか?
その真実はどこにあったのか、時代背景などを踏まえながら探っていきたいと思います。
承久の乱の時代背景
「人に不意(1221)打ち、承久の乱」の語呂合わせで、年号を記憶した人も多いと思いますが、承久の乱が起こった当時の政治的な状況はどうだったのでしょうか?
源頼朝が治承・寿永の乱で平氏政権を打倒して板東武者による統治を開始したのが1185年頃です。
この頃の日本の勢力図は東日本は源氏が、西日本は天皇を中心とする朝廷が統治の主導権を握っていました。
1185年の文治の勅許によって朝廷から守護、地頭の任免権を得ていた頼朝でしたが、これはあくまでも諸国の軍事、警察権を握っただけで、支配権を掌握していたわけではありません。
このため西日本では相変わらず旧勢力である権門勢家が威勢を振るっていました。
このように鎌倉幕府が成立してからしばらくは、日本は幕府と朝廷のニ大勢力による分割統治の状態でした。
鎌倉幕府と朝廷の対立
1199年に創業者である頼朝が死去すると、あとを継いだ2代頼家(よりいえ)が1204年に北条氏によって暗殺され、3代実朝(さねとも)も1219年に頼家の実子である公暁(くぎょう)に暗殺され、わずか20年の間に3代の将軍が不慮の死を遂げ、その権威が揺らぎはじめました。
政治的な空白を避けるために、頼朝の正室・北条政子(ほうじょうまさこ)は執権であった弟の北条義時(ほうじょうよしとき)の協力を得て政権運営を行い、朝廷に対して後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(まさなりしんのう・六条宮)を宮将軍として鎌倉に迎えたいと申し出ます。
この申し出に対して後鳥羽上皇は、愛妾・亀菊(かめぎく)の所領の地頭職の撤廃と腹心・仁科盛遠(にしなもりとお)の処分撤回を要求しました。
仁科盛遠は信濃の御家人でありながら、後鳥羽上皇が新設した西面武士として召し抱えられたため、これに怒った信濃守護職・北条義時によって所領が幕府に没収されていました。
後鳥羽上皇の要求を聞いた北条義時は地頭職撤廃や守護職の裁定への朝廷による介入は、鎌倉幕府の政策の根幹を揺るがす事としてこれを拒否します。
そして弟の北条時房(ほうじょうときふさ)に軍勢を率いさせて、朝廷に圧力をかけて交渉しますが、後鳥羽上皇は強硬で交渉は決裂してしまいます。
この結果、鎌倉幕府は宮将軍をあきらめて、摂関家から摂家将軍を迎えることになるのでした。
先に仕掛けたのは後鳥羽上皇
1219年6月、わずか2歳で摂家将軍となった藤原頼経(ふじわらのよりつね)が鎌倉に迎えられたわずか1ヶ月後の7月、大内裏守護で朝廷と幕府の仲介役の源頼茂(みなもとのよりしげ)が後鳥羽上皇の指揮する西面武士に在所の昭陽舎(しょうようしゃ)を襲撃されます。
頼茂は仁寿殿(じじゅうでん)に籠城して応戦しましたが、多勢に無勢で次第に追い詰められ、建物に火をかけて自害しました。
この戦闘によって多くの殿舎が焼失し、内裏の宝物も失われました。
後鳥羽上皇が源頼茂を襲撃した表向きの理由は、頼茂が将軍職に就こうと策謀を練っていたと言うことですが、実は後鳥羽上皇が鎌倉に対して幕府滅亡の加持祈祷を行っていたことを頼茂が察知したため、これが漏れるのを防ごうとした後鳥羽上皇が先手を打って頼茂を討ったのだとも言われています。
そしてこれを裏付けるようにこの事件ののちすぐに、後鳥羽上皇が加持祈祷を行っていた最勝四天王院が取り壊されました。
後鳥羽上皇決起
源頼茂襲撃事件後、後鳥羽上皇は幕府転覆の決起を決断しますが、後鳥羽上皇の第一皇子の土御門上皇(つちみかどじょうこう)はこれに強く反対し、摂政・近衞家実(このえいえざね)を始め多くの公卿も土御門上皇に同調していました。
しかし後鳥羽上皇の第三皇子・順徳天皇(じゅんとくてんのう)は決起に対して積極的に賛成し、討幕推進派を結成します。
朝廷内で討幕決起の賛成派と反対派の駆け引きが続く中、1221年に順徳天皇は自由に討幕活動をするために退位して仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)を即位させ、反対派の近衞家実が摂政の座を追われます。
このため朝廷内では討幕賛成派が圧倒的に優勢となり、各地の寺社で幕府転覆の加持祈祷が行われるようになり、日本中に朝廷による討幕の噂が流布していきます。
そして承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を召集し討幕決起を実行します。
承久の乱の前哨戦
決起した後鳥羽上皇側には尾張守護・小野盛綱(おのもりつな)、近江守護・佐々木広綱(ささきひろつな)、伊賀・伊勢など六国の守護・大内惟信(おおうちこれのぶ)などが加勢、畿内の幕府勢力の討伐を開始し、有力御家人に義時追討の院宣を発して決起を促します。
上皇軍は院宣の効力は絶対で、ほとんどの有力御家人が上皇側に味方すると信じていました。
しかし、上皇挙兵の報を聞いた鎌倉幕府はすぐに動揺する御家人たちを鎌倉に呼び集め、北条政子による頼朝の恩顧を切々と説いた演説を聴かせました。
そして上皇軍討伐後の恩賞が幕府から示されると、多くのものが兵を率いて幕府軍に加わり総数19万の大軍になったと言われています。
承久の乱の経過
幕府軍が北陸方面、東山道方面、東海道方面の三方向に軍勢を展開し、京都を目指して進軍を開始するとこれを知った上皇軍は狼狽します。
とりあえず美濃、尾張、加賀でこれを迎え撃とうとしますが簡単に突破されてしまい、上皇軍は全軍を上げて宇治、瀬田に布陣し、京都の手前で幕府軍を食い止めようとします。
畿内の兵力は召集出来たものの、西国からの協力は間に合わず幕府からの離反もなく、兵力で劣る上皇軍は後鳥羽上皇自らが武装して、比叡山の僧兵に協力を依頼するも拒否されてしまい、仕方なく公家も武装して参陣することになってしまいます。
宇治川を挟んで対陣した両軍の戦いは、上皇軍が宇治川橋を落とし、雨のように幕府軍に矢を浴びせて優位に進めますが、豪雨による増水で不可能と思われた宇治川の渡河を佐々木信綱(ささきのぶつな)の軍勢が果敢にこれを成功させ上皇軍に突入し、幕府軍が一斉にこれに続いたため上皇軍は総崩れとなり敗走しました。
承久の乱の結果
後鳥羽上皇は御所に逃げ込むと門を全て閉ざし、味方ですら中に入れずすぐに幕府に和平の使者を送ります。
後鳥羽上皇は全ての責任を側近や上皇に味方した御家人に被せて、義時討伐の院宣を取り消し、藤原秀康(ふじわらのひでやす)、三浦胤義(みうらたねよし)らの捕縛の院宣を出します。
上皇に裏切られた秀康、胤義らは東寺に立て籠り幕府軍と最後まで戦いますが力及ばず、ほとんどが戦死、自害に追い込まれ、逃げたものも捕縛されてしまいます。
京都に入った幕府軍総大将・北条泰時(ほうじょうやすとき)は京都に朝廷を監視させる六波羅探題を新設し、皇位継承にも介入するようになり、朝廷を完全に支配下に置きました。
後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にその他の後鳥羽上皇に加勢した親王や皇族も多くが配流されました。
積極的に討幕に加担した一条信能(いちじょうのぶよし)らの公家は捕らえられたあと鎌倉へ護送中に処刑、生き残った上皇軍の御家人も配流、追放の処分を受け、後鳥羽上皇を始め上皇軍に参加した御家人、公家の所領は全て没収され、承久の乱で活躍した御家人に与えられ、新補地頭が大量に生まれることとなりました。
承久の乱以降の歴史の流れ
承久の乱以降、朝廷は完全に鎌倉幕府に屈服した形となり、朝廷の行事や祭礼に関してもいちいち幕府にお伺いを立てるようになってしまいました。
朝廷の財政に関しても幕府に実権を握られてしまい、幕府に逆らえば即座に困窮してしまう状況に追いやられました。
すなわち承久の乱が起こったことによって、朝廷と幕府による二元政治から完全な武家中心政治へと転換したのです。
また鎌倉幕府の勢力が及んでいなかった西国にも、後鳥羽上皇側に加勢して所領を没収された御家人が多くいたため、幕府に加勢した御家人たちが新たに地頭となって西国各地へ下ったため、鎌倉幕府の統治が西国にまで及ぶようになったのです。
承久の乱まとめ
後鳥羽上皇は『新古今和歌集』を撰するなど多芸多才で、学芸だけでなく武芸にも優れていたも言われています。
朝廷の軍事力も北面武士だけでなく新たに西面武士も新設し、朝廷の軍事力の充実もはかっています。
ただ、幕府と朝廷との力関係や武家の軍事力を甘く見ていたことなど、時代を読む力はなかったようです。
その結果、承久の乱によって朝廷は惨敗を喫し、この後100年以上朝廷は幕府に頭を押さえられることとなってしまったのです。
昔も今も時代の流れを読むことが勝利の秘訣であるのは変わらないようです。
承久の乱とは後鳥羽上皇の甘い見通しと慢心が招いた朝廷による幕府に対する失敗必至のクーデターだったのです。