幕末の話題でよく名を見かけることが多い孝明天皇。幕末の激動期に即位し、僅か35歳で崩御した孝明天皇とはどの様な人物だったのでしょうか。
その簡単な生い立ちと尊王攘夷思想や開国嫌いについて、また孝明天皇の暗殺説、そして次に即位した明治天皇とのすり替わり説なども含め、彼の生涯をわかりやすく解説していきます。
孝明天皇の簡単な生い立ち
孝明天皇は1831年(天保2年)6月14日に生まれ、父である仁孝天皇と母である正親町雅子(新待件賢門院、藤原雅子)の第四皇子にあたります。孝明天皇が誕生してすぐに3人の兄宮は亡くなっており、1846年に父である仁孝天皇が崩御した後、15歳で第121代天皇に即位しました。
その頃は日本近海に度々黒船が現れており、1853年にはペリー提督が来航しました。その為、孝明天皇は徳川幕府に対して異例といえる黒船に関する勅書を出し、海防の強化と外国船の状況報告などを求め、開国に反対し、「攘夷」即ち外敵(外国の侵略)を撃退する姿勢を最後まで貫きました。
孝明天皇の開国嫌いや尊王攘夷思想について
孝明天皇自身が九条尚忠へ宛てた書簡の中で、「私の代になって異国人に国を汚されるとは、ご先祖様に申し訳ない。末代までの恥にもなろう。」という内容のものがあります。
またその後の書簡では「誰が上京して来ようと開港は認めないし、京の周辺については言うまでもない。」と明記しています。
なぜここまで嫌がったのか?
これはおそらく皇室特有の価値観によるものだと思われます。
元々、皇室は「浄」「不浄」という考え方について敏感です。孝明天皇は西洋医学の噂を聞いており「西洋医学では患者の体を切ったり縫ったり、ときには腹を切り開くこともある」、すなわち「天皇の体に一般人=不浄の可能性のある者が触れることになる」という事を大いに嫌ったのではないでしょうか。それを表す例として、孝明天皇は宮中で西洋医学を禁じています。
しかし一方で孝明天皇の遺品には西洋式の時計があることから、孝明天皇は西洋の全てを否定しては無いことが窺えます。
尊王攘夷思想について
尊王攘夷は儒教の思想で、「尊王」とは「天皇」を敬い、「攘夷」は外敵(外国の侵入)を阻むことです。
この尊王攘夷思想は水戸学が発展させたものであると通常は考えられていますが、本来は「尊王」と「攘夷」は別のものでありました。
尊王論は解りやすくいうと日本は神国であり、その大元は天皇であるという考え方です。一方の攘夷論は、神国である日本に足を踏み入れさせない、排除せねばならないという考え方。もともと尊王派である孝明天皇が攘夷論を唱えることにより、「尊皇攘夷」という一つの言葉になったようです。
外国の新しい文化や思想が国内に入って来ることは、国の象徴である自分の地位が脅かされる可能性があった為、この思想を打ち出したと思われます。
孝明天皇の暗殺説や死因について
1866年12月11日、孝明天皇は風邪をこじらせ発熱し、以降回復しなかったために、16日には15名の医師たちによる24時間体制の治療が行われました。
結果、24日には回復の兆しがあり食欲も出てきていたようですが、翌日には急変し血便を何度も洩らし苦しみながら崩御されました。
僅か35歳で急死した孝明天皇の死因は、天然痘とされています。
しかし、孝明天皇は悪性の痔で悩んでいたこと以外は至って壮健であったことと、このように回復してきた矢先に急激な悪化で崩御された事から、ヒ素による毒殺説が噂されています。
黒幕には岩倉具視と大久保利通、伊藤博文などの大物の名前が挙がりますが、いずれも証拠はありませんでした。
孝明天皇と明治天皇の関係、すり替わり説について
では、次に孝明天皇と明治天皇の関係ですが、二人は親子の関係です。
1866年に孝明天皇が崩御し、明治天皇は14歳の若さで122代目の皇位を引き継ぎ即位しました。時は、幕末の動乱期であり世の中が大きく変わりつつある頃です。
この明治天皇はわかりやすくまとめると近代国家としての日本を確立していった人物です。1868年には「五か条の御誓文」を発布し、元号を明治と定め都を東京に返還。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争では明治天皇が自ら指揮を執り、日本を勝利に導いています。
これらの経歴をみると偉大な天皇であることが分かりますが、実は明治天皇は別の人物にすり替えされたという説があります。
何故すり替え説が根強いのか?
明治天皇は即位前後の写真が残されているのですが、即位前はとても身体が小柄で弱虚体質でした。しかし、即位後は体重80キロを超え立派な体格であり、乗馬を好んだとあります。
また、利き手が右手から左手になっていたり、上手であったはずの字が大きく変わっていたりしています。
そして明治天皇は口の周りに天然痘に感染した跡があったため口髭で隠していたのですが、即位前にはその痘痕が無くなっているなど、不可解と思われることが数多くあります。
では、一体誰とすり替わったのでしょうか。
実はその人物とは、伊藤博文が率いていた隊士の大室寅之祐と言われています。この大室寅之祐は南北朝時代の後醍醐天皇の末裔でした。
長い間対立していた北朝と南朝の血筋が入れ替わった?
遡る事1336年、足利尊氏と光明天皇により後醍醐天皇が奈良・吉野に逃れ、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分離、それぞれ自分が正統な天皇だと主張する時代(南北朝時代)がありました。
そして、その根強い争いは幕末でも続き、討幕側(新政府)に南朝派が味方して、幕府側の北朝派を倒そうとする動きが発生しました。
その後、幕府に勝った新政府は、南朝の血筋を持つ者を天皇にしたかったようですが、これ以上は国内の混乱を避けるため、明治天皇が即位する時に、大室寅之祐にこっそりすり替えたという説が有力です。
これが本当なら、孝明天皇の代までが北朝の血筋で、大室寅之祐を明治天皇にすり替えた後は、南朝の血筋に移ったということになります。
即位後、明治天皇は後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成の銅像を建てたり、南朝こそが正統な血筋だと主張していますので、あながちあり得ない話とは言い切れないかもしれません。