1854年3月、日本とアメリカの間で結ばれた日米和親条約によって初代総領事として下田に赴任してきたタウンゼント・ハリスは、アメリカ政府の意向により、日米修好通商条約の締結を最優先課題として来日しました。
江戸幕府はこの通商条約にはもともと消極的で、総領事の滞在自体を快く思っていませんでした。この雰囲気のなかでタウンゼント・ハリスはあらゆる手を尽くして幕府を動かし、横浜・長崎・新潟・兵庫の開港、アメリカの領事裁判権の容認、関税自主権の放棄などを認めさせ、アメリカに有利で日本にとって不平等な条件で条約を締結に導きます。
日米修好通商条約がどのような経緯を辿って締結されたのか探ってみました。
当時の歴史的背景
日米修好通商条約が結ばれた1858年は第13代・徳川家定の治世、政治の中心人物は老中首座・堀田正睦(ほった まさよし)でしたが、10月には家定の死去にともなって第14代将軍に徳川家茂が就き、政治の中心は4月に大老に就任した井伊直弼に移っていきます。
この堀田正睦から井伊直弼へと政治権力が移るのには日米修好通商条約のアメリカとの交渉経緯が大きく関わっています。
1856年8月下田に到着したハリスは幕府が提供した玉泉寺を総領事館と定めて活動を開始、下田奉行・井上清直(いのうえ きよなお)、幕府から派遣された目付・岩瀬忠震(いわせただなり)と会見し幕府とのパイプを着々と築きます。
翌1857年12月に江戸城へ登城したハリスは徳川家定に国書を手渡し、強硬にアメリカとの自由通商の必要性を説き、幕閣にもアメリカとの通商やむ無しの声が出たため、堀田正睦は井上清直、岩瀬忠震を全権として翌1858年1月から交渉を開始、延べ15回にも及ぶ交渉の末に合意に達します。
条約をめぐる幕府と朝廷の対立
堀田正睦は条約締結の勅許を得るため上洛しますが、岩倉具視ら攘夷派公家が抵抗し(廷臣八十八卿列参事件)、孝明天皇自身が異国との交易を嫌がったため勅許は拒否されました。
ハリスからアヘン戦争、アロー戦争の情況と英,仏の日本への侵略の危険性を説かれた幕府首脳は友好的なアメリカとの早期条約締結を望むようになります。
朝廷の抵抗と幕閣の突き上げの板挟みになった堀田正睦は開国派の越前福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)を大老に就けようとしますが家定に反対され、井伊直弼が大老に就任します。これによって堀田正睦は政治の表舞台から消え去ります。
井伊直弼は勅許なき条約締結には反対で辛抱強く勅許を求めますが、朝廷の反対の意思は固く、その結果、全権の井上清直,岩瀬忠震は1858年6月19日勅許を得られないままに条約に調印しました。
日米修好通商条約の内容と不平等な点
①関税自主権がない
日米修好通商条約では貿易に関する取り決めがいくつか行われましたが、その中での注目点は関税自主権が日本側にないと言うことです。
関税を自由に決めることが出来ないため、安い輸入品が大量に流入し、国内産業の保護育成が出来なくなり、輸出に関しても外国人商人の手によって行われたため日本への利益はほとんどありませんでした。
②領事裁判権を認める
関税以外の取り決めの中で目に付くのは、アメリカ人が日本国内で罪を犯しても日本の法律で裁くことが出来ない領事裁判権がアメリカに認められていることです。
これによって日本の役人はアメリカ人に対しては逮捕したり、取り調べたりすることは実質的に不可能になってしまいました。
③最恵国待遇
この日米修好通商条約が不平等条約であるのはこの2点が最も大きな問題点なのですが、他にも日米和親条約で定められていた片務的最恵国待遇(日本がアメリカ以外の国とアメリカよりも有利な条件で条約を結んだとき、その有利な条件がアメリカにも適用される)もそのまま引き継がれています。
日米修好通商条約で開港した港
日米和親条約で開港した下田・箱館に加え神奈川(横浜),長崎,新潟,兵庫(神戸)の4港を開港、神奈川開港後に下田を閉鎖することに定まりました。
この4港に定まるまでに紆余曲折があったのですが、決定後も神奈川ではなく横浜が、兵庫ではなく神戸が開港し、幕府は各国から非難を浴びる結果となります。
日米修好通商条約と大老・井伊直弼について
日米修好通商条約を朝廷の許可(勅許)を得ずに締結することになってしまった大老井伊直弼は、一橋慶喜を将軍職に推す一橋派や水戸藩から非難され攻撃を受けました。
その上、水戸藩士らは朝廷より戊午の密勅(ぼごのみっちょく・井伊直弼が主導する幕府政治を批判した勅書)を孝明天皇より下賜され、幕府の権威を蔑ろにしました。
しかし将軍職が一橋慶喜の対抗馬であった南紀派の紀州藩徳川慶福(家茂)に決定したため、南紀派であった井伊直弼は一橋派と水戸藩に対して強烈な報復に出ます。世に言う安政の大獄です。
儒学者梅田雲浜の捕縛に始まり、橋本左内,吉田松陰,頼三樹三郎などの志士や中川宮朝彦親王らの公卿を捕縛し厳しい取り調べを行って攘夷派を弾圧、無断で江戸城に登城した罪によって一橋派の一橋慶喜,徳川斉昭,松平慶永らを閉門や謹慎処分にします。
また幕閣でも反井伊派の老中の久世広周、寺社奉行の板倉勝静らだけに止まらず、太田資始,間部詮勝の両老中まで罷免します。
これによって井伊直弼独裁体制ができますが、この処分に激昂した水戸脱藩浪士らは彦根藩邸から江戸城に向かう途中の桜田門で井伊直弼の伴揃えを襲撃、井伊直弼の暗殺に成功します(桜田門外の変)。
さいごに
日米修好通商条約は不平等条約としてこれから先の明治新政府外務担当者を悩まし続ける課題となりますが、それだけでなく締結してからは日本中を震撼させる安政の大獄を引き起こし、政治の最高権力者大老の暗殺へと繋がり政治的大混乱を引き起こします。
開かれた日本へとなるための試練であったといえばそれまでですが、すでに幕末の混乱への序章が日米修好通商条約の締結であったことは間違いありません。