牧野伸顕とは?大久保利通の息子の生涯、家系図や日記などを解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

明治維新の立役者、大久保利通は八男一女の子供達を授かりましたが、牧野伸顕(のぶあき)は次男として生まれます。

大久保利通と正妻・満寿子との間に生まれた息子は、ほとんどが政治家として生きていきますが、その中でも次男・牧野伸顕は、政界に最も影響力を持った人物と言われています。

牧野はいったいどのような人生を送ったのでしょうか。牧野伸顕の子孫や家系図、日記などについても触れていきたいと思います。

牧野伸顕の生い立ち

1861年、薩摩国鹿児島城下加治屋町で、当時薩摩藩士だった大久保利通のもとに次男として生まれます。

生後すぐに大久保利通の親戚・牧野吉之丞の養子となりますが、その吉之丞が戊辰戦争で亡くなってしまったため、苗字が「牧野」のまま大久保家で育てられます。

1871年、11歳の頃に、父や兄と一緒に岩倉使節団に加わり、渡米することなります。そしてフィラデルフィアの中学校で学び、帰国後はのちの東京帝国大学となる開成学校に入学します。

その後は、東京大学を中退し、外務省へ入省することに。

さすが大久保利通の息子ということもあり、まさに、エリートコースを突っ走るわけですね。

 

牧野伸顕の政治家としての活動

外務省へ入省してからは、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等など数々の要職を経験します。

 

伊藤博文との出会い

最初に太政官権小書記官を務めていた頃、あの伊藤博文との出会いがあったようです。彼と中国の政治家のやり取りを見て、国の中枢で物事が動いていく様子を肌で感じることができたと言われています。

 

外務大臣を歴任し、貴族院議員へ

その後も出世を続け、第2次西園寺内閣では農商務大臣に就任。

そしてついに、第1次山本内閣で外務大臣の要職を務めることになります。

そして、1914年には、兄たちと同様、貴族院議員として任命されます。

 

パリ講和会議で実質的に指揮をとり、吉田茂も同行した?

1919年、第一次世界大戦終結後、世界各国の首脳が集まり講和条件や国際連盟の設立について話し合われたパリ講和会議に、牧野は次席全権大使として参加します。

日本の代表は西園寺公望でしたが、実質的には牧野が一行を取り仕切る形だったと言います。

このパリ講和会議で、牧野は人種差別撤廃提案などを行なっており、当時のアメリカ大統領・ウィルソンからも支持を得ます。

結果として、オーストラリアなどから強い反対を受けて否決されてしまいますが、国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した国は世界において日本が最初の国でした。

また、この会議には後の内閣総理大臣となる吉田茂も随行しています。

 

宮内大臣、内大臣として天皇が涙するほどの信頼を得た?

1921年からは、宮内大臣に就任します。

ちょうど大正天皇の病状が悪化してきた頃で、昭和天皇が即位されるまでの間、宮中の事務の統括者として責任を全うしました。

このときの仕事ぶりによって、天皇からは大変な信頼を得ていたと言います。

牧瀬は宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの功績による伯爵の位も受けおり、天皇と近い関係にあったようですね。

1925年には親任官である宮内大臣・侍従長とともに、常に天皇の側にあって補佐する側近的役職・内大臣に就任し、1935年まで在任します。

その後、牧野は健康が優れず、人材を一新するという理由で政界を引退しますが、その意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話が残っています。

牧野の引退後も、天皇からの厚い信頼は変わらず、度々宮中に召されて意見を求められていたと言います。

軍部から二回暗殺されそうになる

昭和7年、軍人らによって当時の首相・犬養毅が暗殺される5.15事件が勃発します。当時、内大臣だった牧野も命を狙われ、住宅にピストルが打ち込まれます。

また、内大臣を前年に引退した昭和11年には、青年将校が起こした2.26事件によって、他の政界の重要人物と同様、牧野も命を狙われます

当時、牧野は伊豆・湯河原の旅館「光風荘」に宿泊しているところを襲撃され、護衛は倒されてしまいますが、孫・麻生和子の機転によって牧野自身は暗殺を逃れます。ちなみに、麻生和子は吉田茂の娘です。

この襲撃事件の前に、牧野の殺害を目的としたテロ計画が8件もあったということですから、事情通で穏健派として大きな影響力を持っていた牧野は、中族進出を企てていた軍部政府にとってかなり邪魔な存在だったようです。

父の大久保利通も暗殺されていますが、牧野は運が良かったと言えるでしょう。

 

牧野伸顕の晩年

人生の最晩年、牧野は千葉の柏市で過ごしたそうです。

第二次大戦後も、天皇や皇室の処遇がどうなるか気にしていたようで、GHQの憲法問題担当政治顧問などと対談しています。

また、オールド・リベラリストとしての評価が上がり、鳩山一郎の退陣後、自由党総裁に推す声まで上がり始めましたが、老齢のため政界に戻ることはありませんでした。

1949年1月25日、87歳で亡くなります。

 

牧野伸顕はどのような人物だったのか

牧野伸顕は伊藤博文やその後継者である西園寺公望と親密な関係を築き、一方では自身の薩摩閥としてルーツをもとに、政界、外交界、宮中でも深い関係を築くことで、独自の存在感を発揮した政治家です。

保守とリベラルのバランスが取れており、社会の変化を敏感に察知する協調的で穏健派な政治家だったといいます。

伊藤博文から対人姿勢を学んだということで、人の意見を頭ごなしに否定することはなく、しっかりと話を聞く人物だったそうです。

 

牧野伸顕の日記

牧野伸顕は大正10年から昭和13年までの出来事を綴った日記を残しており、『牧野伸顕日記』として発刊されています。

牧野が宮内庁のトップとして若き昭和天皇の側にいた記録を、摂政就任、御成婚から、軍部の台頭、国際聯盟脱退まで詳細に書き綴っている貴重な記録です。

 

牧野伸顕の子孫や家系図

牧野伸顕の子孫や家系図の一部を紹介したいと思います。やはり、大久保利通の家系ということで、政治家を輩出していたりと、かなりロイヤリティーを感じさせる人物が多いです。

 

長男・牧野伸通

長男の牧野伸通は宮内庁の内部部局である式部職で式部官を務めています。

 

長男・牧野力

また、伸通の長男・牧野力は通産事務次官を歴任しました。

 

長女・林貞子

伸通の長女・林貞子は幼児教育専門家であり、東海大学名誉教授も務めています。また、松濤幼稚園の創設者でもあります。

 

長女・吉田雪子

牧野の娘・雪子は吉田茂と結婚していますが、実はその吉田茂の孫が麻生太郎です。

麻生太郎の親族には、財界の重鎮である父・太賀吉がいたり、天皇の親族となる妹の信子がいたりと、かなりすごい家系なのです。

 

さいごに

牧野伸顕の人生について紹介してきました。

大久保利通の息子というだけあって、政界ではかなりの影響力を持った人物だったんですね。

子孫や親族の方もすごい人ばかりで、まさに上級国民の代表と言えますね。