西郷隆盛の使者から始まり薩長同盟に奔走して活躍、明治以降内閣総理大臣にまで上り詰めた黒田清隆(くろだきよたか)という人物がいました。
数々の功績があり内閣総理大臣にまでなっているのに、故郷の鹿児島に銅像も石碑も無く、生家跡に看板すらないという歴史上抹殺された存在になっているのはどうしてでしょうか。
それは、黒田清隆という人物の酒に翻弄された生きざまが大きく関係しているようです。
晩年酒乱とされ、まことしやかに妻殺しの噂が出るなど現在の政治家のスキャンダルなど足元に及ばない騒ぎを起こしたとされています。
そんな黒田清隆の家系は現在も続いているのですが、夭折や早世などで跡継ぎに苦労したようで、現在まで子孫がどのようにして血筋を遺していったのかもとても気になるところです。
黒田清隆の家系図なども紐解きながら、黒田清隆の波乱の人生を紹介していきます。
西郷隆盛に可愛がられた
天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下にて薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれました。
黒田清隆は剣術の腕前もかなりのもので示現流門下として、後年宗家の東郷重矯(とうごうしげかた)より皆伝し、砲手としても薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び皆伝を受けます。
幕末期には、兄のように慕う西郷隆盛に可愛がられ、長州藩への連絡などの役目を担い、薩長同盟に奔走して成立に貢献しました。
戊辰戦争と箱館戦争(五稜郭の戦い)
戊辰戦争で黒田清隆は参謀として北陸戦争に参加、最終局面となる箱館戦争では総指揮を執ります。
箱館戦争では、榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府軍が箱館の五稜郭に立てこもり応戦しますが追い詰められ、黒田清隆が降伏説得を働きかけ降伏します。
その後、榎本武揚は投獄されますが、黒田清隆は敵将だった榎本武揚を殺さないように一貫して助命嘆願を主張し奔走します。
この助命嘆願は、頭を丸めた黒田清隆の写真が残っているほど非常に有名な話で、黒田清隆が兄と慕う西郷隆盛も称賛し黒田清隆の事を「誠にたのもしい人物」と褒め称えました。
明治以降政治家として
北海道の開拓と外交
新政府の元で黒田清隆は、政治家として手腕を振るいます。明治3年(1870年)、樺太専任の開拓次官となるも、樺太放棄を主張して北海道の開拓に専念すべきと寺島外務卿に上申し、樺太・千島交換条約が締結されました。
明治4年(1871年)に黒田清隆はアメリカ・ヨーロッパ諸国を旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが顧問に赴くことを承諾し、他にも殖産興業などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇い入れる「お雇い外国人」の招請の道を開きます。
帰国の後、北海道長官として北海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入などを行いました。
朝鮮との外交
明治8年(1875年)の江華島事件(こうかとうじけん)をきっかけに特命全権弁理大臣として朝鮮との交渉に努め日朝修好条規を締結します。
西南戦争
政治家として手腕を振るっていた黒田清隆は、征韓論・ロシアとの樺太紛争解決などで兄と慕っていた西郷隆盛と意見が分かれ対立し、内政重視の立場になっていました。
明治10年(1877年)西南戦争が起きると、黒田清隆は政治家から一時武官に復帰し征討参軍に任命され熊本城の攻防戦では敵の背後を攻め、反乱軍を鎮圧します。
また、山縣有朋(やまがたありとも)到着後に征討参軍を辞任しますが、黒田清隆が育てた屯田兵が入れ替わり戦線に到着し、戦闘で活躍しました。
薩摩閥の重鎮となる
西南戦争で西郷隆盛が死に、その1年後に大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺されると黒田清隆は薩摩閥の重鎮となります。
明治14年(1881年)に開拓使の廃止方針が固まり、黒田清隆は開拓使の官営事業の設備を払い下げる計画を立てますが、この払い下げ計画は新聞報道され開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)として激しく避難されました。
結局これが明治十四年の政変のきっかけとなり、結局払い下げは中止、黒田清隆は開拓長官を辞任することとなりました。
第2代内閣総理大臣となり大日本帝国憲法の発布に携わる
黒田清隆は薩摩閥の重鎮であることは変わらず、明治20年(1887年)第1次伊藤博文(いとうひろふみ)内閣の農商務相をつとめたのち、翌年の明治21年(1888年)第2代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布及び、鹿鳴館での式典にかかわり黒田内閣として演説を行いました。
黒田清隆の最後
首相辞任後、黒田は枢密顧問官、第2次伊藤内閣の逓信大臣などを歴任しますが、主だった活躍をすることなく、晩年は酒が災いしたのか体調の不調も続き、明治33年(1900年)59歳の時に脳出血で亡くなります。
度重なる酒乱の醜聞と疑獄事件で同郷の人々は離れ、葬儀委員長は榎本武揚が務めました。
黒田清隆 酒乱の逸話
大砲で民間人殺害
開拓長官時代に玄武丸に乗船した際に、共に乗船していたクラーク博士と口論となり、酒に酔ってうっぷん晴らしに船に設置されていた大砲を陸をめがけて打ち放ちました。
そしてなんと陸にあった数件の民家を破壊して漁師の娘を殺してしまったのです。
結局、酒乱が原因で起こしてしまった事故での殺人を示談金を払うことで解決しました。
妻を殺害
明治11年(1878年)妻の清子が肺病で24歳という若さで亡くなっています。しかし、この妻の死には只ならぬ疑惑がつきまとうことになります。
酒乱が原因で黒田清隆が酒に酔い、妻を一刀のもとに斬り捨てたとか、蹴り殺したなどと噂が広まり新聞記事にまで書かれるところとなったのです。
結局は、妻の墓を開けて確認するところまでの騒ぎになり、最終的には医師の確認で病死であると断定され、辞表を提出していた黒田清隆を大久保利通が異論無しとして何事もなかったことと処理されました。
子孫・家系図
黒田清隆の家系は、嗣子の清仲(きよなか)が爵位を継ぎましたが、清仲は独身で子が無かったので、彼が病弱の為32才で亡くなると、黒田家はここで一旦跡取りを失う形となります。
そこで、縁戚である黒木為楨(くろきためもと)の三男にあたる黒木清(くろききよし)を清仲の養嗣子として迎えることにより、黒田家と爵位を継がせました。
しかし黒田清も又子が無く、「受けた恩義を子々孫々まで伝えたい」と言い黒田清隆と生涯親交があった榎本武揚の曾孫にあたる黒田清揚(くろだきよあき)を迎え入れて跡を継がせ、現代まで黒田家の血筋を絶やさずにきています。
なんとも黒田清隆と榎本武揚は不思議な縁で結ばれ、子々孫々まで続いて現在も親族間で親交があるといいます。
ここからは、子孫を家系図などからわかりやすくまとめてみましょう。
黒田清隆の養女
最初の妻の妹・百子(ひゃくこ)成人後に陸軍軍人である黒木為楨に嫁ぎました。
黒田清隆の後妻・瀧子の子
梅子
榎本武揚の長男・榎本武憲(えのもとたけのり)子爵夫人。
たけ子
伊地知貞馨(いじちさだか)の孫・伊地知貞一(いじちさだいち)夫人。
清仲
嗣子として黒田家と爵位を継ぎますが32才で病死。
清仲は百子の子である黒木清を清仲の養嗣子として迎え黒田家と爵位を継がせます。
黒田清隆・榎本武揚の曾孫、黒田清揚氏(くろだきよあき)
母は榎本武揚の子・榎本武憲子爵の長女千代子(母は清隆の娘・梅子)で、黒田清揚氏は現在日本龍馬会 の2018年度のニュース記事に掲載されているのでご活躍・ご存命の子孫です。