三浦按針(みうらあんじん)とは江戸時代初期、徳川家康の外交顧問となったイングランド人航海士です。
本名はウィリアム・アダムスとされ、徳川家康に三浦按針という名前を与えられました。
慶長7年(1602)には馬込勘解由の娘とされる、お雪(マリア)という女性と結婚し2人の子供が誕生しています。
また伊東(静岡県伊東市)に日本初となる造船ドックを設け、洋式船を建造しました。
そんな三浦按針の生涯や子孫、墓などを解説していきます。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)の生い立ち
ウィリアム・アダムスは1564年、イングランド南東部のケント州ジリンガムで誕生しました。
船員だった父が亡くなると、12歳の時にロンドンに移り船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りをし造船術を学びます。
しかし、造船術よりも航海術に興味を持っていたため1588年になると海軍に入隊しました。
海軍に入隊したウィリアム・アダムスは貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長となり同年に行われたアルマダの海戦に参加します。
翌年にはメアリー・ハインと結婚し、娘・デリヴァレンスと息子・ジョンが誕生しました。
しかし、多忙であったウィリアム・アダムスは家にいないことが多かったとされています。
極東を目指す
航海で共にしたオランダ人からロッテルダムから極東を目指す航海士を募集しているという噂を聞き弟・トマスらと共にこの募集に志願すると、見事ホープ号の航海士として採用され、1598年6月24日にロッテルダムを出港となりました。
出港するもマゼラン海峡を抜けるまでの間に、弟・トマスとともにリーフデ号に配置転換されることとなります。
航海は惨憺たる有様で、ウィリアム・アダムスの乗ったリーフデ号以外のトラウ号、フライデ・ボートスハップ号、ヘローフ号、自身が乗るはずであったホープ号は極東に到達する目的を果たすまでの間にスペインに拿捕、沈没などがあり、残された船はリーフデ号のみとなります。
しかし、リーフデ号の中では赤痢や壊血病が流行り、またインディオの襲撃などがあり、出航時に110人もいた乗組員は日本漂着までの間で24人となっていました。
日本漂流
慶長5年(1600)4月29日、ウィリアム・アダムスの乗ったリーフデ号は黒島に漂流します。(現在の大分県臼杵市の臼杵湾内にある島)
この時、乗船員たちは自力で上陸することができなかったため、臼杵城主・太田一吉が出した小舟で救出され、初めて日本の土を踏むこととなりました。
臼杵城主・太田一吉は異人の上陸を長崎奉行の寺沢広高に知らせると、長崎奉行・寺沢広高はウィリアム・アダムスたちを拘束し、船に積まれていた爆薬や大砲や火縄銃などを没収し、大坂城の豊臣秀頼からの指示を待ちました。
この間、長崎奉行の寺沢広高のもとに日本にいたイエズス会の宣教師たちが訪れ、日本に害を及ぼす危険があると危惧し、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するよう要求します。
結局、五大老・徳川家康がウィリアム・アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大阪に護送するよう指示しました。
徳川家康に気に入られる
慶長5年(1600)5月12日、ウィリアム・アダムスらは初めて徳川家康と対面します。
徳川家康はウィリアム・アダムスらを、海賊と初め認識していましたが、ウィリアム・アダムスが路程や航海の目的やオランダやイングランドといったプロテスタント国とポルトガル、スペインといったカトリック国との間で起こっている紛争について説明したため、徳川家康はウィリアム・アダムスを大変気に入りました。
その間も、イエズス会の宣教師たちはウィリアム・アダムスらを処刑するよう要求していましたが、徳川家康はその要求を黙殺していたとされています。
その後も数回、ウィリアム・アダムスらと徳川家康は対面したとされ、釈放されると徳川家康の城地である江戸に招かれることとなります。
日本人女性と結婚する
江戸に招かれたウィリアム・アダムスは帰国したいと要求しましたが、認められることはありませんでした。
徳川家康はウィリアム・アダムスらに米や俸給を与え、通訳士として仕えさせ、助言を求めたりもしたとされています。
また航海術や幾何学や数学などを徳川家康の側近に教えていました。
この間、慶長7年(1602)頃に徳川家康の御用商人であったた馬込勘解由の娘とされるお雪(マリア)と結婚したとされています。
2人の間には息子・ジョゼフと娘・スザンナが誕生しました。
伊東で西洋式の帆船を建造
江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、西洋式の帆船を建造するよう命じられます。
ウィリアム・アダムスはしばらく造船の現場から離れていたこともあり、この命令を当初、拒否しましたが、伊東(静岡県の最東部に位置する市)に日本で初めて船舶の製造、修理などの際に用いられる、造船ドックを設け80tの帆船を建造を行いました。
慶長9年(1604)、完成した西洋式の帆船を見た徳川家康はウィリアム・アダムスに再び大型船の建造を指示し、ウィリアム・アダムスは慶長12年(1607)に船舶を完成させます。
三浦按針と名乗り始める
この功績を称え徳川家康はウィリアム・アダムスを旗本に取り立て、また帯刀を許し、相模国逸見の領地も与えました。
これだけではなく「三浦按針」という名前を与え、異国人であったウィリアム・アダムスは三浦按針と名乗り、武士として生きていくこととなります。
一時帰国を許される
慶長18年(1613)日本に交易を求めイギリス東インド会社のクローブ号が来航します。
この際、来航したクローブ号の乗船員一行に付き添い、徳川家康との謁見を実現させました。
慶長19年(1614)クローブ号が帰還の際、三浦按針は一時帰国を許されましたが、クローブ号の指揮官ジョン・セーリスと気性が合わなかったため、帰国は見送りました。
ジョン・セーリスは何においても日本式を強要する三浦按針を嫌っていたとされています。
三浦按針の最期
元和2年(1616)徳川家康が亡くなると、徳川家康の後を継いだ徳川秀忠や幕臣たちは、異国との貿易を平戸のみに制限するといった鎖国体制を取り始めました。
このような状況下で三浦按針の立場は不遇となり、その後は天文官となるも次期将軍候補・徳川家光や幕臣たちからは警戒の目が向けられるようになりました。
こうして元和6年(1620)5月16日、平戸で55歳で亡くなりました。
三浦按針の墓
三浦按針は亡きあとイギリス商館付近にあった外国人墓地に葬られましたが、その後におきたキリスト教弾圧において外国人墓地は破壊され正確な埋葬地は分かっていません。
しかし、昭和6年(1931)にイギリス商館付近の三浦家で安針墓として伝えられてきた墓から遺骨と遺品の1部が発見され、昭和29年(1954)にイギリス商館跡近くの崎方公園に三浦按針の墓が建立されました。
また三浦按針の領地であった神奈川県横須賀市の逸見にある濤江山浄土寺は三浦按針の菩提寺であり、横須賀市西逸見町の「塚山公園」には三浦按針と妻・お雪(マリア)の慰霊のために作られた2基の供養塔があります。
三浦按針の子孫
三浦按針は日本でお雪という女性と結婚しました。
2人の間には2人子供が誕生しています。
しかし、2人も詳しい記録は残されておらず、子供がいたかどうかも判明していないため、現在に続く子孫がいるかどうかも分かっていません。
長男・ジョゼフ・アダムズ
父・三浦按針が亡くなると、家督と所領を相続し二代目・三浦按針と名乗りました。
鎖国直前までの記録は残されていますが、その後の活動記録は残されていません。
長女・スザンナ
三浦按針とお雪から誕生した娘です。
生年月日や没年などの詳しい記録はのこされていません。
最後に
三浦按針は日本に偶然漂流し、徳川家康に気に入られると、旗本に取り立てられ、日本名を与えられ、異人であったにも関わらず武士となった数奇な境遇を得た人物でした。
異人ながらも侍となった三浦按針はイギリス東インド会社との貿易の手助けをするなど、日本において大きな功績を残し、このような活躍が称えられ昭和57年(1982)には伊東市とジリンガム市の間で姉妹都市関係が結ばれました。