明治六年の政変とは近代日本の形を模索し、外遊視察していた岩倉具視(いわくらともみ)、大久保利道(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろふみ)などの海外渡航組と、日本国内で留守政府を預かっていた西郷隆盛(さいごうたかもり)、板垣退助(いたがきたいすけ)らが、朝鮮の扱いと対応を巡り対立した出来事です。
その後政府内で分裂、武力を行使してでも服属させるべしとする征韓論主張組が破れ、西郷隆盛はじめ支持した参議の半数と軍人、官僚が辞職して下野して一大政変となりました。
この一連の政変の背景や流れ、その後の征韓論で敗れた西郷隆盛や板垣退助の動向なども、わかりやすく解説していきたいと思います。
明治六年の政変が起こった経緯
徳川政権時、日本と朝鮮はそれなりに友好な関係を維持していました。
王政復古により新しく明治政権になった日本は、朝鮮に対しその旨を伝える使節を派遣する事となります。
しかし、幾度派遣して書簡を渡しても、内容に不備があるなどとして受け取りを拒否されるのです。
そこには、朝鮮側の理由と背景がありました。
当時の朝鮮において興宣大院君(こうせんだいいんくん)が政権を掌握し「小中華思想」に元ずく儒教の復興と、攘夷の政策を採り始めていた為、これらを理由に排除すべき西洋文明を見習う日本を蔑み、関係を断絶するべきとの意見が出されるようになっていたのです。
征韓論が持ち上がり西郷隆盛が全権大使として立ち上がる
結局、忍耐強く交渉を続けていた明治政府に対して朝鮮側の非礼は続き、明治政府の面々も朝鮮に対する非難から、武力行使も厭わない「征韓論」が持ち上がり板垣退助をはじめとする参議なども賛同。
ただし西郷隆盛だけは、しかるべき立場の者が全権大使として礼節を持って朝鮮の説得をすべきではないかと主張し、全権大使としてぜひ自分を派遣してほしいと願い出るのです。
欧米視察団の帰国を待つようにと明治天皇に促される
板垣退助ら征韓論者達も西郷隆盛に賛同し全権大使の役を快く譲ります。
こうして閣議は、西郷隆盛の遣韓大使を決定し明治天皇に上奏してご裁可を受けたのです。
ただし明治天皇は「外遊組帰国まで国家に関わる重要案件は決定しない」という取り決めを基に、欧米を視察している岩倉具視や大久保利通らが帰国するまで待ち、再度上奏するようにと今すぐの派遣は留め置きました。
明治六年の政変の概要
欧米視察組が帰国し、明治6年(1873年)10月15日から25日までの間、棚上げになっている「征韓論」にいつて幾度も閣議が開かれました。
帰国した岩倉使節団の主だった面々は内治優先を理由に、「征韓論」西郷隆盛の遣韓大使に真っ向から反対します。
また、岩倉具視や大久保利通らが征韓論に反対した理由は内治優先だけでなく、西郷隆盛が説得に失敗して朝鮮で殺されれば、日本は戦争に踏み切らざるをえません。
その上、日本を取り巻く国際情勢的にも望ましくなく、国内インフラが先の日本にとって戦争を行なう国力も備わっていないという判断があったのです。
西郷隆盛派遣の無期限延期
結局征韓論派と反対派は対立し、納得のいく結論は出ず、岩倉具視が「三条太政大臣による派遣決定は上奏するが、太政大臣代理である私の意見も上奏する」と主張し、西郷隆盛派遣決定と派遣延期の両論を明治天皇に上奏するのです。
結論として、明治天皇は西郷隆盛の派遣を無期限延期としました。
征韓論を支持した者達の辞任
西郷隆盛を筆頭に板垣退助、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、江藤新平(えとうしんぺい)、副島種臣(そえじまたねおみ)は辞表を提出し、征韓論賛成派の参議達5人は下野することとなります。
また、西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人や、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職し、その数600名に上る大掛かりな辞職騒動となりました。
明治六年の政変その後
征韓論賛成派のその後
西郷隆盛は後に西南戦争を起こして自刃、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣は自由民権運動を起こし愛国公党を結成、江藤新平は佐賀の乱を起こし処刑されます。
いずれも反政府運動を展開していきました。
征韓論反対派のその後
政変で主張が通った反対派の面々はその後、日本の政治を牽引していくこととなります。
中でも大久保利通は、内務卿となり学制や地租改正、徴兵令など、日本の土台となる重要な政策を打ち立て、結局、江華島事件(こうかとうじけん)をきっかけに朝鮮に軍隊を派遣し開国させるのです。
明治六年の政変における西郷隆盛
明治六年の政変において、西郷隆盛は最初から朝鮮に対して出兵・武力行使をしかける「征韓論主張者」と認識されていますが、実際には西郷隆盛は閣議でも一言も武力行使をするとは言っていません。
板垣退助は武力行使したかったようですが、ではなぜ「征韓論主張者」=西郷隆盛と言われているのかというと、朝鮮との会談が決裂し自分が殺されれば、出兵するようにと西郷隆盛が板垣退助に送った書簡の中に書いてあったからだと言われています。
江戸城無血開城をやり遂げた西郷隆盛は、自らが赴くことで朝鮮を説得させる自負があったのかもしれません。もちろん出向いて殺されるかもしれないことも承知していたでしょう。
可能な限り外交努力で関係を改善したい西郷隆盛の気持ちが見え隠れしますが、結局は叶わず西郷隆盛は朝鮮の地を踏むことなく故郷で西南戦争を起こして最後を遂げる事となってしまいました。