武家諸法度とは、江戸幕府の大名に対して制定された基本法です。
この法を作った人物は徳川秀忠とされており、元和元年(1615)に発令された元和令が初めて発令されたものとされています。
この法令は将軍の交代と共に改訂され、徳川綱吉の発令した天和令には殉死の禁止や諸諸法度の統合などがされました。
そんな武家諸法度を作った人物や、内容、目的、天和令と元和令について解説していきます。
武家諸法度とは
作った人物
大阪の役で豊臣家を滅ぼした徳川家康が嫡男・徳川秀忠の命という形で、大名たちに全13ヶ条の法令がなされました。この法令の事を武家諸法度と呼びます。
また武家諸法度とされる他にも、元和年に発令されたことから、元和令と呼ばれることがあります。
この武家諸法度は将軍が交代すると共に改訂され、最初の元和令から最後の改訂となる享保令まで、徳川家によって改訂され続けられました。
目的
武家諸法度の制定の目的は、江戸幕府が定めた新藩大名、外様大名、譜代大名、3つに分類された大名の行動を幕府は監視し、反乱を起こさせないために制定されました。
第2代将軍・徳川秀忠が発令した元和令の中には、城の新規築城、無断で城の改築、無断で大名同士の結婚などは禁止されており、また第3代将軍・徳川家光が発令した寛永令では参勤交代が追加されています。
このように、大名同士の連帯を阻止し、軍事力を削ぐ目的として、武家諸法度は制定されました。
元和令
元和令は元和元年(1615)に制定された基本法です。
元和元年(1615)4月の大阪夏の陣が行われ、5月には大阪城が陥落となりました。
淀殿・豊臣秀頼が自害すると徳川軍の勝利となり、徳川家康は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の命でこの法令を発令します。
内容
この基本法は臨済宗の僧である以心崇伝が徳川家康によって慶長16年(1611)に制定された誓紙3ヶ条に10ヶ条付け加えたもので、その内容は治安維持の規定や政治、道徳上の訓戒、儀礼の規定などが記述されました。
元和令の代表的な条項を2つご紹介いたします。
新規築城の禁止、無断で城の改築の禁止
治安維持の規定や政治、道徳上の訓戒、儀礼の規定の他にも、新しく城を建てること、幕府の許可なしに城の改築を行うことが禁止されました。
元和元年(1615)6月に幕府は「一国一城令」を発布します。これは各諸国の大名は国に1つの城しか持ってはいけないという法令です。
戦国時代では自らの支配地域に多くの城を築城することができましたが、諸大名の軍事力を削ぐため、居城以外のすべての城の破却を命じました。
その後、同年7月に出された武家諸法度においても、これらの禁止が制定されるようになります。
攻略結婚の禁止
これまで、攻略結婚は多くありましたが徳川家康は大名同士の連帯を恐れ、幕府は許可なく大名同士が婚姻関係になることを禁止しました。
天和令
天和令は天和3年(1683)に第5代将軍・徳川綱吉によって発布されました。
第5代将軍である徳川綱吉は儒学を重んじていたため道徳により民を治める政治を目指していました。
このような文治政治は第4代将軍・徳川家綱から第7代将軍・徳川家継まで行われていたとされています。
天和3年(1683)頃はこれまでに発布されてきた武家諸法度に違反した大名たちの多くが改易、減封の処置に至ったため、失業者や浪人が増え治安の悪化へ繋がっていました。
また幕府で行われていた参勤交代や手伝普請は大名にとっては多大な出費で、諸国の百姓の生活苦にも繋がっていたようです。
内容
徳川綱吉はこのような時代背景を背に、主君の死を負って後追いすることを禁止した殉死の禁止や末期養子の緩和、幕府が旗本、御家人に対して定めていた諸士法度との統合などが条文として記述されました。
また文治政治を積極的に行っていた徳川綱吉は従来の武家諸法度、第1条に記されていた「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。」を、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と改めます。
武士にとって最も要求されていた馬術や弓といった武器の扱いよりも、徳川綱吉は忠孝や礼儀を重要視しました。
徳川綱吉の時代は、争いはなくなり、軍事的緊張はかなり緩和されていった時代でもあっため、このような改訂が行われたとされています。
武家諸法度の各法令
- 元和令
元和元年(1615)に徳川秀忠によって発令された法令です。
初めて制定された基本法で、治安維持の規定や政治、道徳上の訓戒、儀礼の規定などが記述されました。
- 寛永令
寛永12年(1635)に徳川家光によって発布されました。
参勤交代の義務化や大船建造の禁が追加されます。
- 寛文令
寛文3年(1663)徳川家綱によって発布されました。
キリスト教の禁止、不孝者の処罰規定が追加されます。
- 天和令
天和3年(1683)徳川綱吉によって発布されました。
文治政治を基に大きな改編がなされます。
- 宝永令
宝永7年(1710)徳川家宣によって発布されます。
- 享保令
享保2年(1717)徳川吉宗によって発布されました。
最後の改訂となる享保令ですが、その内容は宝永令を廃止しての天和令への差し戻しでした。
最後に
このように武家諸法度は時代背景とともに変化を遂げてきました。
武家諸法度に違反した人物として福島正則があげられます。
福島正則は、城の修復を無断で改築したとして武家諸法度違反に問われました。
その後、福島正則は減封、転封という厳しい処罰を受けることとなったようです。
江戸幕府における武家諸法度は厳しいものだったことが分かります。