度肝を抜くような人事刷新を図り、最強ロシア艦隊にも負けない近代的で屈強な海軍を独自の信念で作り上げ「海軍の父」と呼ばれた男、それが山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ)です。
山本権兵衛が海軍に身を捧げるきっかけになったのが、尊敬する西郷隆盛(さいごうたかもり)だと言うのですが、そのいきさつはどういうものだったのでしょうか。
そして山本権兵衛は内閣総理大臣も2度経験していますが、山本の組閣した内閣はシーメンス事件や虎ノ門事件などで2度とも短命な内閣で終わりました。
また、写真から伝わる威厳に満ちた風貌とは違い、妻の為に草履を揃えてやるなど当時の男性からは考えられない優しさを見せ、生涯変わらず妻を思いやり仲睦まじい夫婦だったそうです。
そんな妻との馴れ初めや、シーメンス事件について、また子孫に至るまでを山本権兵衛の生涯を振り返りながら詳しく説明していきたいと思います。
山本権兵衛の生い立ち
山本権兵衛は薩摩国鹿児島城下の薩摩藩士・右筆及び槍術師範を務めた山本五百助(やまもといそすけ)の六男に生まれました。
12歳で弾運びとは言え薩英戦争に参加しており、戊辰戦争で藩兵の募集があった際には、本来は18歳からであるにも関わらず山本権兵衛は16歳で応募しました。
腕っぷしが強く地元でも一目置かれる存在であったため、山本権兵衛なら大丈夫だろうと採用され薩摩藩兵として戊辰戦争に参加します。
心の師である西郷隆盛の導きで海軍へ
戊辰戦争後、政府高官であった同郷の西郷隆盛を訪ね、彼から海軍の軍人になることを勧められており、勝海舟(かつかいしゅう)への紹介状を書いてもらいます。
山本権兵衛は早々に紹介状を携えて江戸に向かい、勝海舟に弟子入り志願しました。
そして無事に勝海舟の家で居候するまでになり、その後は幕府開成所で学び、海軍操練所、海軍兵学寮と進み 着実に海軍士官への道を歩んで行くのです。
もう一人の師との出会い
時代は明治となり、山本権兵衛は海軍少尉に任官しドイツ艦「ヴィネタ」に乗船して十カ月に及ぶ世界半周の航海に出ます。この船で西郷隆盛に並ぶもう一人の師となる船長グラフ・モンツと出会うのです。
山本権兵衛は、ドイツ貴族出身で高い教養と高潔なグラフ・モンツから操縦や軍事技術以外に、あらゆる分野についての学問や教養を学びました。
後年、山本権兵衛は「私の今日あるのは、まったくモンツ艦長の感化による」と言わしめるほど尊敬していた人物だったようです。
海軍エリートとして軍部の中枢へ
山本権兵衛はモンツ艦長より鋼の精神と合理性を学んだ後、天城・高雄・高千穂の各艦長を務め、海軍省主事・軍務局長などを歴任して軍の中枢である大本営海軍参謀となり、日清戦争では作戦指導にあたるなど海軍の頂点へ昇り詰めていきます。
また 日清戦争後は、軍務局長としてロシアの脅威に対抗する海軍を作る為に、大規模なリストラを行い改革を断行しました。
この断行は独断だと非難されましたが、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の抜擢など、その後の日露戦争の勝利などを見ると山本権兵衛の改革は正しかったと言わざるを得ません。
事実上の海軍トップとして
その後、山本権兵衛は海軍大臣として事実上のトップに君臨し、乗組員の健康管理や食事に始まり、ロシアに対する脅威にそなえ艦船の新造などは日英同盟の配慮も忘れずイギリスに依頼しました。
大胆な人事を行い、全ては迫りくるロシアの脅威に備えて「海軍の父」と後に言われるほど日本海軍を自ら創り上げていきました。
日露戦争での大勝利
山本権兵衛の作り上げた日本海軍は、いよいよ明治38年(1905年)5月27日、世界に類を見ない海戦での圧勝と語り継がれる日本海海戦の日を迎えロシアと対峙します。
山本権兵衛自らが選抜した東郷平八郎が指揮を執り、日本はロシアに勝利して五大国への仲間入りを果たすのです。
日露戦争後総理大臣へ
日露戦争後は、信頼する西郷従道(さいごうじゅうどう)亡きあと海軍の重鎮の一人として存在感を強め、また藩閥に属しながらも護憲運動に理解を示し、政党や国会などを尊重する人間性で、総理大臣の候補に名前が挙がるようになります。
第1次山本内閣
大正2年(1913年)山本権兵衛は内閣総理大臣に就任します。
山本権兵衛は軍部大臣現役武官制の廃止など意欲的に取り組んでいた矢先、ドイツの国内裁判の報道が発端となり巻き込まれる形で起こった「シーメンス事件」により内閣は瓦解し1年という短い期間で内閣総辞職となります。
第2次山本内閣
関東大震災後の大正12年(1923年)、約9年の時を経て再び山本権兵衛に組閣が命じられます。
山本権兵衛は帝都復興事業、普通選挙の実現に向けて取りかかっていましたが、今度は摂政宮(皇太子・後の昭和天皇)が共産主義者に狙撃される事件が起こります。
この事件は虎ノ門外で起こったテロなので虎ノ門事件と呼ばれ、結局山本権兵衛は引責辞任し、また1年足らずで内閣は総辞職となりました。
内閣とシーメンス事件
ドイツのシーメンス会社の元東京支店員の東京支店長恐喝未遂に絡み、贈収賄があったとした裁判で、当時のドイツ司法裁判所が国際儀礼を無視して、一審から日本海軍将校の実名も進んで通信社に公表し発覚、野党同志会の島田三郎らによる責任追及と、世論の攻撃を受けた日本海軍の収賄事件、それが「シーメンス事件」です。
またイギリスのヴィッカースへの巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる海軍首脳および三井物産の関係者の贈賄も絡んで、一大疑獄事件となり、第1次山本権兵衛内閣は総辞職しました。
西郷隆盛との関係
山本権兵衛は薩摩で英雄的存在である西郷隆盛を尊敬し心酔する若者の一人でした。
そんな山本権兵衛は戊辰戦争後に西郷隆盛を訪ね将来を相談します。その時西郷隆盛は、海軍に進むように助言し、勝海舟に紹介状を書き山本権兵衛に渡したのです。
また西郷隆盛が征韓論に敗れて、薩摩に下野した時も山本権兵衛も一時薩摩へ向かいます。しかし、西郷隆盛に学生は学ばなくてはならないと諭され東京へと帰っていきました。
西南戦争の後、西郷隆盛の実弟である西郷従道になぜ兄に賛同して下野しなかったのか、山本権兵衛は問い詰めたと言います。
西郷従道は兄・西郷隆盛から「兄弟で帝に逆らってはいけない、お前は東京に残れ」と言われ、その思いを汲んで残ったことなどを伝えると、同じように西郷隆盛に諭されて上京した自分自身とも重なり、山本は西郷従道と生涯に渡り信頼しあったようです。
山本権兵衛の軍人としてのルーツであり、生涯の軸となり続けたのが西郷隆盛だという事です。
妻・山本登喜子(やまもとときこ)
山本権兵衛は明治11年(1878年)海軍兵学校時代に家が貧しく遊郭に売られてきた新潟県の漁師・津沢鹿助の三女・登喜子に一目ぼれし、その境遇を不憫に思い仲間に協力してもらい遊郭から足抜けさせて匿い、周囲の反対も気にせずに結婚しました。
当時、長州閥の間では、木戸孝允(きどたかよし)や伊藤博文(いとうひろふみ)などの元芸奴出身の妻を娶っている例がありましたが、薩摩閥や薩摩出身の士官が平民の娘を娶ることは異例だったようです。
山本権兵衛の登喜子への愛情は、終生変わることがなかったと言われ、登喜子も夫によく仕え派手を好まず、子女の教育に専念して終生仲睦まじい夫婦でした。
子孫
- 長女・山本イネ(やまもといね)、夫は財部彪(たからべたかし)、海軍大将。
- 次女・山本すゑ(やまもとすゑ)、夫は山路一善(やまじかずよし)、海軍中将。
- 三女・山本ミね(やまもとみね)、夫は川崎汽船取締役などをつとめた山本盛正。
- 四女・山本なミ(やまもとなみ)、夫は西郷従道の四男で上村従義(かみむらつぐよし)海軍大佐。
- 五女・山本登美(やまもととみ)、夫は松方正義(まつかたまさよし)の八男で日活社長をつとめた松方乙彦(まつかたおとひこ)。
- 長男・山本清(やまもときよし)、海軍中佐、貴族院議員。
- 孫・山本千代子(やまもとちよこ)、夫は大倉財閥2代目・大倉喜七郎(おおくらきしちろう)の長男・大倉喜六郎(おおくらきろくろう)。
- 孫・山本満喜子(やまもとまきこ)、キューバ革命を支援。通訳・カメラマン
- 玄孫・八木沼純子(やぎぬまじゅんこ)、プロ・フィギュアスケート選手