有村俊斎(海江田信義)とは?無能説や西郷隆盛との関係、西郷どんの有村役を解説!

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有村俊斎(海江田信義)。歴史の舞台に上がるには、知名度が低いと言われる人物ではありますが、無能だと言われ、長州に嫌われた俊斎の人生とは、どのような人生だったのでしょうか。

西郷隆盛との出会いはどこだったのか、なぜ長州に嫌われることになったのか、また、現在放送中の西郷どんにおける有村俊斎役である高橋光臣さんについても解説していきたいと思います。

有村俊斎の生涯

有村俊斎は、天保3年、薩摩藩士である有村仁左衛門兼善の次男として誕生し、太郎熊と命名されます。すくすくと育ち、11歳のころ、島津斉彬の父・島津斉興の茶坊主として出仕し、俊斎と名を改めます。

 

尊王攘夷に傾く

嘉永2年、薩摩藩邸でお由羅騒動が勃発し、その煽りを受けた有村仁左衛門兼善と俊斎の親子は薩摩藩を追われ、暫し貧困の日々をおくります。斉興の隠居にともない、藩主となった島津斉彬の温情によって藩に復帰し、西郷隆盛、大久保利通らと精忠組を結成しました。

江戸藩邸で仕えることになった俊斎は、尊王思想をもつ藤田東湖ら水戸藩士との交流から、徐々に尊王派に傾き始めます。

俊斎は、西郷隆盛、大久保利通らとともに、尊王攘夷派が標的として狙う関白・九条尚忠、京都所司代・酒井忠義の殺害を計画しますが、藩で実質的権力を握る島津久光に知られ、未遂に終わっています。

 

弟が桜田門外の変に関わる

井伊直弼による安政の大獄をきっかけに、西郷隆盛、月照らとともに、薩摩に逃げ帰りますが、俊斎の2人の弟・有村雄助、次左衛門は、桜田門外の変に加担していました。

次左衛門は井伊直弼の首を切り落とし、その首を持ち帰ろうとしたところ斬りつけられて亡くなります。雄助は兄・俊斎の嘆願もむなしく、島津久光の命により薩摩にて切腹して果てます。

 

伯爵になれず

その後、俊斎は日下部伊三治の娘まつと結婚することとなり、日下部の旧姓である海江田の家を継ぎ、海江田武次信義と名を改めます。

明治維新の際、活躍した者たちが次々と伯爵になる環境の中で、俊斎だけは伯爵となることが認められませんでした。

明治10年、西南戦争において西郷隆盛の死に直面した後は、元老院議官、また、貴族院議員として活躍し、その後、枢密顧問官を任じられます。

明治28年には勲一等瑞宝章を、明治35年には勲一等旭日大綬章が授与された後、明治39年10月27日、75歳で数奇な人生を閉じます。

有村俊斎は無能だった?

無能説① 島津久光に西郷の居場所を漏らしてしまう

公武合体政策を進めるために上洛していた島津久光に対し、俊斎は西郷が過激藩士たちを抑えるために下関ではなく大阪にいることをうっかり漏らしてしまいます。

当時の西郷は月照との水上身投げの際に死んでいることになっているため、西郷の死が明るみに出ることを恐れた久光は激怒して西郷を流罪に処したのです。

もちろん勝手に行動した西郷が悪いのですが、流罪のきっかけを作ったのは俊斎なのです。

 

無能説② 生麦事件で外人を殺傷し、薩英戦争が勃発

彼を語る上で、忘れてならないことが、もう一点あります。それが、生麦事件です。生麦事件と言えば、文久2年、島津久光が江戸に出向いた帰り道に起こった事件になります。

8月21日、江戸を出発した際の島津の軍勢は約400名。武蔵国橘樹郡生麦村に通りかかった折り、上海のイギリス人商人のチャールズ・レノックス・リチャードソンは、同じくイギリス人商人で横浜在住のウィリアム・マーシャルらとともに、久光の行列と出会います。

言葉の通じず、習慣の違いを理解できなかったリチャードソンは行列の中に紛れ込んでしまい、久光の護衛に斬りつけられて深手を負います。

その傷を見て、もう助からないだろうと判断し、最後のとどめを行ったのが、俊斎(海江田信義)になります。

結局、俊斎が手を下したこのリチャードソンの死が原因で薩英戦争へと発展してしまうのです。

 

無能説③ 大村益次郎と険悪で暗殺を疑われた

戊辰戦争時、俊斎は西郷隆盛を補佐して新政府軍代表として務めますが、その席に置いて、長州藩の大村益次郎と意見が合わず、ことごとく対立します。

その際、辺りを憚ることなく、しばしば、大村益次郎を殺してやりたいと口に出すようになっており、そのことが原因で、大村益次郎が暗殺された際、俊斎がその犯人だと真っ先に疑われてしまったのです。

維新後、長州藩から危険視された有村は明治政府で出世することができず、なんとも残念な功績を積み重ねてしまった俊斎なのでした。

 

西郷隆盛との関係

もともと有村俊斎と西郷隆盛は近い関係ではなく、むしろ島津久光と接することが多かったようです。そのおかげか、俊斎は薩摩の郷中仲間の中では75歳と一番長生きしています。

先ほども書きましたが、俊斎がいなければ、西郷隆盛は島流しに遭っていなかったかもしれません。

西郷隆盛は短い人生の中で2度の島流しを経験しています。一度目は、奄美大島へ。二度目は徳之島から沖永良部島へ流されています。

その原因をつくったのが俊斎で、島津久光に西郷の場所を進言したことが発端になっています。

悪意があって進言したということではないかと思われますが、久光が西郷隆盛に対し腹を立てるべき事柄を言ったのは、周知の事実であります。その言葉がなければ、島流しに遭うことはなかったでしょう。

また、俊斎は島津久光と近い関係にあったことから、西郷隆盛が引き起こした西南戦争には参加していません。

西郷にとって、俊斎は流罪のきっかけを作った人物である以外にはあまり接点がなさそうです。

 

西郷どんの有村役は誰?

現在放送中の西郷どんでは、有村俊斎は、高橋光臣さんが演じています。

高橋光臣さんと言えば、数多くのテレビドラマ、映画に出演する実力派俳優ですが、彼を世に出したのは、スーパー戦隊シリーズ第30作を記念して制作された轟轟戦隊ボウケンジャーになります。主役であるボウケンレッド(明石暁)を好演しています。