「泣く子も黙る新選組」の局長として恐れられた近藤勇(こんどういさみ)ですが、現代人には新選組同様、有名で人気のある人物です。
近藤勇は郷里に妻がいましたが、京で名声が高まると複数の妾を囲っていたこともわかっています。近藤勇には実子がいたのでしょうか、子孫などもとても気になるところです。
また近年展示された刀から、行方不明だと言われている首の新たな有力説が浮上し、近藤勇の首と墓のなぞがまた一歩前進したニュースがありました。
近藤勇の最後と、見つからない首の謎も紐解きながら近藤勇の生涯を詳しく解説していきます。
近藤勇の生涯
順風藩万な剣術人生
近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)の百姓・宮川久次郎(みやがわきゅうじろう)の三男として生まれました。幼名は、勝五郎と言い、近藤勇と改名したのは近藤家に正式に養子入りしてからです。
近藤勇は15歳の時に天然理心流試衛館に入門し、人一倍稽古熱心で入門した翌年には目録を受けとります。
宮川家に盗人が押し入り近藤勇が撃退したことを、師、近藤周助(後に周斎)(こんどうしゅうすけ・しゅうさい)が知り、その度胸に関心して自身の養子としました。
剣術以外にも漢学も収め文武両道で、養父の期待通りに成長し近藤勇28歳の時に、見合いをして松井つねと結婚します。
その翌年に、正式に天然理心流四代目宗家を継ぎ、続いて長女たまを授かり、剣術一筋で順風満帆な人生を歩んでいました。
浪士組と京都残留
文久3年(1863年)幕府は将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護のために「浪士組」の募集をします。
近藤勇は試衛館の門人、土方歳三(ひじかたとしぞう)など8名を連れ浪士組に参加、他の参加者240名以上と共に京へ上洛しました。
しかし、近藤勇が京都についた夜に、浪士組を主導していた清河八郎(きよかわはちろう)が、尊皇派と通じており浪士組の真の目的は朝廷に尊皇攘夷の志を建白することであると宣言し建白書を提出します。
幕府はこれらの動きを不安視して、浪士組の浪士達に江戸への帰還命令をだしました。
即刻江戸へ帰還して攘夷運動をしたい清河八郎ら江戸帰還派と、京都に残留して本来の目的である将軍警護を主張した近藤勇ら試衛館派と、芹沢鴨(せりざわかも)率いる水戸派に分かれて対立分裂したのです。
結局、京都残留を唱えた近藤勇や芹沢鴨ら24人は京都守護職・会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の保護下に置かれることとなり京に残留して「壬生浪士隊」を結成しました。
新撰組の誕生
壬生浪士組は芹沢鴨を中心とする水戸派と近藤勇率いる試衛館派で構成され、文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変にも出動し活躍します。
この活躍が認められ、壬生浪士組は八月十八日の政変後「新選組」として正式に発足しましたが、後に近藤勇率いる試衛館のメンバーは、芹沢鴨を暗殺し新撰組の実権を握ります。
これにより権力を握った近藤勇が新選組局長に就任し、土方歳三は副長となり、京の治安維持と、反幕府テロの取り締まりを務め京の町で活躍していくこととなります。
池田屋事件
近藤勇率いる新撰組は、捕縛した熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)下僕の自供を元に、長州間者の大元締をしていた薪炭商・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎(ますやきえもん・ふるたかしゅんたろう)を捕縛しました。
新選組は、この古高俊太郎を尋問し、激しい拷問の末に中川宮邸放火・佐幕派大名の殺害などの計画を知ります。
すでに、多数の計画実行の志士が上洛潜伏しているという自供の元、近藤勇ら新選組は直ちに探索を開始しました。そんな中、四国屋か池田屋で会合が行われる情報を得た新選組は近藤勇と土方歳三の二手に分かれて捜索・突入したのです。
結局、土方歳三の担当した四国屋は空振りに終わりましたが、近藤勇・沖田総司(おきたそうじ)らの担当である池田屋では多数の志士が集まっていました。
この突入と襲撃は大乱闘となり、新選組と局長・近藤勇の名を京の町に轟かせることとなり、後の世まで語り継がれるほどの大事件で「池田屋事件」と呼ばれています。
池田屋事件の働きにより、局長・近藤勇と新選組は朝廷と幕府から感謝状と褒賞を賜りました。
徳川幕府の終焉と戊辰戦争
池田屋事件で有名となった新撰組には入隊者も着実に増え、一時は200名を超える大所帯となりました。
しかし、倒幕の流れを止める事ができず、近藤勇と新撰組を取り巻く環境も目まぐるしく変わり、ひとつの時代の終りが近づいてきます。
慶応3年(1867年)ついに将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権返上を上奏、大政奉還が成立し264年に及ぶ徳川幕府に幕を引くこととなりました。
大政奉還後、戊辰戦争へと突入し近藤勇と新撰組は旧幕府軍に従い鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、新政府軍に敗戦し幕府軍艦で江戸へ撤退します。
尚、鳥羽・伏見の戦いは墨染で近藤勇が御陵衛士の残党に衝撃され負傷していたので、副長・土方歳三が指揮を執りました。
その後改めて、局長・近藤勇は甲陽鎮撫隊を結成し戦いますがが甲州勝沼で敗走、再起をかけて下総国(千葉県)流山に移動しますが近藤勇は新政府軍に囲まれ捕らわれて降伏します。
近藤勇の最後
近藤は、本名を名乗らず、大久保大和(おおくぼやまと)という変名を貫きとおします。
しかし、新政府軍に、かつて近藤が粛清した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の率いた御陵衛士の元隊士・加納鷲雄(かのうわしお)、清原清(きよはらきよし)がおり近藤であると見破られます。
近藤勇は、降伏しているので新政府軍内で近藤勇の処遇を巡り薩摩藩と土佐藩の間で対立が起こります。結局、土佐藩の谷干城(たにかんじょう)が主導して処刑されることとなりました。
近藤勇は武士として切腹を願いますが、元農民で武士ではないと認められず、斬首と決まります。
近藤の身柄は板橋宿に送られ、斬首された首は京都に送られ、三条河原で3日間さらし首になりました。享年35歳、激動の生涯を終えます。
命乞いをした?
近藤勇の最後で、命乞いをしたような情報がありますが、実際は命乞いではなく、武士として切腹を願い出ました。
近藤勇は自分の命ではなく、一緒に捕縛された野村利三郎(のむらりさぶろう)と、相馬主計(そうまともの)の命乞いをしたことは本当だそうです。新政府軍はこの助命嘆願を受け入れ、二人は助かりました。
近藤勇の首の行方
近藤勇の首は、確実に埋葬先が確定されておらず結論から言うと、行方不明です。一番有力だとされていたのは京都説でしたが、近年最有力説が浮上しています。
2017年5月の産経ニュース記事で、会津埋葬説が急浮上していて、会津説というのは、近藤勇が処刑された後、下僕が首と一緒に会津に持ち去った刀があり、刀も存在していて信憑性が高いのではないかと言うものです。
幕末史料を多数所蔵する京都の霊山歴史館もこの説を支持し、根拠となる近藤の刀を入手展示しています。
近藤勇の墓
近藤勇の墓は、首が行方不明なだけに各地に「近藤勇の墓」が存在しています。
- 東京都北区の板橋駅前の寿徳寺境外墓地
- 東京都三鷹市の龍源寺
- 福島県会津若松市の天寧寺
- 東京都荒川区の円通寺
- 愛知県岡崎市の法蔵寺
近藤勇の刀
①長曽祢虎徹(ながそねこてつ)・太刀2尺2寸5文・脇差は長さ不明
近藤勇は数本の名刀を所持していますが、その中でも愛刀は、近藤勇本人が愛刀だと語り、手紙などでもたびたび自慢しているので長曽祢虎徹です。
ただし、この長曽祢虎徹は「大名刀」と呼ばれ、江戸後期には国宝級の扱いで「虎徹を見たら贋作と思え」と当時から言われたほどの名刀、新選組隊長・近藤勇とはいえ、持てる刀ではないとも言われています。
入手経路もいくつかの説があり、現存していないので本物であったかは判明されていません。
②陸奥大掾三善長道(むつのだいじょう みよしながみち)
池田屋事件の恩賞として、京都守護職会津藩主・松平容保から拝領された刀で最上大業物と呼ばれる最高のランクの刀。
江戸・板橋で近藤が捕縛された際に土佐藩の谷干城に没収され、終戦まで靖国神社の遊就館に展示されていましたが、現在は個人所蔵です。
③阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろう みなもとのすけよし)
近藤勇が処刑された後、下僕が首と一緒に会津に持ち去った刀とされています。霊山博物館が展示してニュースになりました。
④播州藤原宗貞(ばんしゅうふじわらむねさだ)
甲州行きの際所持していたもので、老中板倉周防守から拝領した刀です。
⑤三善道長(みよしみちなが)
近藤勇が会津の山本覚馬に依頼した刀です。
近藤勇の子孫
近藤勇と妻・つねの間の子
娘・たま
親類から婿を取って息子久太郎を産みましたが25歳で早世します。この息子は結婚することなく日露戦争に出征して戦死しました。
近藤勇の孫
近藤久太郎
日露戦争で戦死しました。
このため、近藤勇の直系の子孫は久太郎で途絶える事になります。
近藤勇の妾・駒野との間にできた子供
男子を一人出産するが、その男子は早くに仏門に入り子孫を残していません。
見受けした妾の美雪太夫の妹・お考との間にできた子供
娘・お勇
母が出稼ぎ中、母の姉である美雪太夫と揉めて家出をし、下関で芸妓となります。
のちに、朝鮮人貿易商と結婚して3人の子を産んだとされていますが、正確な情報は残っていません。
現代の子孫
近藤勇の子孫に関して、現在近藤勇の子孫とされているのは近藤勇の実家・宮川家の方々です。
宮川家は現在も脈々と続いていて、現在の末裔の方・宮川清蔵氏は天然理心流9代宗家となっています。