室町幕府とは?場所・仕組みや開いた人、滅亡させた人や最後の将軍について解説!

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室町幕府の実質的な成立時期は、室町幕府を開いた人物である足利尊氏が建武式目を制定し武家政権開設の方向を示した延元元年(1336)11月頃とされています。

「室町」という名称は、3代将軍・足利義満が京都北小路室町に建てた花の御所(室町殿)に由来するとされ、足利氏が15代にわたり将軍職を継承しましたが、応仁の乱以降著しく弱体化し、元亀4年(1573)7月に織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡しました。

そんな室町幕府の成立時期や開いた人物、場所や滅亡させた人物、また最後の将軍について解説していきます。

室町幕府を開いた人物

室町幕府は足利尊氏が幕府の基本施政方針を示した建武式目を制定した延元元年(1336)11月頃に成立したとされています。

よって室町幕府を開いた人物は足利尊氏ということとなります。

 

室町幕府成立の時代背景

鎌倉幕府の成立

室町幕府が成立する約150年前の文治元年(1185)、源頼朝が鎌倉幕府を開きます。

鎌倉幕府が開かれると、源頼朝亡き後、2人の息子が将軍を継ぐこととなりましたが、2人も若くして殺害され亡くなりました。

そこで権力を握ったのが亡き源頼朝の妻・北条政子とその実家である北条氏です。

北条氏は朝廷で権力を握り始めましたが、これに対し、治天の君であった後鳥羽上皇は北条氏の台頭に不満を抱き、政権を朝廷に取り戻そうと討幕計画を打ち出し、承久3年(1221年)5月、北条義時の追討の院宣を発しました。

朝廷と幕府が対立したことにより、多くの御家人たちはどちらに味方をするか戸惑いを見せましたが、幕府方の北条政子が涙ながらに「最期の詞」と称して亡き頼朝公の御恩を称え、三代にわたる将軍家の恩に報いるため、逆臣(朝廷)を討て。といった演説を御家人に行い、この演説に心打たれた多くの御家人が幕府方につくこととなり、これによって朝廷軍は2か月もたたないうちに幕府方に破れ、主謀者の後鳥羽上皇や後鳥羽上皇の皇子などが流罪、また朝廷側の貴族・武士も多くが死罪となりました。(承久の乱)

これ以降、朝廷は幕府に監視されるようになり、幕府と朝廷の立場は逆転することとなります。

 

元弘

それから約50年後の文永11年(1274)と弘安4年(1281)、日本は2度にわたるモンゴルの襲撃を受けます。

このモンゴル軍の襲来は元寇と呼ばれ、この元寇では多くの御家人の働きのおかげで、モンゴル軍の襲来を阻止することができました。

しかし、当時幕府はモンゴル軍の襲来に対し、膨大な戦費を使っていたため、モンゴル軍の襲来を阻止した御家人たちに恩賞を与えることができませんでした。

これによって御家人は幕府に不信感を抱くこととなります。

 

鎌倉幕府の滅亡

元寇後の文保2年(1318)後醍醐天皇が即位します。

即位した後醍醐天皇は、これまでの幕府中心の政治から再び政権を朝廷に取り戻そうと正中元年(1324)に討幕計画を企てます。

しかし、この時の討幕計画は露呈したため側近の日野資朝・日野俊基などの公家が処刑されます。

その後も元弘元年(1331)に再び討幕を企てますが、この計画も発覚してしまったため後醍醐天皇は鎌倉幕府によって隠岐島へと流されることとなりました。(元弘の変

しかし、この元弘の変を機に、鎌倉幕府に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)といった武士たちが各地で反幕府の兵を挙げるようになります。

この反幕府の反乱を抑えるために鎌倉幕府は有力御家人である足利尊氏や新田義貞を反幕府の討伐に向かわせましたが、2人は一転して朝廷方に味方し、足利尊氏は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉幕府を攻撃し、北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕らが自害、将軍・守邦親王は将軍職を退いて出家したため、これによって鎌倉幕府は滅亡となりました。

室町幕府の成立

「建武式目」の制定

配流されていた後醍醐天皇は元弘3年(1333)、配流先から脱出すると、幕府・摂関を廃して建武の新政を開始します。

しかし、これと同時に鎌倉幕府を共に滅ぼした足利尊氏と対立するようになりました

これに対し後醍醐天皇は楠木正成を足利尊氏の討伐に向かわせましたが、延元元年(1336年)5月に足利軍に破れ、その後相次いで後醍醐天皇の有力武将ら結城親光・名和長年・千種忠顕らが戦死したため、後醍醐天皇は苦境に立たされることとなりました。

こうして後醍醐天皇の力が弱まると、足利尊氏は入京し、光明天皇を延元元年(1336)8月に即位させ、10月に後醍醐天皇を幽閉、11月7日に幕府の基本施政方針を示した「建武式目」を制定しました。

この「建武式目」の制定が室町幕府の実質的成立時期とされています。

 

南北朝時代の始まり

一方、後醍醐天皇は、延元元年(1336)12月21日に現在の奈良県に位置する大和国吉野の地で朝廷を開き南北政権を樹立しました。

これによって京都(北朝)、吉野(南朝)にそれぞれ天皇が存在する南北朝時代を迎えることとなりました。

この南北朝時代は約60年間続くこととなりましたが、延元3年(1338)南朝側の総大将であった新田義貞が戦死するなどして、北朝方が軍事的に優位につくこととなり、その中で北朝方の足利尊氏が暦応元年(1338)8月11日に征夷大将軍に任命されました。

このように南朝、北朝との間で争いがあったため、幕府の仕組みはなかなか整わず、安定した時代がくるようになったのは、3代将軍・足利義満の時代であったとされています。

 

場所と名前の由来

3代将軍・足利義満は京都北小路室町に花の御所(室町殿)を造営すると、この御所が幕府となり、この花の御所(室町殿)が由来となり室町幕府と呼ばれるようになりました。

 

室町幕府の仕組み

室町幕府は鎌倉幕府の仕組みをならったものとされています。

鎌倉幕府で執権と呼ばれていた役職は室町幕府において管領と呼ばれるようになり、その管領の下に、政所・問注所・侍所が設置されました。

地方機関として、奥州探題、羽州探題、中国探題、九州探題などが設置されます。

 

室町幕府の組織機構

室町幕府には様々な組織があります。

その一部をご紹介します。

 

管領

管領とは主に将軍を補佐する役職です。

将軍に次ぐ幕府の最高役職で、将軍を補佐し幕政を統括しました。

鎌倉幕府の執権と同じ役職で足利氏の一族である斯波氏・細川氏・畠山氏が交代でこの役職を務めることとなります。

この三氏は三管領と呼ばれています。

 

評定衆

評定衆とは 領地の訴訟を審判する役職です。

鎌倉幕府から続く役職ですが、実質的な権力は小さかったとされています。

 

政所

幕府の一般政務・財政を行う役職です。

 

問注所

訴訟事務を所管する役職です。

記録や文章の保管なども行いました。

 

侍所

軍事・警察を担った役職です。

 

鎌倉府

鎌倉府の首長である鎌倉公方が中心となり、関東10カ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)を統治するために設置された役職です。

 

奥州探題

守護に代わり設置されたもので、陸奥(青森、岩手、宮城、福島)の統括を行いました。

 

九州探題

九州の統括を行うだけではなく、中国や朝鮮といった李氏朝鮮との外交なども行いました。

室町幕府の滅亡

応仁の乱の勃発

室町幕府が開かれてから約130年後の応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発します。

応仁の乱とは、将軍の継承問題や管領家の畠山氏、斯波氏の家督争い、また有力守護である細川勝元と山名宗全の勢力争いなど、さまざまな要因によって勃発した争いです。

この応仁の乱は約10年にも及ぶ長い戦いとなり、戦場となった京都は焼野原となりました。

そのため、幕府の本拠地である花の御所も焼け落ちてしまい、幕府の権威は失墜していくこととなります。

 

応仁の乱後

長い争いであった応仁の乱が文明9年(1467)に終わりを迎えましたが、幕府の権威は回復することはなく、各地にいる守護が、守護や国人から領国を奪われる事件が相次いで起こります。

このような下剋上の時代、つまり戦国時代が応仁の乱後、約100年間続くこととなりました。

 

信長の上洛と滅亡

このような時代の中で、永禄11年(1568)尾張国を支配していた織田信長が足利義昭を奉じて入京します。

京都に入った信長は足利義昭を15代将軍につけさせましたが、将軍となった足利義昭と信長はやがて対立関係となり、足利義昭は各地の大名に対し、信長の討伐を要請します。

しかし、信長の討伐は思うおように進まず、元亀4年(1573)7月、将軍・足利義昭は信長によって京都から追放されることとなりました。

室町幕府の将軍である足利義昭が京都から追放された時点が、室町幕府の滅亡と一般的に考えられています。

よって室町幕府は元亀4年(1573)7月に滅亡したということとなり、また最後の将軍は15代・足利義昭となります。

 

まとめ

室町幕府は建武式目が制定された延元元年(1336)11月頃に足利尊氏によって開かれたとされています。

しかし初めの頃は京都(北朝)、吉野(南朝)にそれぞれ天皇が存在する南北朝時代が約60年も続き、幕府の仕組みはなかなか整わず、安定した時代がくるようになったのは、3代将軍・足利義満の時代であったとされています。

その後、応仁の乱が勃発し、長い戦いの末、下剋上の時代、つまり戦国時代へと突入します。

戦国時代になると各地で、大名による領地争いが始まり、尾張国を支配していた織田信長が入京すると、15代・足利義昭が京都から追放されることとなり、これによって室町幕府は元亀4年(1573)7月に滅亡しました。