太原雪斎は戦国時代、今川義元の家臣として活躍した人物です。
今川家の軍事・外交を任されており非常に優秀な人物であったとされ、今川義元の右腕として高く評価されています。
また僧侶として臨済寺を開寺、妙心寺の第35代住持に就任するなどの活躍も見せました。
そんな太原雪斎の経歴や徳川家康との関係性、桶狭間の戦いや名言について解説いたします。
太原雪斎の生い立ち
太原雪斎は明応5年(1496年)、今川氏の家臣で駿河国庵原城の城主であった庵原政盛(左衛門尉)と興津横山城の城主・興津正信の娘の長男として誕生しました。
父・庵原政盛は現在の静岡市清水区にあたる駿河庵原を支配していた一族でした。
一方、母方の興津氏は駿河国庵原郡にある横山城を本拠とし海運を掌握し、水軍を率いていました。
父方、母方どちらも今川氏の家臣であったため太原雪斎もまた今川氏の家臣として活躍するようになります。
今川義元との出会い
太原雪斎の幼少期の記録はあまり残されていませんが、永正6年(1509年)14歳の時、太原雪斎は剃髪し駿河富士山麓にある善得院(現在の臨済寺)に入寺しました。
そのころ、太原雪斎は九英承菊と名乗っていたとされています。
大永3年(1523年)今川氏親の三男である今川義元が4歳にして善得院に入寺します。
この時、太原雪斎の師である琴渓承舜が今川義元の世話をしましたが、享禄2年(1529年)に琴渓承舜が亡くなったため弟子である太原雪斎が今川義元の世話をすることとなりました。
その後、太原雪斎は今川義元とともに京都の建仁寺や妙心寺で修行を行います。
太原雪斎は若くから秀才と知られており、主君の今川氏親は太原雪斎の将来性を高く評価し、仏門に入っている太原雪斎に2度、家臣になるよう要請しましたが、太原雪斎は今川氏親の要請を断り、修行に励みました。
今川義元と玄広恵探の家督争い
大永6年(1526年)、今川義元の父である今川氏親が亡くなります。
今川義元は三男であったため跡継ぎとして考えられていませんでしたが、2人の兄が立て続けに亡くなったため今川義元のもとに継承権が巡ってきました。
今川義元は仏門に入っていましたが、家臣たちから家督を継承するよう要請があったため今川義元は還俗することとなります。
今川家の家督を継ぐ決意をみせた今川義元でしたが、今川義元の異母兄・玄広恵探も後継者として名乗り出てきたのでした。
今川義元と異母兄・玄広恵探の間で後継者争いが勃発し戦へと発展します。
この戦いは花倉の乱と呼ばれ、太原雪斎は今川義元の家督相続に尽力し、玄広恵探を自害に追い込みました。
玄広恵探との後継者争いに勝利した今川義元は、太原雪斎の働きを高く評価し、以後、太原雪斎を重用するようになります。
今川義元の右腕として
太原雪斎は今川義元から厚く信頼され、政治や軍事など全面的な補佐を行うようになりました。
甲駿同盟
天文6年(1537年)、太原雪斎は今川氏親の時代から対立していた甲斐国の武田信虎(武田信玄の父)との関係改善に力を注ぎます。
その結果、今川義元の正室として武田信虎の長女・定恵院が迎えられ、また武田信虎の嫡子・武田晴信(武田信玄)に、今川家の遠縁である三条公頼の娘・三条の方を正室として送り、両者の間で甲駿同盟が成立しました。
河東の乱
しかし、甲駿同盟が結ばれた結果、これまで同盟関係であった相模の北条氏綱との関係性が悪化します。
北条氏綱は駿河東部に侵入すると、そのまま駿河東部を支配しました。(河東の乱)
太原雪斎は河東の乱に対し、天文14年(1545年)武田晴信とともに駿河東部に出陣し、北条氏綱から駿河東部を取り返しました。
妙心寺派に転じる
天文12年(1543年)太原雪斎は臨済宗の僧で臨済寺の開山となった大休宗休の門人となります。
これまで太原雪斎は臨済宗建仁寺派の門人でしたが、大休宗休の門人となったことによって妙心寺派に転じることとなりました。
この時、法名も九英承菊から太原崇孚に改めます。
小豆坂の戦い
天文15年(1546年)10月、織田信長の父である織田信秀が西三河に侵入します。
西三河の松平広忠は織田信秀の攻撃を受け、今川氏に救援を要請しました。
これを受け太原雪斎は大軍を率いて西三河に出陣し、天文16年(1547年)三河田原城を落城させます。
その後も織田信秀は岡崎城の攻略を目指し、攻撃をしかけてきます。
これに対し、今川義元は太原雪斎を大将とし出陣させ、天文17年(1548年)3月19日、三河国額田郡小豆坂で合戦が始まりました。
この戦いは小豆坂の戦いと呼ばれ、太原雪斎は織田軍を破ることに成功します。
人質であった徳川家康を取り返す
天文18年(1549年)11月には三河安祥城を攻め、安祥城の守備を任されていた織田信秀の長男・織田信広を捕縛します。
当時、織田信秀のもとには松平広忠の長男・竹千代(のちの徳川家康)が人質として捕らえられていました。
もともと、竹千代(のちの徳川家康)は今川氏の人質となる予定でしたが、天文16年(1547年)8月2日、人質として今川氏のもとに護送される最中、義母の父・戸田康光の裏切りにあい、尾張国の織田信秀のもとに送られたのです。
三河安祥城を攻めた太原雪斎は人質であった竹千代(のちの徳川家康)を保護し、今川氏の人質として取り戻しました。
安祥城を失った織田家は勢力を落とすこととなり、西三河は今川氏によって支配されることとなります。
甲相駿三国同盟の締結に尽力
天文19年(1550年)6月、今川義元の正室・定恵院が亡くなります。
これによって今川氏と武田氏との婚姻関係は解消されることとなりましたが、天文21年(1552年)11月、今川義元の長女・嶺松院が武田信玄の嫡男である武田義信の正室となったため、同盟関係は維持されることとなりました。
天文23年(1554年)3月、太原雪斎は甲相駿三国同盟の締結に力を注ぎます。
甲相駿三国同盟とは武田信玄・北条氏康・今川義元の間で結ばれた同盟で、この同盟に伴い、今川義元の嫡子である今川氏真に北条氏康の娘である早川殿が嫁ぎました。
妙心寺の第35代住持に就任
今川家の家臣として外交と軍事で活躍を見せた太原雪斎ですが、天文14年(1545年)には駿府国に臨済寺を開寺、天文19年(1550年)には京都の妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍を果たしました。
また領内の寺社・宗教の統制や商業政策なども行い、今川氏を支えました。
太原雪斎の最期
太原雪斎は弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河国の長慶寺で60歳で亡くなりました。
太原雪斎が生きていれば今川義元は死ななかった?
太原雪斎の主君である今川義元は永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いと呼ばれる戦いで織田信長に負け、亡くなりました。
今川義元の右腕として活躍した太原雪斎は「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと評価されています。
もし、太原雪斎が桶狭間の戦いまで生きていれば、今川義元は桶狭間の戦いで負けることはなかったのかもしれない。とまで言われています。
また徳川家康も太原雪斎の活躍を高く評価しており、「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」国政を執り行っていた太原雪斎亡き後は、国政はまとまらなくなったと残しています。
太原雪斎の名言
「おのれの才がたかが知れたものと、観じきってしまえば、無限に外の知恵というものが入ってくるものだ。」
まとめ
太原雪斎は今川義元の右腕として活躍した人物でした。
今川家の外交と軍事をまとめていた優秀な人物でしたが、それだけではなく僧侶として臨済寺を開寺、妙心寺の第35代住持に就任するなどの活躍も見せました。
そんな太原雪斎は現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場しています。