島津久光は朝廷と幕府の公武合体を指揮し、倒幕の功労者と称される人物です。
また、幕末の名君と言われた島津斉彬の弟でもあり、西郷隆盛と険悪な関係だったことでも有名です。
そんな島津久光は、いったいどのような生涯を送ったのでしょうか。家系図や、巷で噂される久光製薬との関係についても詳しく解説していこうと思います。
久光の生い立ち
1817年10月24日、薩摩藩10代藩主・島津斉興の五男として、久光は鹿児島城にて生まれました。
11代藩主となる島津斉彬とは異母兄弟です。蘭学が好きで先進的な斉彬とは異なり、久光は伝統を重んじ、国学に通じていました。
非常に対照的な二人ですが、兄弟仲は良好で、久光は兄の斉彬を慕っていて、斉彬も久光のことを気に入っていたようです。
しかし、二人の仲とは関係なしに、周りの人物は斉彬派と久光派で険悪な状態が生まれていました。それが、「お由羅騒動」につながっていきます。
次期藩主を巡ってお由羅騒動が勃発!
お由羅騒動とは、次の藩主を島津斉彬と島津久光のどちらにするかで揉めた騒動です。
本来であれば当時の藩主・島津斉興の正室から生まれた斉彬が次期藩主となれば何も問題がないはずですが、藩主の斉興は斉彬の蘭学好きが気に入りませんでした。
蘭学好きによる借金まみれがトラウマに?
というのも、斉興の祖父である島津重豪もかなりの蘭学好きだったのですが、その蘭学に入り込みすぎて、重豪は莫大な借金を藩に残してしまっていたのです。
その借金を、斉興が貿易などによって頑張って返済していたのですが、その時の借金地獄がトラウマになりました。そのため、蘭学好きな斉彬を次期藩主にすると、また同じように借金まみれになると危惧したのです。
一方、久光の方は斉彬と違って、国学に通じ、伝統を重んじる正統派。しかも、お気に入りの側室である「お由羅の方」の息子ということもあり、斉興としては久光を次期当主にする方向で元々考えていたようです。
斉彬派が幕府に密輸貿易を告発し、斉興の失脚を企む
こういった不利な状況を打開するために、斉彬派の家臣は、藩主・斉興が借金を返済するために行なっていた密輸貿易を、当時の幕府の老中首座・阿部正弘に告発し、久光派の斉興と調所広郷を失脚させようとします。
しかし、幕府の取り調べの途中で調所が急死してしまいます。原因は斉興をかばった調所が毒を飲んで死んだからだと言われており、これにより斉彬派の計画はうまくいかず、逆に斉興の久光を次期藩主にするという決意を強くしてしまいました。
お由羅の方が呪いをかけたと大騒ぎ!?斉彬派に切腹と流罪相次ぐ
斉彬派が不利だった要素がもう一つあります。それは次の後継問題です。
実は斉彬の子供の多くは早くに亡くなっており、娘が3人だけ存命でした。一方の久光は男子に多数恵まれており、次の後継のことも考えるなら、久光を次期藩主にした方がスムーズだったのです。
それに対し斉彬派は、「斉彬の子供が早くに死んでいるのは、久光の母・お由羅の方が呪いをかけているからだ」と考え、お由羅の方と久光を暗殺しようとします。
お由羅の方は元々町民ですが、斉興に気に入られて大名の側室になるという大出世をした人物です。しかも、現藩主である斉興は息子の久光を次期藩主にしようとしているのですから、当然お由羅の方もそれを望んでいました。しかし、呪いまでやっていたかどうかは定かではなく、あくまで噂の範囲でした。
この斉彬派の暗殺計画は事前に漏れてしまい、赤山靭負などの首謀者数人が切腹し、関係者50人ほどが流罪されてしまいました。
幕府の仲介で斉彬が次期藩主に
これで久光が次期藩主に決まりかと思われますが、斉彬派の一部が斉興の大叔父で福岡藩主でもある黒田長溥を頼ったことで事態は急変します。
黒田は島津家に騒動が起きているということで、幕府の老中首座・阿部正弘に助けを求め、その結果、阿部正弘は斉興を引退させた方が良いと考え、斉興に茶器を送ります。
これは暗に「もうそろそろ歳だから、これからは隠居して茶でも楽しむといいよ」ということを示しており、幕府から言われたとあっては斉興も引退を認めざるを得ません。
こうして、島津斉彬が第11代藩主に決まるのです。
久光と西郷隆盛の関係は険悪だった?
さきほど、お由羅騒動で斉彬派の赤山靭負が切腹させられたと書きましたが、実はこの赤山靭負は西郷隆盛と親しい人物だったのです。
赤山を失った西郷は久光を憎み、斉彬が次期藩主になることを望んでいたと言います。
また、のちに久光が公武合体という野望を果たすために江戸へ上京しようとした際、西郷は「政治に疎い田舎者では上京しても無駄」という趣旨の発言をし、久光を激昂させます。
一方の久光も、命令に従わない西郷に、死罪の次に重い罪と言われる遠島処分を食らわせるなど、二人の関係は生涯改善することはありませんでした。
公武合体のために政界の中心部へ進出!成功と挫折の道のり
斉彬の死後、彼が残した遺言により、久光の息子である忠義が島津家の藩主となり、久光は実質的に島津家の最高権力者となります。
そして久光は兄の斉彬が目標としていた「公武合体」を果たすために、兵を連れて江戸へ上京しようとします。公武合体とは、朝廷や幕府、諸藩が全員で協力して政治を行うという幕政改革のことです。
久光はあくまで幕府への睨みとして兵を連れていったので、幕府と戦争を起こすつもりは全くなかったのですが、薩摩藩の過激志士たちはこれを久光の意図とは正反対に受け取ってしまい、寺田屋事件へとつながっていくのです。
寺田屋事件で朝廷から信頼を得る
当時の朝廷は、幕府と戦争を目論む薩摩藩の過激派たちの動きを恐れており、久光に対処するよう求めます。
そこで久光は過激派の元に同じ薩摩藩兵を送り、「薩摩藩士VS薩摩藩士」の同士討ち事件である寺田屋事件が起こります。
結果的に過激派を鎮圧することに成功したのですが、この久光の素早い対処に感銘を受けた朝廷は、久光に大きい信頼を寄せることになります。
一旦は幕政改革に成功
信頼を得た久光は、朝廷から幕政を改革するための勅使に随行する許しを得て、到着後は勅使とともに幕府と公武合体の交渉にあたります。
そして、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に任命することが決まり、幕政改革は成功します(文久の改革)。
生麦事件により薩英戦争勃発!
文久の改革を成し遂げた久光でしたが、薩摩へ帰る途中に、久光の行列に紛れ込んだイギリス人を斬り捨てる生麦事件が起こります。
これに激怒したイギリスと薩摩藩の間で薩英戦争が起こり、その対処のために、久光はせっかく影響力をもった幕政から一旦手を引くことになりました。
八月十八日の政変で長州藩を追放するも、公武合体は実現せず
久光が薩英戦争に手を焼いている間、京都では尊王攘夷を掲げる長州藩が力を伸ばしており、朝廷も尊王攘夷派に取り込まれる寸前でした。
これを危険と感じた久光は「八月十八日の政変」というクーデターを起こし、長州藩を京都から追放して、公武合体のために再度行動を始めます。
久光は公武合体の肝である、朝廷から任命された諸藩の大名から成る参与会議を成立させようとしますが、久光の台頭を嫌った一橋慶喜の画策により、わずか数ヶ月で瓦解します。
公武合体に失敗して失望した久光は、小松帯刀や西郷隆盛に後を任せて、薩摩に帰り3年間引きこもってしまいました。
倒幕に反対し、新政府に抗議し続けた久光
一度薩摩に隠居したように見えた久光でしたが、まだ公武合体を諦めておらず、もう一度江戸へ上京し、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らと一緒に「四侯会議」を立ち上げようとしました。
しかし、また慶喜からの妨害が入り、これによって久光は公武合体を断念。この時から、西郷隆盛らの主導のもと、薩摩藩は倒幕へ向けて舵をとるようになります。
本当は嫌だったけど、倒幕に協力
あくまで朝廷と幕府と諸藩の公武合体が目標だった久光は、倒幕には反対の立場だったと言います。
しかし、倒幕のための出兵命令が朝廷から出されたとあっては、流石にそれに逆うことはできず、結果として倒幕へ協力することになったというのは皮肉な話です。
西郷らが行った廃藩置県に激怒
倒幕後、西郷らが率いる明治政府により、全国の大名が所有する土地や人民を政府に返還するという廃藩置県が実施されました。
これに久光は激怒し、抗議する意味を込めて、一晩中花火を打ち上げていたと言います。
旧大名で廃藩置県に反対した人物は久光だけだっとのことですから、やはり西郷に対する恨みがこの花火の抗議に反映されているのかもしれません。
新政府の役職を与えられるも、辞任
明治政府は倒幕の功労者でもある久光に、新しい政策を理解してもらおうと、何度も上京を依頼しますが、久光は断固拒否の姿勢を崩しません。
説得から5年後、やっと上京した久光は、内閣顧問や左大臣に任命されます。しかし、新政府と衝突を続けた久光は役職を辞任して、鹿児島へ帰郷します。
断髪令や廃刀令を無視
あくまで伝統的な日本を重んじた久光は、新政府が出した「断髪令」や「廃刀令」を完全に無視し、一生涯、髪を切らず、帯刀も辞めなかったそうです。
久光の晩年
久光の晩年は、島津家の史料に関する編纂をして余生を過ごしたということです。伝統と国学が好きな久光らしい晩年と言えますね。
やはりと言いますか、憎き西郷隆盛が起こした内乱・西南戦争にも関わることはありませんでした。
1887年、享年71歳で久光はその生涯を終え、鹿児島で国葬されます。倒幕に協力する形にはなりましたが、最後まで伝統的な日本を重んじた人物だったのですね。
島津久光の子孫、家系図は現天皇陛下につながる?
島津久光は明治時代になると新たに玉里島津家(たまざとしまづけ)という分家を起こしたり、自分の息子たちに島津家の分家を継承させています。
また、現天皇陛下である・明仁様(今上天皇)は、なんと島津久光の子孫に当たります。
久光の息子・島津忠義(ただよし)は薩摩藩最後の第12代藩主ですが、この忠義の八女・邦彦王妃俔子(くによしおうひ ちかこ)は天皇陛下・明仁様(今上天皇)の祖母なのです。
久光の家系が現天皇陛下に繋がるとはかなり驚きの事実ですね。
島津久光と久光製薬の関係
さて、どうやらネットでは島津久光と久光製薬は何か関係があるのではないかと噂されているようです。
おそらく「久光」という名前からお互い何かしらの関係があるのでは?と思った人が多いかと思いますが、実は島津久光と久光製薬は全く関係がありません。
「サロンパス」などの製品で知られる久光製薬ですが、創業者の久光仁平は島津久光と何も関係はありませんし、偶然にも本社は同じ九州の佐賀県にありますが、かつての薩摩だった鹿児島とは位置が近いというだけでこちらも特に何も関係ありません。