ペリーの黒船来航は長年続いた江戸時代の鎖国を解き、倒幕から明治維新へと時代の流れを大きく変えた重要な転換点です。
この記事では、浦賀や下田など実際に黒船が来航した場所や目的、当時の時代背景などについて詳細に解説していきたいと思います。
黒船来航時の時代背景。ペリー以外にも外国船が来航していた?
当時、江戸幕府は基本的に鎖国体制をとっており、オランダ、中国、朝鮮など一部の国以外とは貿易を行っていませんでした。
ペリーの黒船が来航する以前にも、実は様々な外国船が日本に来航しており、1792年にはロシア帝国からラスクマンが根室に、1804年にはレザノフが長崎へ貿易を目的として来航していますが、幕府は拒否しています。
1825年には長崎以外の場所に近づこうとする外国船を砲撃して追い払う「外国船打払令」を発令しており、漂流した日本人を送り届けようとしたアメリカの商船・モリソン号を砲撃しています。
これには日本人からも批判があがり、それ以降は「薪水給与令」によって、外国船に飲料水・燃料だけ与えて、引き取ってもらうという方向に変わりました。
1844年にはオランダ王国からも開国するよう求められますが、それも拒否しており、幕府はかなり頑なに鎖国状態を守っていたという時代背景がありました。
ペリーの黒船来航!最初の場所は浦賀ではなかった?
オランダ国王の進言から8年後の1853年、ペリーは蒸気船2船を含む、計4つの艦船を引き連れて、日本へ来航しました。
超巨大な黒船
日本に蒸気船が来航したのはこの時が初めてであり、船体が黒いタールで塗られていたため、江戸の人々からは「黒船」と呼ばれていました。黒船は日本で造られていた当時最大級の船より25倍ほど大きかったと言われ、日本人に大きな衝撃と恐怖を与えました。
久里浜に来航したが、その後浦賀へ誘導
ペリーが初めて日本に来航した場所としては浦賀が有名ですが、実は最初に来航した場所は、神奈川県横須賀市の久里浜というところでした。
しかし当時の久里浜は砂浜となっており黒船が接岸できなかったため、幕府は同じ須賀市の浦賀へ黒船を誘導します。
ペリー率いる艦船は臨戦体制をとりながら勝手に江戸湾の測量を始め、湾内で何十発も空砲を打ち、江戸は大混乱。浦賀には、黒船の見物人で溢れかえっていました。
幕府はペリーの来航を知っていた?
実はペリーが来航する前年に、オランダ商館長のクルティウスが長崎奉行所に書簡を提出しており、その中にアメリカのペリー提督率いる艦船が、翌年3月に来航することが書かれていました。
幕府はこの書簡の内容をあまり信用せず、警備の兵を多少増やしただけに留まりましたが、実際には3ヶ月遅れて本当に黒船がやってきたわけです。
ペリーが来航した目的は?
ペリーが来航した目的は日本を開国するためですが、その理由は以下の2点です。
- 捕鯨をするために寄港地が必要
- 中国大陸に進出するために寄港地が必要
それぞれについて詳しく解説します。
【理由1】捕鯨をするために寄港地が必要
当時、産業革命の真っ只中で、欧米ではオフィスや工場は夜遅くまで稼働しており、ランプの灯火や潤滑油の原料として、マッコウクジラの油の需要が増大していました。
アメリカは日本沿岸など世界各地で捕鯨を行っており、1年以上の長い航海を行うことが普通でした。また、捕鯨船は船上で鯨油の抽出も行うため、大量の薪や水が必要であり、こういった物資の補給地点として、日本という場所が最適だったのです。
【理由2】中国大陸に進出するために寄港地が必要
産業革命により多くの工業製品を生産できるようになったアメリカは、それらの製品を輸出するために、インドだけではなく、中国へも市場拡大を急いでいました。
当時の人口は日本が約3000万人だったのに比べ、中国(清)では約4億人、まさに超巨大マーケットだったわけですね。
ですので、日本はアメリカから中国へ航海する途中の寄港地として重要な場所であり、具体的には函館の開港をアメリカは考えていたようです。
大統領の親書を渡されたが、日本は開国を先延ばし
今まで鎖国を守り続けてきた日本でしたが、ペリーの黒船と空砲の圧力に押され、交渉の場に臨みます。
ペリーは当時のアメリカ大統領・フィルモアの親書を渡したい旨を伝えますが、「身分の低い者ではなく最高位の役人に預けたい。さもなくば、兵を連れて上陸し、将軍に直接親書を渡す」と脅しつけます。
江戸の老中首座・阿部正弘はペリーの上陸を許可し、浦賀奉行の役人と会見させ、将軍が病気で開国をすぐには決定できないため、返答に1年待ってほしいと伝えます。
ペリーもそれを了承し、1回目の黒船来航は開国に対する返事の保留ということで終わりました。
2回目の黒船来航により、日本は開国
ペリーの黒船来航からわずか10日後に、当時の将軍・徳川家慶が病で亡くなります。
次の将軍として徳川家定が就任しますが、家定も病弱で幕政を担える状況ではなかったために、老中首座・阿部正弘は朝廷や外様大名にも開国に関する意見を求めました。
尊皇攘夷思想を持っていた孝明天皇などは開国に猛反対したということですが、他にこれといった有力な案は出ませんでした。
ペリー、二度目の来航で開国を迫る
そうこうしているうちに、約束より6ヶ月も早く、今度は7隻の黒船を引き連れて、ペリーは日本へ2度目の来航をします。香港で将軍・家慶の死を知ったペリーは、その混乱を狙い撃ちしようと考えたのです。
突然の来航に大変慌てた政府でしたが、1ヶ月間の協議の上、ついにアメリカへの開国を認めます。そうするしか他に案がなく、時代の勢いに押し負けた形でした。
215年続いた日本の鎖国は、ついに終わりを迎えたのです。
日米和親条約を結び、下田と函館の2港を開港
開国にあたり、日本とアメリカは「日米和親条約」を結びます。その内容は以下の通りです。
- アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
- 下田、箱館の2港を開き、下田への領事の駐在を認めること
- アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること。
この時の日米和親条約では、まだ貿易に関する事項は含まれていなかったため、航海に必要な水、食料、薪、石灰などを幕府が補給するということで落ち着きました。
また、当初のペリーは浦賀を含む5港の開港を求めていましたが、浦賀は将軍がいる江戸に近かったため、それを恐れた幕府はなんとか下田と函館の2港の開港だけに説得しました。
この日本開国という大ニュースはすぐに他国へ知れ渡り、同じ年に来航したイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結びました。
貿易に関する不平等条約・日米修好通商条約も結ぶことに
日米和親条約では貿易に関する事項を盛り込んでいなかったため、常任領事として日本に赴任してきたハリスと条約に関する交渉が始まります。
そして開国から4年後の1858年、「日米修好通商条約」が締結されます。
この条約は日本に関税自主権がなく、アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約で、同じ内容のものをイギリス、ロシア、オランダ、フランスとも締結することになります。
日米修好通商条約の締結により、当時の大老・井伊直弼は相当批判を浴びることになりました。
江戸幕府の終わりはペリーの黒船来航がきっかけ?
実はこのペリーの黒船来航が、江戸幕府を倒幕し、明治維新が成し遂げられるきっかけとなったのです。
というのも、先に老中首座の阿部正弘が朝廷や外様大名に開国に関する意見を求めたと書きましたが、それが元で諸藩の発言力が高まり、幕府の権威は失墜していきます。
そして最終的に外国を追い出そうとする尊王攘夷の考えが広まり、頼りない幕府を倒そうとする動きが加速するのです。
ペリーの黒船来航は、日本の歴史を変える重要な転換点だったのですね。